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『雲仙記者青春記』第7章 謎のボランティア騒動

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』
(1995年11月ジャストシステム刊、2021年2月17日第7章公開)

彼らは、一体何者なのか

 話は1年ほど遡る。
 前線本部に着任して間もない1992年6月末。あるレストランで、ぼくは近くの席の会話に聞き耳を立てていた。その席にいる人たちに気付かれないよう、背を向けて。

 「こんないい話はない。被災者は喜びますよ」

 斜め後ろのボックス席には、3人の男性と若い女性が1人。
 身を乗り出してしゃべり続けている男性は40代半ば、小柄だがでっぷりと太っている。普賢岳災害に関するあるボランティア団体の事務局長を名乗るこの男性の名を、仮に「大山泰司」とする。
 彼の前には、関東で会員制スポーツクラブを経営する男性が座り、大山氏の言葉に満足そうにうなずいていた。

 土石流の恐れが出た際、避難を勧告された水無川流域の住民を収容する施設「復興センター」が竣工し、落成式が翌日に予定ざれていた。「災害で苦しむ深江町(現・南島原市)に何かお役に立ちたい」と考えたスポーツクラブ経営者は、3400万円相当の中古トレーニング機器を寄贈する定だった。
 仲介した大山氏は「センターの体育館にこれを置けば、退屈な避難中でもストレスを発散できるようになる」とエネルギッシュに話し続けていた。
 「本当にお世話になって」と頭を下げているのは、深江町役場の岸本房也復興室長。数日前、ぼくは岸本さんに呼ばれたのだ。

 「大山からまた寄贈話が来ちょっとばい。前の日に打ち合わせがあるけん、知らんぷりしてコソーッと聞かんね」

 この団体を初めて知ったのは、まだ島原に常駐する前の91年秋ごろだった。
 前線本部でワープロを叩いていると、若い女性が前線本部のガラス戸を開けた。「この前のイベントを、毎日さんは載せてくれませんでした。ほかの新聞はきちんと扱ってくれたのに」と、彼女は憤懣やる方ないという表情で立ち去った。
 ボランティアは無償の活動。社会的な評価を強引に求める姿は似つかわしくない。「変な奴だな」と思った加藤信夫デスクが、その後記者に素性を調べさせた。記者は本人に直接取材もしたが、結局、よくわからなかったという。
 この女性も仮名で「佐藤しおり」とする。ボランティア団体の隊長を名乗っていた。事務局長が大山氏だ。
 東京都立川市に本拠を置くこの団体は、91年の「6・3大火砕流」直前から島原に来ており、島原・深江の小中学生にヘルメットを大量に贈ったのを皮切りに、チャリティーバザー、被災地の子供たちを励ますイベントなどを開いてきた。
 ぼくが前線本部に着任してまもなく、ある新聞に「ボランティア 深江町に事務所移転」という記事が掲載された。4月30日から佐藤さんらが深江町に住み込んで活動するという。ぼくはこの取材をしなかった。なんとなく「彼らは報道を利用しているのではないか」という疑問があったからだ。
 そして、深江町復興室の岸本さんには「何か動きがあったら教えてくれ」と頼んでおいた。
 彼らの素顔を見極めたかったのだ。

 災害発生後から、島原、深江には多くのボランティアが駆けつけ、全国から贈られてくる無数の救援物資の仕分けなどにあたった。義援金は230億円も集まった。こうした善意に支えられて、普賢岳災害の被災地が、長期化した災害を切り抜けてきたのは間違いない。
 お金や品物を持参した人たちが、しばしば市役所や町役場を訪れる。「ありがとうございます」と頭を下げる姿、「お役に立てた」と喜ぶ笑顔。取材も楽しい。被災状況を伝える紙面はどうしても殺伐となるが、こうした温かい善意は潤いと優しさを与えてくれた。
 タレントの泉谷しげるさんは日本各地の街頭で突然ギターを弾き出してカンパを集める「フォークゲリラ」で、北海道南西沖地震の被災地と島原を熱く支援してくれた。
 しかし、中には疑問を感じる支援もあった。
 「代表者の名前が記事に載っていない」と、後で文句を言ってくる人もいた。企業名が入った大型の4輪駆動車が増え、市役所は次第に駐車場に困ってきた。賛沢をいうわけではないが、「受け取る側が今、何を必要としているのか」を考え、調べてくれたら、善意はすごく生きる。たとえば、自動車を贈るなら燃料費まで含めて寄贈するなどの工夫だ。
 残念ながら、現実には受け取った被災地が内心「困るが、断るわけにはいかない」と愛想笑いをしている場合があった。

 佐藤さんと大山氏の活動は、こうした「善意の強制」とは違っていた。

 不自由な避難生活を送る子供たちに、現役の大学生らが勉強を教える会。
 ホテルのフロアを借り切ったぬいぐるみのクリスマスショー。
 消防団員の叫週児を励ますための鯉のぼりのプレゼントやディズニーランドへの招待。

 企画はよく考えられていた。しかし、彼らの宣伝くささは鼻についた。パーティー会場の大きな看板には、「佐藤しおり隊長」という文字が、イベント名よりも大きく書かれている。
 島原でのバザーに出されたのは、人気タレントが提供したサイン入りTシャツ、洋服や帽子、ポスターなど。宮沢りえ、石田純一、今井美樹、柴田恭平、安田成美、加瀬大周、十朱幸代、原田知世、稲垣潤一、浅野温子、大地真央などの提供品がズラッと並ぶ。何事にも派手なのだ。
 被災地で金を集めて被災地に贈るというのも変な話だ。子供、芸能人など、マスコミが取り上げやすい要素を集めているようにも見えた。そのうえ、その資金がどこから出ているのかが不明瞭だった。 レストランで、大山氏は「この子は大したもんだ。島原のボランティアで、結婚資金に貯めていた800万円を全部使ってしまったんだ」と、隣の佐藤さんを指さした。東北出身の当時27歳。はにかむ彼女は可愛らしい。170cm近い長身でスタイルも抜群。大山氏は続ける。

 「しおりが『もし火砕流で死んだらどうしようか」って言ったことがあるんです。カッときて、俺は殴ったんだ。そんな中途半端な根性でボランティアができるかって。俺たちは命をかけてここでがんばっているんだ、と。
 そうしたら、しおりが『すみませんでした』と泣いてね。それから、この子は目の色が変わった。本当のボランティアの意味がわかったんですね」

  ボランティアとは、命や財産をかけてまですることではない。これは信じろというほうが無理だろう。大山氏はすべてにわたって話がオーバーだった。岸本室長ら行政関係者も不審に思っていたのだ。
 岸本さんは「ところで、大山さんはどうしてこういう活動を始めたんですか」と話を進めた。もちろん、すぐ近くにいるぼくに聞かせるためだ。
 本人が語るには――。

「大火砕流が起こる前、91年の5月10日にすでに活動を始めてたんですよ。『6・3』の後からボランティアに来た連中とは違うんです。N衆議院議員の紹介でね、島原市のホテルに泊まった。東京からわざわざ来たボランティアだっていうんで、ホテルは感激して宿泊費をただにしてくれましたよ。
 その後に大火砕流。避難住民をホテルに収容したでしょ。8月まではそこにいたんだけど、被災者でいっぱいになったからね、部屋を空けたんだ。そのときに多くの被災者と知り合いになったんです。
 子供は退屈で、ホテルの中を走り回る。大人はみんなイライラしているから、私たちが子供の相手をしてやった。仲よくなった子は、ずっとおじちゃんたちに島原にいてほしいな、って言うんですよ。それでボランティアとしてがんばる気になったんですね。私は熊本県の出身。同じ九州人として他人事とは思えません。
 17歳で上京して、働きながら勉強した。スタントマンみたいな仕事をしてたんです。交通事故防止のためのヘルメット着用キャンペーンをしたこともあった。警視庁が喜んで全面的にバックアップしてくれて、表参道でイベントをやる許可をくれた。そのときのビデオもありますので今度見せましょう。この普賢岳災害でも、子供の安全を守れるヘルメットを贈ったら喜ばれるんじゃないか、と思ったわけです」

 スポーツクラブの経営者は感心して聞いている。岸本さんがときどき相槌を打つ以外は、大山氏の独演会だ。

 「ボランティアっていうのは、本当に金がかかる。日本全国どこへでも行くけど、旅費がないんです。
 今だって、電話代で1回線10万円以上かかっている。テレホンカードを作って、活動資金を集めたんだけど、なかなかね。趣旨に賛同した外国人夫婦が大量に買ってくれたんで、今はなんとかなっている。
 全国に8000人の会員がいるんですけど、会費は取ってないんです。ボランティアだから、自主的なカンパだけにしています」

 佐藤さんも「東京から来たっていうことで、金があるんだと思われて。ホテルの後は借家を借りたんですけど、いきなり1万5000円も値上げされて困りました」と話す。
 大山氏は続けた。

 「岸本さん、今度のトレーニング機器贈呈に、町長から感謝状を出していただいてありがとうございました。これで仲介した私の顔も立ちます。
 次は救急車を贈る予定です。それも、ベンツですよ。贈呈式には医師会長や保健所長も呼んで、それぞれから感謝状を渡してくれるよう、手配をよろしくお願いしますよ」

 翌日の復興センター落成式で、横田幸信町長はスポーツクラブ経営者に感謝状を贈った。その横で、佐藤さんがほほえむ。新聞各社のフラッシュが光り、テレビカメラが回る。大山氏はトレーニング機器を使ってみせるよう、佐藤さんに指示した。
 彼女は「そんな、恥ずかしいですよ」と照れたが、すでにスポーツウェアを着ており、にこやかにマスコミサービスしてくれた。美しい女性が実際に汗を流してくれるなら、報道する側には言うことがない。いわゆる「いい絵」が撮れる。
 ぼくは大山氏に「あなたも写真に入ってくださいよ」と言ってみた。すると、驚いたことに彼は「ぼくはね、麻薬などでの警視庁の情報源でもあるんだ。人脈が広いもんだから、重要な情報が入ってくるんだ。そのぼくがテレビや新聞に顔を出すと、警察が困るんだよ」と言って拒否した。そんなばかな。「私は警察に情報を流してます」と公言する情報源はいない。大山氏本人に、顔を出したくないわけがあるとしか思えない。
 なんのためにこうした活動をしているのかよくわからないが、ぼくは大山氏と佐藤さんを要注意人物だと判断した。

 岸本さんも後で、「大山が、「ジム社長の往復交通費10万円を町で出してくれ』と頼んできたよ。交通費を出しますから、と言っちゃったんだそうだ。被災地に寄付するのに、されるほうに金を出せとは」とあきれていた。
 「この連中のことは毎日新聞には一切載せない」と、改めて決意した。

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南側から普賢岳を望む
手前に見える扇状地が深江町

見えない素顔

 それから、ひまを見つけては大山氏らの情報を集めるよう心がけた。
 大山氏と佐藤さんが2人で住み込む家に行き、「おふたりの心に感銘を受けました。もうちょっと話を聞かせてください」と、何くわぬ顔で聞いたこともあった。

 家は深江町の真ん中にある1戸建て。「前の借家は値上げされて困ったが、今度の大家のおばあさんは『活動に感激した」と、家賃も取ってくれないんだよ」と大山氏は言う。
 しかし、入口には「監視カメラ設置」などと物騒な貼り紙もあり、一見して普通ではなかった。
 棚には「ボランティア活動記録」などのファイルが並び、机の上には携帯用の無線機がいくつも乗っている。ソファーにどっかり座った大山氏は、身振り手振りを交えて話しだした。

 「危険な場所に来ているんだから、安全を確認するには無線がいるじゃないですか。無線を開局しようとしたら、認可には時間がかかると電波局が言う。ふざけるな、こっちは身体を張ってるんだ、とどやしつけてやりましたよ。
 ぼくは政治家の知り合いも多いので、すぐに郵政省に話をつけました。電話で謝ってきましたよ」

 いつもの調子で、大きな話が続く。政治家の名前がよく出てくるのが特徴だ。

 「1年くらい前の記事を見ると、佐藤さんは名字が違いますね。これは何か理由があるんですか」と聞くと、大山氏は「ボランティアで名前を売っている、と思われたら嫌じゃないですか。初めは本名だったけど、今は佐藤にしてます。言ってみりゃ、ボランティア・ネームですよ」と答えた。芸能人じゃあるまいし、と思わず吹き出しそうになったが我慢した。
 ちょうどそのとき、寝起きのような顔をして、佐藤さんがジャージ姿で出てきた。この家に住んでいるのは2人だけで、「どういう関係なのか」「いくらボランティアとはいえ、男女が同じ家に住むっていうのはおかしい」などといぶかしがる人が多かった。
 「彼女は昨日も遅くまで執筆してたんですよ」と大山氏。佐藤さんの名刺には、「隊長」と並んで「医療食評論家」という肩書がある。東京の薬科大教授と一緒に、アトピー性皮膚炎に効果がある栄養食の研究をしているという。
 その後、大山氏は、聞きもしないのに話し出した。

 「ぼくらに『被災者へ渡してくれ』と義援金を寄せる人の中にね、領収書をくれと言う人がいるんですよ。何もわかってないんだな。もう銀行に振り込んだ領収書があるじゃないですか。そのうえでぼくらが出したら、二重になっちゃう。
 礼状もね、大口の人には出してますけど、100円、200円の人まで出していたら、こっちは活動する暇も金もなくなっちゃう。
 義援金をなんで役場に渡さないのか、と言う人もいるが、われわれは『被災者に渡してくれ』ってもらうわけでしょ。私たちは、現地の実情を自分たちでよく調べて、本当に困っている人に直接渡すんですよ。行政のためにやってんじゃないんだから」

 しかし具体的に金の使い途を聞くとはっきり答えない。道理の通らないことを、いかにもという理屈を付けて説明するのも彼の特徴だ。
 警視庁が協力したという、彼ら主催の交通安全キャンペーンのビデオも見せられた。
 警察主催の集会とパレードの後で、大通りで事故を再現する映像が流れた。映像に合わせて「ここで制服警官が手伝ってくれています」と大山氏のナレーションが流れる。沿道にはたくさんの人がいる。「1万7000人集まったんです」と、大山氏は胸を張った。
 しかし、キャンペーンといっても、オートバイや自動車が派手に衝突するシーンばかり。「無理に車線変更すると、こうなるっていう実演です。私は元スタントマンだから、こういう仲間を集めるのは簡単ですよ」と話すが、沿道のギャラリーは衝突シーンに歓声を上げて大喜び。「交通安全」を訴えているとは思えなかった。

広がる不信

 彼らが最初に入ったホテルも訪ねた。
 唐突な取材に、ホテルの経営者夫婦はいぶかしげだったが、趣旨を伝えると「彼らは本当に変ですよ。ぜひ調べてみてください」と、すべて話してくれた。

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取材風景 25歳くらいか

 宿帳によると、大山氏らが初めて来たのは91年6月2日、「6・3大火砕流」の前日だった。
 ある代議士の秘書から「世話をしてやってくれないか」という連絡があった。このときは数日で東京に戻っていったという。
 経営者は「もともとの知り合いではないようでしたよ。秘書に頼み込んだみたいでしたね。災害でバタバタしていたし、ボランティアなのでお代をいただきませんでした」と話す。

 次に来たのは6月下旬。
 「今度も少しくらいならただにしてあげようと思いましたよ。ありがたいことですから。でも、1カ月以上も泊まられて、電話やファクスも相当使われると、ちょっと……。支払いをどうするのか、きちんと確認しなかったこちらも悪いので、通信代だけは請求しようと思ったんです」と説明した。
 このころ、ホテルには米やヘルメットなどが東京の企業などからどんどん届いていた。大山氏らは自衛隊に炊き出しなどをしていたらしい。
 ある日、ホテルから佐藤さんの姿が見えなくなった。大山氏に聞くと「母親が入院したんでね」と言う。ところが帰ってきた彼女に「いかがでしたか、お母さまのご加減は」とお見舞いを言うと「いえ、母には会ってませんよ」と答えたという。
 「やっぱり何かおかしい」と不審に思った夫婦が、それとなく宿泊代などについて相談すると、大山氏は得意の話術で話をそらした。
 奥さんは「大山さんは『自分が社長でしおりは社員みたいなもの。なんでもぼくの言うことを聞いてください』と話してました。一体、東京で何をしている人なんだろうと不思議で。女性は途中から佐藤に名字が変わったし、つかみどころがない、という感じでした」と首を傾げる。

 夫婦が決定的に不信感を持ったのは、7月末に2人がラジオに出演しているのを聞いてからだった。
 「島原でもう1400万円もつかってしまった、て言ってるんですよ。話しぶりでは現金を寄付したということではなく、ボランティアの経費だけのようですが、宿泊代も食事代もうちの負担。レンタカー代もあの調子でただにしてたんです。それなのに、ラジオで資金カンパを呼びかけていた。だんだん腹が立って出ていってもらいました。嘘つきだし、今ではまるっきり信じてません」
 このホテルでかかった通信代は20万円以上。請求すると、大山氏は不機嫌な顔で支払って出ていったという。

 このほかにもおかしな話はいっぱいあった。
 大山氏は「今年の『6・3』では、全部の遺族に花を贈ったんだ。ある遺族の家では、勝手に家に入って寝てたって文旬言われないほど信用されてる。そんなボランティアいないよ」と自慢する。
 しかし、配達した花屋に聞くと、注文は大きな花束3つだけ。日本人犠牲者は40人もいるのだが。

 彼らと関わりがあった人を訪ね、話を聞く作業を繰り返していたぼくは、浜野支局長から「もういいよ。連中はいずれいなくなるから放っておけば」と勧められた。浜野さんが言いたいことはよくわかっていた。「そんな連中より、被災者の生活を報道するほうが先だ」という意味なのだ。
 しかしぼくは、「被災地の名をかたって、人の善意を食い物にしているとしたら」という疑念を消せないでいた。もしそうなら、毎日の記者としてだけでなく島原の人間としても許せない。どうせ無趣味なのだからと、休日を使って情報を集めていた。

傷つく善意の協力者

 大山氏らが主催したクリスマスパーティーの品物を運んだ、という市内の運送屋さんに会ったのは、7月中旬。なんと、彼は大山氏に金を要求されていた。
 この人も「島原のためにがんばってくれているのだから」と、ボランティア事務局あてに届く物資を長崎市の倉庫から無償で運んでいた。そのうちに、この運送会社に直接荷物が届くようになった。
 社長は「テレビで、救援物資の送り先としてうちの住所を出したらしいんです。まあ、出してしまったんならしかたない、と思いましたが」と振り返る。

 この会社は、貸切バス業界への進出を検討しでいたが、まだ免許が取得できていなかった。その話を聞いた大山氏は「自民党の運輸族なら、金丸信(元副総理)や橋本龍太郎(後の総理)をよく知っている。口を聞こうか」と持ちかけてきた。
 翌月、特別立法を求める大陳情団が上京する予定で、社長もその一員だった。陳情の合間に会えるようにしてあげよう、ということだったので、社長は「本当かな、と思いましたけど、早く免許が欲しかったですからね。お願いしました。何かお土産が必要なんですか、と聞くと、大山さんは『政治家にはいろんな物が届きますから、あまり気をつかってもしょうがない。地元の特産品でいいですよ』と言われました」と話した。
 ところが、陳情に出発する直前、佐藤さんから会社に電話があった。「海産物などを揃えましたよ」と言うと、佐藤さんは「そんな田舎の品では」と反対した。

 「じゃ、何がいいのかというと、はっきり言わないんです。現金のほうがいいのでしょうか、とこっちから言うと、『はっきり言えば、そうですね』と言いました。
 金額は1人につき10万円。『政治家が3人、秘書が2人で50万。お宅の申請にはこちらもだいぶつかっているから、合計で60万円あれば』と金額を指定しました。そのうえ、政治家に渡すにも時期を選ばないといけない、とりあえず自分たちの口座に振り込んでくれ、とも言うんです。
 びっくりして、金ばかりかかるなら頼まんでよか、と電話を切りました」

 東京のホテルのロビーで、佐藤さんはなおも「もう免許が下りるのが目の前なんですよ。ここで押しておかなければ、今までの苦労が水の泡です」と説得を続けたそうだが、大山氏は逆に「しおり、もういいよ。ご本人がそう言うならしかたないじゃないか」となだめるように言った。「でも、もったいないですよ」と、2人の会話は続き、社長は「くさい芝居を見ているようで呆れた」と言う。
 支払うつもりは毛頭なかった。

 まだまだ不明瞭な点はあった。
 「東京の大学祭で彼らが“普賢岳救援バザー”をしたらしい」という情報を得て、いくつかの大学に電話で問い合わせると、跡見学園と聖心女子大から反応が得られた。

 跡見は高校の文化祭でのチャリティーバザー。2日間で、収益は約60万円あったという。生徒会担当の教師は「とくにおかしなことはありませんでしたよ。ボランティアの名前で領収書をもらいました。その後どう使っていただいたかの連絡はありません」と説明する。
 聖心女子大の学生社会奉仕サークルは、彼らが以前島原市で開いたクリスマスパーティーに協力していた。学生サークルには島原市長と深江町長、両市町の被災者団体からの感謝のメッセージも届いており、学校の信用を得た。このメッセージも深江町復興センターのケースと同様、大山氏が役場と被災者団体に求めたものだった。
 学生課外課長のシスターは、丁寧な口調ながら「仮設住宅で不自由な生活を送るお年寄りに風呂を用意する資金や、子供たちの教育にあてたい、ということでした。活動内容を聞いて、学生と一緒ならばと大学祭への参加を許可したんです。ただし、販売行為ではなく写真や資料を飾ってカンパを集める約束でした。ところが、前日に会場を巡回したら、タレントのTシャツや溶岩塊などに値札が付いているんです。すぐにやめさせましたが、大山さんはすごく怒りました」と電話取材に答えてくれた。

 東京での活動を手伝った女子大生は、「深江のボランティアのことでおうかがいしたいのですが」とぼくが電話すると、「私は一緒に住んでいる姉です。本人は今いません」と居留守を装った。
 後で誤解が解けて質問できたが、彼女は「メンバーはたくさんいると聞いていたのに、活動ではいつも大山さんと佐藤さんの2人だけ。おかしいなと思っていたら、大山さんが偽名を使っていたのを見たんです。もう怖くて関わり合いたくなかったんです。嘘をついてごめんなさい」と告白した。

 別の女子大生は、深江町で子供たちに勉強を教えたことがあった。「新聞で募集しているのを知って参加しました。感激でした。もう一度ご協力したい」と、受話器に弾む声が響く。
 これでは取材にならないので、こちらの意図を説明し、ボランティア期間中に「何か変なことがなかったか」「金銭的に不明瞭な部分を感じたことがなかったか」などと聞くと、彼女は押し黙ってしまった。
 大切な思い出に取り返しのつかない傷を付けたようだった。この子はもう二度とボランティアには参加しないだろう、と思ってつらくなった。

立件を検討するも…

 島原警察署でも、彼らの行動に強い関心を持っていた。
 ある日、刑事が前線本部にぼくを訪ねてきた。「大山たちの情報を調べていると聞いた。知っていることを教えてほしい」と言う。ぼくは、ある程度の情報を提供した。
 その後、署の幹部とこの問題をよく話し合った。「なんとかならんですか」と言うと、幹部も「気持ちは同じだけど、なんといっても容疑が固まらないことにはなあ。ボランティアを名乗っている以上、任意で同行を求めただけでも大問題になる。だいたい、大山の身元もわからないんだ。佐藤は、彼女が言っているとおりの本名で、本籍地も正しかったが、大山は皆目わからないんだ」と困っていた。佐藤さんは深江町に住民票を移していたが、大山氏は届け出ていなかった。
 幹部はくわしい容疑事実を話さなかったが、刑事によると容疑は詐欺と横領だった。

 大山氏と佐藤さんが、自分たちの活動を写した写真や新聞記事を持って、いろいろな企業を回っていることはわかっていた。
 仮に、10の企業が50万円ずつ義援金を彼らに託したとする。彼らがもし、500万円のうち200万円だけをボランティア活動にあてて、「御社を始めとする4社のご協力で、これだけのことができました」と、礼状と新聞記事を送ったら、企業は信じるだろう。ぼくはそう推測したが、はっきりとした証拠はつかめなかった。

 一方、警察も障害に突き当たっていた。そもそも、ボランティアの活動を規定する法律がないのだ。
 「被災者に渡します」と言って集めたバザーの利益やカンパを、全額懐に入れていたら、これは犯罪だ。しかし、彼らは実際にボランティア活動もしている。活動にはある程度の費用はかかるだろう。カンパの一部が活動経費に消えてもしかたない。
 これを拡大して考えれば、100万円のうち90万円をくすねたとしても、犯罪にはならない。いくら以上を寄付しなければ犯罪、という線はないのだ。「必ず全額を被災地に渡す」という約束でもしてあれば別だが、善意で協力した人がそんなことに疑いを持つはずがない。

 金銭面を諦めたぼくは、企業が物品を大山氏らに寄付し、それが被災地に届かず横流しされたケースを探した。
 東京のある企業は、感謝状贈呈などで市長や町長と一緒に写っている佐藤さんの写真を見て信用し、物資を提供していたが、取材の目的を知ると突然「当時の資料がない」と非協力的になった。関わり合いになりたくないのだ。
 警察の大山氏の関連資料は分厚いファイルになっていたが、次第に刑事事件とする話は立ち消えになっていった。

7_19910818夕陽の噴煙

島原以外にも広がる活動

 彼らの活動を苦々しく思いながら、時が過ぎた。
 ある報道で彼らの活動を知った有名な女優が、「活動資金に使ってください」と330万円を寄せたことを知った。この金がまるまる大山氏らの懐に入る、と思うと悔しくてたまらなかった。

 ある日、たまたま長崎支局に出向いていたぼくに、浜野支局長から「テレビに今、佐藤しおりたちが映っているぞ。こんな連中を取り上げるな、と抗議しろ」と電話があった。
 学生を集め、被災児童たちに塾を開いているという話だった。全国各地から集まって、熱心に学習指導する学生の横で、佐藤さんが気ぜわしく世話をしている。
 そして案の定「佐藤さんたちは活動資金に困っています。全国の皆さん、善意の送り先はこちらです」という紹介とテロップが流れた。

 カッとなって、東京のキー局に電話して担当者を呼び出し、「私は島原の市民ですが、あの連中がどんなことをしているのか知らないのでしょう。地元では不評で、警察も調査に乗り出しています。もう二度と取り上げないでください」と抗議した。
 担当者は「お話はわかりました。上司に伝えます」と答えた。切ろうとすると、突然名前を聞かれた。ホッとしていたぼくはうろたえて、「浜野と言います」と言ってしまった。電話番号は適当にデタラメを教えた。

 1時間くらいして、長崎支局にいたぼくに電話があった。「先ほど電話された神戸さんですね。〇〇テレビのものです。部下から話を聞きました。もう少しくわしく教えてください」と言う。
 後で電話帳を見ると、島原市に浜野姓は1軒しかなかった。104で調べて電話すれば、浜野さんの奥さんが出る。当然奥さんは「私は知りませんけど、夫でしょう」と、前線本部の電話番号を教える。もちろん浜野さんは「電話したのは、うちの神戸です。今は長崎支局にいますよ」と答えたわけだ。恥ずかしい話だ。
 「バレちゃったな」と頭をかいて、「同じマスコミなので、放送内容に注文を付けにくかったんです」と謝った。
 開き直って、ある程度の情報を流した。

 ディレクターは「実は、この学生たちが学習塾を終えた後、どれだけ人間的に成長したかを第2弾として放映する計画があるんです」と言う。「こんな連中を取り上げれば、お先棒を担ぐことになりますよ。報道機関としての判断がおありでしょうから、私はとやかく言いませんが、いずれ恥をかきますよ」と注意した。
 現地の記者からここまで言われたら、取材を躊躇するだろう。第2弾は見ることがなかった。

 92年11月。沖縄県竹富町の西表島付近で群発地震が起きていた。知人から「大山が現地に行くらしい」という情報が入ってきた。「連中、また何かやらかすぞ」とすぐに島原署に行ったが、警察はすでに把握していた。
 しばらくして、ある新聞が「災害ボランティア協の救援物資 地震続く西表島が拒否」という記事を載せた。大山氏らのことだった。
 記事によると、大山氏の団体は「全国災害ボランティア連絡協議会」と言い、1983年に「サラリーマン、主婦、学生らで設立した全国唯一の災害ボランティア」だという。だが、深江町でのボランティア団体とは名前が違う。沖縄県出身者らの要望を受けて支援することにしたという。
 贈ったのはヘルメット1000個、ポータブル発電機3台、キャンプ用テント(10人用)15張り、石油ストーブ15台で、メーカーなどから無償で寄付を受け、現地のホテルに搬送していた。さらに、大火砕流で焼失した大野木場小などの子供が書いた見舞いの手紙や千羽ヅル、義援金計約10万円も大山氏らが持参した。
 ところが、西表小中学校は千羽ヅルと手紙は受け取ったが、ヘルメットやテントなどは受け取りを拒否。別の中学校は、ヘルメット62個とテント1張りをいったん受け取ったものの、大山氏あてに着払いで返送した。ある小学校もヘルメット21個、発電機1台、見舞金7万5500円などを贈呈式までして受け取ったが、すべて返送した。各公民館も受け取りを拒否したという。
 この反応が島原警察署からの連絡によるものであることは明らかだったが、大山氏らの行動はあくまで“ボランティア”だから、町としてはそのことを公表はできない。
 町の総務課長は「ヘルメットは学校からの要望ですでに予算措置をして発注ずみ。品物が届いているところもある。面識のない団体から、突然の寄付の申し出で、受け取るかどうかの検討もできなかった。まだ大きな被害も出ておらず、受け取る考えはない」と苦しい弁明をしている。
 逆に大山氏は「児童にヘルメットをかぶせてあげられたのに、取り戻された児童の気持ちを思うと胸が痛む。返送された義援金などは事情を説明し普賢岳災害に使っていただく」とコメントを新聞に寄せていた。

 現地の新聞記者にしてみれば、町の対応はたしかにわけがわからなかっただろう。大山氏寄りの記事を書いたのもしかたない。「何も知らないんだな」と、そのときはやり過ごしたが、1週間後に続報が出た。
 「普賢岳被災園児義援金 竹富町“宙に浮く”」との見出しの記事は、「物資とともに受け取りを拒否された義援金が、行き先を失ったまま、宙に浮いている。同町は『善意を拒否したわけではない』と釈明するが、突き返した理由が依然ハッキリとせず、関係者や西表島の住民の間に当惑や憶測が広がっている」と記していた。
 記事は「本土からの援助に妙なコンプレックスがあったのなら恥ずかしい」など、住民の中に広がるいくつかの憶測を挙げているが、その中に「ボランティア連絡協の性格がはっきりつかめないうちは、安易に受け取れないとの判断があったのでは」とあった。
 これが正解なのだ。

 本音を言えない町が次第に追い詰められていくのを見過ごせなくなり、ぼくは知り合いにこの新聞社へ電話してくれるよう頼んだ。自分でしなかったのは、もちろんテレビ局のときの愚はおかすまいと考えたからだ。
 この知人は宮崎春而(しゅんじ)さんといい、ベストセラー『まぼろしの邪馬台国』を著し、第1回吉川英治文化賞を受賞した島原市在住の作家、故宮崎康平氏の息子さんで、海外150カ国で公演した和太鼓グループ「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元リーダー。現在は市内で広告代理店を経営している。年が近いこともあって、島原では兄貴のような存在だった。彼も大山氏らのうさんくささに不信感を抱いていた。
 春而さんは自分の身元と連絡先を明らかにした上で、彼らが島原で疎じられていること、金銭的に不明瞭な部分があることをはっきりとその新聞社に伝えてくれた。
 これが影響したのかどうかはわからないが、報道は止まった。

ついに週刊誌で追及キャンペーン

 大きな災害が続いた1993年。7月の北海道南西沖地震で、大山氏らが被災地にスコップを大量に贈ったという話を聞いた。「災害を利用して、また名前を売り込むとは」と、苦々しく思ったが、すっかり疲れ果てていて、三たび彼らを追及する余力はなかった。

 そして8月ごろ、「週刊ポスト」の編集部員から電話がかかってきた。「大山氏らのことを取材したい」と言う。
 彼とは、鐘ヶ江前市長が退陣を表明した直後、92年の秋に島原で会った。
 「突然の退陣表明は、市長宅に直接贈られてきた義援金を着服したことがバレそうになったからだ」という噂を聞き付け、取材に来たのだが、当時は鐘ヶ江市政の後継者、吉岡庭二郎氏と対抗馬の県議との激しい前哨戦が始まっており、噂は選挙がらみの根も葉もないデマだった。
 「こんなことが雑誌に載ったら大変なことになる」と思い、訪ねてきた彼に事実無根であることを説明した。そのとき、「それよりこっちを取材したらおもしろいですよ」と、大山氏らに話題をずらしたのだが、それを思い出したらしい。
 電話からまもなくして、ポストと契約したフリーライターが出張してきた。ぼくは全面的に協力を申し出て、それまでに取材した“疑惑”のすべてを話した。「ぼくからの伝聞情報で書くことは絶対にしないで、この人たちの承諾を必ず取ってください」と念を押してから、ホテルの経営者夫婦や運送会社の社長の連絡先を教えた。

 「被災地も激怒! 謎のボランティア集団の『大悪評』
 大見出しが躍った「週刊ポスト」93年9月3日号は、地元に大きな波紋を広げた。記事はぼくが提供した情報で組み立てられていた。
 運送会社社長やホテル経営者夫婦は、ポストにもすべて同じことを話していた。「1か月もホテルにタダ宿泊」「芸能人にも協力者がいっぱい?」「政治家1人に10万円を用意」「麻薬捜査の協力者だった?」「金丸、橋龍の名も利用――」と見出しが並ぶ。
 宮崎さんが「どの本屋にもないんだよ」というほどすぐに売り切れた。「大山氏と思われる太った中年の男が何冊も買い占めた」という噂も流れるほどの反響だった。

 記事の中で、「当地で取材を続ける全国紙の記者に聞く」と、匿名でぼくのコメントが紹介されていた。「別の全国紙記者がいう」と記述もあったが、これもぼくの話したこと。週刊誌ならではのボカシのテクニックなんだな、と妙に感心した。
 このころから、深江町にある彼らの本拠地は、入り口の門にチェーンがぐるぐる巻かれ、「取材はお断り」という張り紙がされた。

 翌週号は「島原で悪評の『謎のボランティア』代表が本紙に反論 『ニセ被災者が私達を批判しているんです』」。ここまではぼくも大山氏から聞いて知っている内容だったが、連載開始後ポスト編集部には各地から情報が寄せられていた。

 追及第3弾は「“謎のボランティア団体”代表の不可解な金銭トラブル!」。記事によると、大山氏は91年12月、長野県でイベント会社を経営するA氏に「金曜ファミリーランド(注:当時のテレビ番組)オールスターF1大運動会」という企画を持ち込んだ。そのときの肩書はプロデューサー。
 A氏は「格安で150万円でできるようにする。大至急手付金を振り込んでくれ、というわけです。ウチも資金不足でしたが、5月1日に私が80万円を三菱銀行立川支店の大山さんの口座に振り込みました。この日は一刻を争うという感じで、大山さんから15分置きに“まだか、まだか”と電話をかけてきましてね。入金があった途端、電話がピタッと来なくなって……」と説明している。
 しばらく音信がなく、不審に思ったA氏が電話すると、「企画は警察の許可がおりず、フジテレビの都合でボツになった」と大山氏は言った。金を返してほしい、と何度も電話や手紙を出したが、ようやく連絡が取れたのは6月中旬だったという。
 A氏は「聞けば“雲仙でボランティアをやってる”というじゃありませんか。何を言ってるんだと思いました」と怒る。
 結局、8月までに分割して返済されたが、この時期は島原市のホテルに居候していた時期にあたる。この間、全国から多数の現金書留や支援物資がホテルに届いていた。返済にあてた80万円を義援金から出したのではないかとポストは指摘したが、大山氏は「弁護士を通してくれ」と取材を拒否したという。

 さらに追及は統いた。
 第4弾では立川市のディスカウントショップに、佐藤さんが大量のヘルメットを持ち込み、換金していたということが暴露された。ショップによると、ヘルメットは新品だったという。島原でも小、中学校にヘルメットを贈ることから、大山氏らの進出は始まったのだ。
 大山氏の要請でヘルメットを寄贈した団体は、ポストの取材に対して「全部で1万個は越えてましたね。送り先はそれぞれの学校ではなく、大山さんのところです」と答えた。この一部を転売していたなら、由々しき問題だ。

 最後の追及第5弾は「『謎のボランティア団体』代表に捜査当局が重大関心」。ここで、大山氏と佐藤さんがカンパをしたある男性に「島原から撤退する」と手紙を出していたことが明らかになった。「避難民の大半が公営住宅に転居▽資金調達に限界▽スタッフが疲労困憊▽東京の直下型地震が予想され、活動の立て直しが必要」、と理由が列挙されていたという。最後の項目に、彼らのいいかげんな素顔がのぞいている。
 しかし、刑事事件に問えるほどはっきりした“容疑”はとうとう出てこなかった。状況証拠は真っ黒ながら、彼らは法の網をすり抜けたのだ。

 しかし、こんな報道をされたら、もうボランティアはできない。彼らが島原から姿を消したのは1993年11月24日だった。大山氏の名はやはり偽名だったこともわかった。


19931001星空と火砕流

 当時の島原署刑事課長は「だまされた企業も非協力的でね。恥をさらすようなもんだから。学校も『イベントに協力してがんばった子供のことを考えると、悪意だったとは思いたくない」と言うし。捕まえれば、社会的な反響はすごかっただろうから、どうしても事件にしたかったんだが」と振り返る。
 それはぼくも同じだった。

 彼らがいなくなって、しばらくしてから気づいた。
 「新聞で書けなきゃ、サンデー毎日で書けばよかったんじゃないか。やっぱりアホだな、俺は」

(第7章 了)

『雲仙記者青春記』第8章「島原で出会ったジャーナリストたち」に続く

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