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『雲仙記者青春記』第8章 島原で出会ったジャーナリストたち

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』
(1995年11月ジャストシステム刊、2021年3月3日第8章公開)

報道人にとっての島原

 毎年6月初め、多くの報道関係者が島原市に集まる。「6・3」取材のためだけではない。毎日新聞労働組合が中心になって開く「マスコミ雲仙集会」があるからだ。

 約300人の報道関係者が参加する集会は「島原の声を全国に」をテーマに、これまで毎年欠かさず開かれてきた。
 日々のニュースに追われる記者は長いスケールの報道が苦手なだけに、「喉元過ぎても熱さを忘れない」という誓いの意味もある。多くの記者が被災地をじかに見て、災害対策の不備を指摘したり、報道のあり方を問い直す意味は小さくない。
 毎年開催するのは、3人の犠牲者を出した毎日労組の意地でもある。

 この集会が始まったのは、大火砕流惨事の大きな犠牲と、その後に巻き起こった厳しい報道批判がきっかけだった。

 朝日新聞は惨事直後の紙面で、「『人災だ』憤る住民 『報道合戦、地元巻き込む』」(1991年6月5日)と指摘した。
 長崎県警の記者クラブで、その記事を書いた記者にぼくは「寸前まで一緒に取材していたのに、他人事のようによく批判できるな」と食ってかかったことがある。その記事を読むのは、ぼくらにはつらすぎた。
 「6・3」直前の猛烈な取材攻撃に圧倒され、反発も感じていた住民は、この記事によって「消防団員や警察官は報道の犠牲だ」という反マスコミ感情を強めたように思う。「マスコミお断り」と貼り紙された避難先の体育館もあった。
 「6・3」当時、毎日新聞西部本社の報道部長だった三原浩良さんは、「取材の安全確保はどうなっていたのか」「緊急時の避難マニュアルはあるのか」などと、他社の記者から質問攻めに遭っている。中には「警察から危険なので入らないように、と言われている避難勧告地域に、なぜ記者やカメラマンを入れたのか」と糾弾する記者もいた。
 三原さんが「あなたはあの現場にいてあの区域内に入ったことはないのか」と問うと、自分も入っていたという。
 三原さんはのちに、「『なぜ入ったのか自分で考えてみたらどうか』とお勧めするほかなかった」と記し、こう続けている。

 やがて時間の経過とともに犠牲者を出した社とそうでなかった社の間、あるいは個人の間にも運、不運としか言いようのない紙一重の違いしかなかったことが次第に明らかになっていく。
 実のところ、こうした若い記者たちの口調とそれに追従するような事実に基づかぬ一部の論調に私は呆然としていた。われわれが先輩から教えられ、また自身そう考えてきた報道に携わるものの心組みというようなものとはかなり異質な考え方がそこにはあるように思えたからである。

 少々の飛躍を承知の上で言うのだが、そこには、わが身の安全、安住をまず何よりも優先させるという戦後市民社会の論理が生理の形をとって恥ずかしげもなく露呈されていると私には感じられた。

(毎日グラフ別冊『ドキュメント雲仙・普賢岳全記録』)

 各社の労働組合は、会社の安全管理不足を指摘し「取材マニュアル」を作ることを求め、すべての報道機関は立ち入り規制区域内の取材をやめた。
 ただし、「報道の自由」の大前提から、「警察に規制されるのではなく、自主的な社内規制だ」というのが各社の立場だった。

 1991年8月24日、まだ熊野研修所に置かれていた前線本部では激論が繰り広げられていた。
 法律で強制的に故郷を追われた住民は「火砕流でやられる前に家財だけでも持ち出したい」と強く願っていた。この要望に島原市が折れ、27日に時間制限付きながら一時入域を認めたのだ。この取材をどうするのかをめぐっての議論だった。
 この年10月15日から始まった新聞週間の連載企画「雲仙で考える」で、毎日新聞はこのときのやりとりを記者の実名入りで報道した。

 「警戒区域に入ってもいいのか。マニュアルとの整合性はどうなるのか」

 8月24日の長崎県島原市の毎日新聞前線本部。雲仙・普賢岳災害の取材拠点だ。何人かの記者がデスクの戸澤正志(44)に詰め寄った。一瞬、考え込んで
戸澤がぶ然と答えた。
 「避難住民が久しぶりにわが家に帰るのだから、それを取材するのは報道の使命だろう」

 マニュアル。辞書には「手引き」とある。
 毎日新聞が6月3日の火砕流後に作った「普賢岳取材マニュアル」には、次のような文言がある。
 《警戒区域にはいかなる理由があっても立ち入りを禁止する。自主避難区域に入る場合には事前にデスクの許可を得る》

 記者は現場を大切にする。入社した時から、そう訓練されている。ところが、今回の取材では「現場に行く」「行かない」が真正面から論議になった。
 “思い”“惑い”を島原に長期出張した記者たちが振り返る。

「行政の許可と安全監視下で初めてわが家に帰る姿を追うのは報道機関として当然ではないか」と
戸澤

 記者の堀信一郎(34)が反論する。
 「仮に他社がいい写真を撮って、紙面の競争で負けたとしても警戒区域には素人判断で入らないほうがいい。火山学者が連日『大火砕流のおそれ』を繰り返しているのだからなおさらだ」
 堀は6月3日の大火砕流の時、前線本部にいた。火砕流の熱雲で空が真っ黒になった「あの時」が脳裏に焼きついている。
 渡辺英寿(28)も「取材で警戒区域に入って犠牲者が出たら人災の要素が強くなるのではないか」という。

 しかし、現実に住民は警戒区域の中に入っている。マニュアルの対局に、大前提ともいうべき「市民と共に」がある。
 「住民の行動を取材するのが仕事だ。『入らない』というなら『入るべきでない』と紙面の上で行政の判断を批判すべきだ」と
戸澤と交代で島原入りしたデスクの橋場義之(44)。
 記者の前田岳郁(34)は「社会の最大公約数的な関心に答えるための取材は必要だ」と読者に目を向ける。そして「しかし」と付け加えた。
 「生きて帰って取材結果を伝えることはもっと大切だ」

 論議から3日後、毎日の記者も警戒区域に入っている。秩父が浦など島原市の4町への住民の立ち入りが、初めて1時間の制限付きで許可された時だ。
 三岡昭博(26)によれば「警戒区域の一番端の地区で、万一の時でも逃げられるという判断だった」という。
 市の安全対策とは別に、会社のヘリが上空で山を監視、三岡らに無線で情報を流す中での取材だった。

(1991年10月14日、毎日新聞)

 その後も、数度にわたって行政は住民の一時立ち入りを認めた。“法災”との批判を少しでも和らげるためだった。
 しかし、戸澤さんや加藤さんはその後、「警戒区域に入域してまで報道する必要はない。住民が初めて入域したときを上回る大事なニュースではないのだから」と、ぼくらの入域を認めなかった。

 記者である以上、これには耐えがたかった。こうした特殊な場合には入域を認めるよう、ぼくは先輩や上司と何度も議論した。ぼくの論点を整理すると、こうなる。

(1)「無人の規制区域に入るより、避難している住民の生活を報道すべきだ」という意見はもっともで、基本的に危険区域に立ち入るべきではない。

(2)しかし、住民が警戒区域に入域するのを行政が公式に認める以上、公言はしないものの、ある程度の安全性を把握しているはずだ。
 入域した住民を上空からヘリで取材したこともあるが、かえって火山灰が巻き上がり、住民の視界がさえぎられていた。地上の住民を危険な目に遭わせないため、ヘリ取材も避けるべきだ。

(3)危険度は地元で取材している現地記者が、知識でも皮膚感覚でも一番わかっている。警戒区域のラインだけをもとに、マニュアルで一律に入域を禁じるのはおかしい。

 議論のたびに、戸澤さんや加藤さんから「お前は3人の犠牲の意味を全然わかってない」と怒られた。ぼくは、入域を認めるわけにはいかない上司たちの気持ちはわかっていた。もちろん、2人とも同じ新聞記者。ぼくの考えをわかりすぎるほどわかっていた。
 だから、議論はいつも同じところを行き来し、結論が出ないまま終わった。

気づかずに危険な場所へ

 取材の安全確保に関して、残念ながら島原の教訓が生かされているとは言いがたい。
 奥尻島が大被害を受けた1993年7月の北海道南西沖地震発生直後、あるテレビ局の放送に見入っていると、気象庁が予測した各地の津波到達時間に合わせて、港から潮位をのぞき込むようにして映し出した。ぼくは「今、津波が来たらどうするのか」とハラハラして見守った。
 ところが、同じ局でも別の放送局は、ある港を高台から超望遠レンズで大きくクローズアップしており、取材の指揮を執るデスクの安全意識の違いが如実に現れていた。頭を使えば避けられる危険もある。
 「立入禁止のロープを乗り越えてでも近付け」というのが報道の基本であるが、「危険な場所に接近するだけが取材ではない。生きて帰ってこそ取材だ」というのが、報道陣から大量の犠牲を出した「島原の教訓」だと思う。
 しかし、当時者としてこの災害に関わっていたぼくでさえ、現実の取材の興奮の前に教訓を忘れて暴走してしまうこともあった。

 千本木地区が焼けた1993年の「6・23火砕流」を、導かれるように高台に行ってみたとき以外にも、実際の取材で危険を感じたことは何度かあった。92年6月21日、まだ熱い火砕流の上に意図せず降り立ったときの恐ろしさは今でも忘れない。
 あのころ、溶岩ドームが南東側に成長し、火砕流は水無川支流の赤松谷川方向に流下していた。赤松谷は深江町大野木場の上流で、南東に崩落した火砕流は岩床山にぶつかり、流路を東に変える。
 この岩床山の裏手に、深江町「山の寺」地区があった。岩床山と、なだらかな丘のような通称「ボタン山」の間には、中の間川と呼ばれる小さな渓流がある。
 毎日繰り返して発生する火砕流は、深さ数十mもあった赤松谷を埋めてしまい、すでにボタン山は熱風で樹木が赤茶色に変色していた。そして、火砕流の熱風が渓流に入り込み出した。1年後に千本木が焼けたときと同じパターンだった。
 この渓流の下流約400mに、そうめん流し店や住宅があり、川を下っていけば町立小林小学校がある。小林小の校庭には当時、炎上した大野木場小学校の仮設校舎が建っていた。そのため警戒区域の拡大を、町は真剣に検討することになった。

 6月下旬のある日、災害を恐れた山の寺地区の住民がボタン山の状況を見にいくと聞いた。そこは警戒区域ではない。6月21日、カメラマンとぼくは町内会長に同行の承諾を取って、そうめん流し店を経営する広瀬三祐さんの家に集合した。
 住民は約20人。双眼鏡を持っている人が多い。渓流沿いの細い山道の周囲は、樹木の枝や葉に厚く火山灰が積もっていた。この日、町が設置したばかりの立ち入り禁止の看板が、木に結わえつけられている。
 だが、住民は当然のようにロープをくぐって進んだ。一瞬躊躇して、カメラマンと顔を見合わせたが、正式な警戒区域でもないし、「目的地はこの先すぐだ」というので、後に続いた。

 この朝は好天で気温はぐんぐん上昇していた。顔ににじむ汗に火山灰が張り付いて、気持ちが悪い。ボタン山と岩床山を結ぶ尾根に出ると、パッと視界が開けた。

 ドームが急斜面の一番上、自分たちの真正面にあった。

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 一目で、溶岩が新鮮な灰色をしていることがわかる。真っ直ぐこちらに向かって火砕流が崩落した跡があり、尾根を5mほど降りれば、一面谷を埋め尽くした火砕流堆積物の「川原」だ。
 広瀬さんたちは我先に「川原」へと降りていった。「ここは危ない。引き上げたほうがいい」と思ったが、顔にタオルを巻いた住民は、川原の温度を手で確かめている。ぼくも確認してみた。真夏の砂浜のようだった。「卵を埋めれば、5分でゆで卵だよ」と、ある住民が言った。
 双眼鏡を手にしていた女性が叫んだ。「ドームにヒビが入ったよ」。ビクッとして、「川原」から尾根に駆け登った。ぼくらは谷川の山道を急ぎ足で駆け下った。
 ぼくらは町が「中の間川」の入口に看板を取り付けたことだけを記事にした。
 ところが翌日、看板が火砕流の熱風で吹き飛んだ。それを知った戸澤正志デスクがすぐに「吹き飛んだのは、昨日紙面に写真が載っとった看板のことか」と、前線本部に電話をかけてきた。
 「まずいな」と思ったが、新聞に載っている以上否定できない。戸澤さんは不機嫌に「もう二度と行くな」と釘を指した。
 幸いにしてその後、火砕流の流路は変わり、山の寺地区は被災を免れた。

危険と報道のかね合い

 長期災害が続く特殊な状況では、「6・3」後も報道をめぐるさまざまな問題が噴出した。

 1992年4月26日、朝日新聞は「フォーカス 普賢岳の入山写真?掲載 普賢神社など8枚 警戒区域で撮影の疑い 島原署が調査」と、社会面トップで報じた(「フォーカス」は当時の写真週刊誌の名)。

 これを撮影したのは、山頂近くにある普賢神社の氏子で、入山したのは「信仰心から」という。
 記事は谷川正則島原署長の「厳正に処置する。とにかく危険な所には入ってほしくない」、小浜町長の「撮れるはずのない写真を撮って雑誌に載せるなど非常識」というコメントを並べ、「フォーカス」を強く批判した。

 ところが、この記事にフリーカメラマンの福田文昭さんがかみついた。
 福田さんは田中角栄元首相の法廷写真を隠し取りして報道し、話題になった人だ。島原には何度も取材に来て、ぼくも親しくなり、「いい形の火砕流が撮れたので使いませんか」と、前線本部に持ち込んできてくれたこともあった。
 福田さんは、翌93年3月まで、計6回にわたり質問状を朝日新聞に送った。
 彼が主張したのは大きく2点。

(1)朝日は「フォーカス」の誌面を複写撮影し、写真部分のみをトリミングして紙面に載せたが、転載を明記していない。写真転載の当たり前の常識から外れており、カメラマンとして容認できない。人の成果をちゃっかり紙面で利用している。

(2)自ら命懸けの取材を放棄して、素人の住民による価値ある仕事の足を引っ張っていいのか。

 数度の交渉の末、納得できる回答を得られなかった福田さんは、朝日新聞とのやりとりを書いたビラを知人に送った。前線本部にも届いたその内容は激烈だった。

 そもそも普賢岳噴火災害の現状を、自らの手で、自らの責任で、どこまで取材し報道するか否かは、各報道機関の判断によりまちまちでいいものだと私は思う。
 …(略)…
 カメラマンは住民が入りたくても入れないところにも入り、撮影し、それを人々に伝えるのが本来の仕事である。間違って事故に遭うことがあるかもしれないが、専門家の役割はここにある。
 もともと罪にも値しない撮影行為を、週刊誌発売後真っ先に警察に駆け込んで、警察の尻を叩き、犯罪人に仕立て上げようと必死で動き回った。何とぞっとするような空恐ろしい事ではありませんか。
 法律があるからと自分達は安全地帯にのみいて、堅気の住民による身体を張った意義深い仕事を、プロが犯罪だと決めつける。他人の足を引っ張る事によって、自分達は安心する。
 本末転倒。何と恥ずかしい話ではないか。

 福田さんは、この檄文への各界の反応も送ってきた。

◇芸能レポーターの須藤甚一郎氏
 「お上が勝手に決めたことを各報道機関が協定して従順に守っていれば、それでいいのか。
 …(略)…
 時にはあえて法や規則を破ることに意義があることもあるのだ」
◇原寿雄・元共同通信KK社長
 「写真転載の在り方については、発言できるほど知識がありません。
 …(略)…
 私がデスクなら、もし警察が問題にしたら、警戒区域に敢えて入って写真をとった人の考え方と写真の価値をめぐって議論を起こす狙いの記事にしたかもしれません」
◇放送評論家の松尾羊一氏
 「明らかに“引用権”を大きく逸脱した行為であり、勝手なトリミングとは写真作家にとってはヒョーセツ、トーサク行為だと思います。いずれにしろ、
 …(略)…
 権威性にすがる『文体』のゴーマンさに憤りを禁じ得ません」
◇奥平康弘・国際基督教大教授
 「小生には、報道写真のありようをめぐる職業倫理がいかなるものなのか、よくわかりません。けれども、この事件(記事)にかんするあなたの“怒り”は十分に理解できます」

 福田さんから送られてきたコピーを読んで、ぼくは複雑な気持ちだった。
 「フォーカス」が山頂写真を載せるという情報は毎日新聞にも事前に入っていたが、「他のメディアが判断したことだから」と記事にはしなかった。
 しかし、朝日の記事を見て「しまった、抜かれた」と思ったのも確かだったからだ。

 記者は原稿を書きながら、「どうすれば、読者がストンと理解できる記事になるか」「より大きな見出しになるか」と考え、工夫する。
 朝日新聞の記者が、島原署に「フォーカス」を持ち込んで「こんなことが許されるのか」と訴えたのは、「島原署が調査」という見出しを立てたかったからだ。権威の裏付けがあれば、読者は「ああ、とんでもないことだな」と判断できる。新聞記者がよく取る手法だ。
 しかし、この持ち込み行為を、一部の良心的なジャーナリストは「一歩踏み込んだ報道をした社を警察に売った」と捉えた。

 「6・3」後、毎日新聞の報道部長を辞めて編集委員になった三原浩良さんは、このころ西部本社版社会面で毎週1回、『異聞余聞』という大きなコラムを書いていた。長崎支局時代に同期だった他社の記者も「参考に切り抜いている」というほど、三原さんの文章は切れ味といい、粋さといい、真似できない。
 92年5月、「6・3」1周年を前にして三原さんは、火砕流の犠牲になった毎日OBの土谷忠臣さんの写真展を企画した福田文昭さんを取り上げた。

 「カメラマンの定点はやはりあそこしかなかったと思います。自然な気持ちで定点に入ってしまった私には彼らの気持ちがよく分かります。みんな淡々とごく普通に頑張っていたと思いますよ」

 警戒区域の中で出会い、知り合った地元のアマチュアカメラマンが撮影した山頂付近の写真が最近、写真雑誌に載った。災害対策基本法違反ではないか、というあるメディアの指摘に彼は憤りに近い気持ちを抱いている。

 「カメラマンは住民が入りたくても入れぬところにも入り、撮影し、それを人々に伝えるのが仕事でしょう。そのことは災害対策基本法の精神にはちっとも抵触しないと思いますよ」

 福田さんによると、警戒区域の中でも安全を確認しながら山の変化や火砕流跡の撮影を続けているカメラマンはほかにもいるという。そうしなければ、一体だれがこの惨事を記録し、後世に伝えることができるのだ、と言う。

 「住民と同じポジションにいては写真は撮れません。やはり前に行かなければ。普通に仕事をしていても事故には遭うことがあります。その意味では事故はまたどこかで起きるかもしれない。しかし、それは仕方のないことでしょう。みんな自分の責任でやっているのだから」
(1992年5月18日、毎日新聞)

 三原さんは、福田さんとまったく同感だったはずだ。報道部長として「6・3」の当事者だった自分が言いにくいことを、福田さんの口を借りて言ったのだと、ぼくは記事を見て思った。

 警戒区域と報道をめぐる「事件」は、実はこれ以前にもあった。

 大火砕流直後の91年7月には、『自動車絶望工場』『反骨』など骨太なルポに定評があるフリージャーナリストの鎌田慧さんが告発されている。
 鎌田さんは写真週刊誌「フライデー」のカメラマン、編集者とともに警戒区域に入域、無人の荒野と化した島原市の住宅地の写真と記事を掲載したが、このときは読売新聞が「『雲仙』立ち入り禁止区域をルポ 『フライデー』掲載 島原市内3人で取材 警察が事情聴取へ」(91年7月20日)と発売前にスクープした。

 災害対策基本法によると、警戒区域への無断入域への罰則は、1万円以下の罰金か拘留である。鎌田さんは島原署の出頭要請を拒否し続け書類送検されたが、長崎地検は結局不起訴処分にした。起訴猶予ではない。起訴しなかったのである。
 島原を訪れた鎌田さんを迎えて酒席を持ったとき、彼は、「報道したことで、いちいち警察が事情聴取して処罰できたら恐ろしいことになりますよ。だから、呼び出しには応じなかったんです」と説明してくれた。
 95年に出した著書『大災害!』でも、1章を費やしてこの問題を論じている。

 あなたたちは、「立ち入り禁止区域」を取材したことはないのですか。
 それとも、「立ち入り禁止」といわれると、ハイといって自衛隊撮影のビデオフィルムや写真でお茶を濁し、それで安心してしまうんですか。
 報道の権利や自由、国民の知る権利などはどうでもよくて、ヤツらをはやくしょっぴけ、といってはウップンを晴らしておられるのでしょうか。
 それで取材と報道のクビを締めているとはお感じにならないのですか。


江川紹子さんからの手紙

 フリージャーナリストの江川紹子さんは、今はすっかりオウム真理教事件で名を知られたが、島原や奥尻島、阪神大震災などの災害も熱心に取材し続けてきた社会派ジャーナリストだ。
 坂本堤弁護士一家拉致事件をしつこく追いかけていたことで、ぼくは彼女のことを学生時代から知っていた。この2つの写真週刊誌をめぐるトラブルを、彼女も著書『大火砕流に消ゆ』で厳しく糾弾している。ろれつが回らなくなるまで飲むと、江川さんは必ず「大マスコミ」批判を展開する。
 「警察って権力なんだよ。人を逮捕できるんだよ。報道の自由を権力に売ったということだよ。新聞のやることじゃないよ」とよく話していた。耳が痛い指摘である。
 朝日新聞が指弾した問題は、結局入域した住民が警察に始末書を提出するだけに留まった。
 1994年4月、三たび警戒区域入域と報道をめぐる問題が起こった。この事件で、ぼくも当事者の1人となる。くわしくは次章で述べる。

 94年のことだが、新聞労連が『提言 記者クラブ改革』という冊子を発行した。

 記者クラブは記者が親睦のために作る団体で、主な官公庁や企業、大学などに設けられている。
 島原市の記者クラブにも全国紙3紙と、九州ブロック紙の西日本新聞、県紙の長崎新聞、それに地元の島原新聞の6社が加盟しているが、記者クラブのあり方については「権力と記者が癒着する」「発表ものだけを書く記者ばかりになる」などと批判もかまびすしい。
 このため、新聞労連は「記者室の原則オープン化」「会見参加の自由」「便宜供与と利益供与の峻別」などを提言、ジャーナリストや識者など約30人の寄稿も集めてこの冊子を発行した。
 江川さんは「島原のKさんへ」と題して、ぼくあての手紙形式で島原での報道の実態を紹介し、記者クラブ論を展開した。

 長くなるが、全文を引用しよう。

 Kさん

 先日、8か月ぶりに島原に行った時、普賢岳の変化や防災工事の進捗状況にも驚きましたが、あなたの記者としての成長ぶり(私がこんな言い方をするのは失礼かもしれませんが)にもハッとさせられました。
 記者クラブの毒に染まる前の新人時代に御地の担当に配属されたことを、あなたのためにも、多くの読者のためにも喜びたいと思います。
 
 確かに島原にも記者クラブはあります。常駐している5社ほどの小さなクラブですね。そこに行けば、行政が発表するデータはだいたい手に入りますし、催しや記者会見などの情報も分かります。記者クラブは情報の一ポケットという形で機能していると思います。とはいえ、それだけではとてもとても島原に関する記事は書けません。
 災害に苦しみながらも日々の生活を守ろうとしている市民の声は記者クラブでは拾えませんし、第一肝心の山や川は記者会見なんてしてくれませんものね。
 やはり取材する側から出向いていって、住民たちと膝を突き合わせて話したり、山を上ったり川を遡ったりと、自分の足と目で調べて回らないと大事なことは何も分かりません。
 島原を巡る報道で必要なのは、土石流で何軒の家が流されたかといった数字や行政がやったことについての広報だけではなく、これからどうなるのか、今の対策で十分なのかといった先見性と批判性、それに自然がもたらした災害に人間がどう対応しているのかといった事実なのですから。

 そのことを、あなたは自分自身でも感じただろうし、御地を訪れる多くの(通常記者クラブの恩恵を受けることのない)取材者から学び、努力されたのだろうと思います。
 島原では、私のようなフリーの取材者も、あなた方大新聞の記者と同じように取材ができます。
 もちろん私にはヘリコプターもなければ、組織力もありませんが、一取材者としては、大都市で取材する時のような変な制約はあまりありません。学者や行政機関の記者会見にも面倒な手続きなしに出席して質問できますし、個別に取材する際も、フリーゆえに排除されることは、これまでのところありませんでした。
 もっとも、東京あたりから“偉い”人が来て視察をしたりする時は別ですけどね。宮沢首相の現地訪問の時には、やたらと厳しい規制があり、おまけに記者会見は官邸記者クラブと長崎県庁記者クラブが質問を独占したために、ほとんど島原にとって大切なことは聞き出せないという体たらくでありました。
 このことを見ても、記者クラブの弊害は東京から各地に拡散しているのではないかと思います。

 話がそれましたが、大新聞とは違った立場の取材者たちとあなたのような若い新聞記者が現場を共にすることは、いいことだと思うのです。あなたにとってはこれまで様々な経験をしてきた人から学べるでしょう。刺激も受けるでしょう。
 私の場合は、あなたのように現地で継続して取材してきている人の話が参考になりました。記者クラブでがんじがらめにならないことは、新聞記者にとっても、そうでない者にとってもプラスだし、情報の受け手である市民にとってはよりよいことは言うまでもありません。
 しかし残念なことに、島原にも記者クラブ的体質を持ち込む記者がいるのですよね。
 多くの犠牲者が出たために安全問題に敏感になっていることは分かりますが、島原では行政が引いた警戒区域という1本の線を、記者たちが極めて従順に厳守し、一歩たりとも立ち入らないという時期が長く続きました。
 現場の記者の中には、安全を確かめ、必要な範囲で警戒区域内の状況を取材する人もいましたが、そうした取材の結果はなかなか紙面に反映されませんでした。
 それはその社の判断ですからまだいいとして、問題は自らの責任において、警戒区域内の取材をし、発表した者を告発する行為に出たものが1人ならずいたことです。彼らは自分たちができない取材をした者が刑事処分の対象になるよう警察を焚き付け、紙面でも煽ったのです。いわば足を引っ張り、妨害したのです。
 取材の手の内が分かって安心できる記者クラブの仲間以外の取材者を排除し、無視し、時に妨害までするあの根性と同質のやり方でしょう。

 私はこのような記事を書いた記者だけの問題ではないと思います。記事は、デスク、整理部など何人もの手を経て紙面になるわけですから、そのような記事を通してしまった多くの人が同じような感覚でいたのでしょう。
 あなたの所属する新聞社がこのような行為にでなかったのは、あなたのような現場の記者が記者クラブ的体質に毒されていなかったことだと私は感じ、こういう人々が新聞記者の中に1人でも増えていくことを切に望みます。
 この度、新聞労連が『記者クラブ制度改革への提言』をまとめました。いい提言だと思いますが、問題の根っこは制度というより、1人ひとりの新聞記者に巣食っているこのような体質ではないでしょうか。
 長年のクラブ体質に加え、ジャーナリストの中で新聞記者が一番偉いという歪んだ優越感が多くの新聞記者の心の中には潜んでいます。
 フリーはどんなことを書くか分からない、たちの悪いフリーライターもいるが、新聞記者は一応安心といった感覚があるでしょう。でも新聞記者だってイロイロいるじゃないですか。
 そうこう言っても、これまでの制度で教育され、過ごしてきた人が一気に変えられるわけではないでしょうし、制度を改革することで(長い時間はかかるとしても)個々の記者の感覚を改められるだろうという期待もあります。最大の難関はこの提言が実現にうつせるかどうかです。
 もう一つ島原で残念なのは、せっかくあれだけの取材対象がありながら、自らの足で歩き回らない記者が結構いるように思えたことです。
 自分の目で確かめないから、行政が「危険」と言えば「危ない」と報道し、「安全」と見解を変えれば「大丈夫」と書く。私のような“一見”の取材者さえおかしいと思う発表を鵜呑みにしてしまったこともありました。もっともこれは現在問題になっている記者クラブ体質と同質の現象と言えましょうが。

 あなたは、奥尻などの報道を見ていて安全問題での島原の教訓が生かされていないと憤っていましたし、島原のことはなかなか東京で報道されないと嘆いていましたね。
 先日ある新聞が水俣病を巡る初期の報道について自己批判をしていましたが、水俣での教訓は島原報道に生かされていないと私も憤慨してしまいました。

 今の新聞報道を巡る問題は山積しています。それを変えられるのは、クラブに安住しているのではない、現場をちゃんと歩くあなた方記者たちだと信じます。

 今後のますますのご健闘を祈ります。

 ぼくは、ここに書かれているような記者ではない。何もないときは記者クラブでゴロ寝していた。江川さんは、ぼくを取り上げることで自分の論旨を展開しただけのことだ。
 そうはいってもこの文を読んで、なんとも気恥ずかしい思いにとらわれた。あなたももっと足を使ったら、という江川さんからの忠告にも思えた。

 江川さんは、半年に一度程度島原に来るだけなのに、重要な取材対象の人をしっかり見つけて深く食い込んでいた。
 「上木場復興実行委員会」の鐘ヶ江秋和さんが江川さんに寄せる信頼は、ぼくも含めてどの現地記者もかなわなかった。彼と一緒に警戒区域に入っては、上木場や千本木の被災家屋がその後どうなっているか、山腹の樹木の荒廃が前回来たときとどう違っているかを自分の目で確かめていた。
 現地記者が取らないそうした行動が、取材を手伝って同行した被災者の心をつかむことにつながったのだと思う。
 秋和さんが「紹子ちゃんがこの前来てな、飯を食わせてやったよ」と話すのを聞くと、悔しさを感じることもあった。
 彼女の島原での宿泊場所は、市内アーケード街の洋服店事務所のソファー。潤沢とはとても言えない取材経費を少しでも浮かすためだ。経営者は事務所の鍵を江川さんに預けるまでに信頼していた。
 たしかに、手伝ってあげたいと思わせる雰囲気が彼女にはあった。

心ある報道人

 前線本部のすぐ近くにあるギャラリー喫茶「サンパン」は、91年の「6・3大火砕流」直前にオープンした。経営者の長濱七郎さんは「放浪の俳人」種田山頭火の熱烈なファンで、島原には珍しい粋人だ。
 「6・3」直後、市内の店は軒並みシャッターを閉め、大勢の記者は食事の場所にも困った。長濱さんは「火山灰まみれで食べる場所もない記者さんたちに食事を」と、朝早くから「サンパン」を開けて報道陣を迎え入れてくれたため、多くの記者にとって忘れられない店となり、その後も応援記者やフリーのジャーナリストが立ち寄る“サロン”のような存在になっていた。ぼくは「サンパン」で毎夜夕食を取り、水割りを傾けた。

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サンパン」で
九大島原地震火山観測所の
太田一也所長と
テレビ長崎の槌田禎子記者

 ここの常連だったのが、島原新聞の清水真守(まもる)記者である。
 島原新聞は、島原半島の東部を中心に約1万5000部を発行している表裏2ページの小さな日刊紙だ。しかし、地元ニュースの情報量は、他紙と比べ物にならないほど多く、市内の講読率は相当な割合に上る。
 県紙より小さい商業新聞は「地域紙」とでも言うのだろうか。島原市政のニュース、半島各地の話題に加え、「小さな子犬を拾った。飼い主は連絡を」というお知らせや、救急車出動の一覧もある。読者は「あれ、あン人が怪我しちょっとばい」と気付き、早速お見舞いに行けるわけだ。それを記者3人で毎日埋めるのは大変な作業だ。
 清水さんは、30歳を過ぎて旅行会社から転職、奥さんの実家の新聞社を継いだ。ぼくとは10歳ほどしか年が離れておらず、同じ大学出身ということもあり、弟のように可愛がってもらった。
 江川紹子さんや鎌田慧さんらフリージャーナリストは、現地に入ってまず事情通を探す。彼らにとって、情報を豊富に持ち、客観的な目で分析できる清水さんは格好の存在だった。
 フリーランスの記者たちとぼくが知り合えたのは、清水さんが「サンパン」に連れてきて紹介してくれたおかげだった。ぼくも、地縁血縁が複雑な地域の事情や裏話などを、清水さんからたびたび教えてもらった。
 島原新聞は1899年創刊、まもなく100年の紙歴を数えるかけがえのない地域の文化である。ぼくは地域メディアの存在価値を、島原新聞から教えられた。
 ただ、あまりに地元密着型の新聞だけに、書きたくても書けないこともあるらしかった。ときどき、清水さんはウサ晴らしするかのように、グラスを傾けていた。2人で、一体何本のボトルを空けてしまっただろうか。

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島原新聞の清水真守さん

 報道の面で、清水さんがぼくの島原での兄貴分なら、親父にあたるのは深江町に住む早崎貞俊さんだ。
 早崎さんは共同通信社の名古屋支社次長まで経験した大ベテラン。退職後を悠々自適に島原半島で過ごそうと、深江町大野木場地区の一角に家を建てて3カ月後、大火砕流で避難。奥さんと息子一家の計7人で仮設住宅暮らしが始まった。
 その後、水無川流域が警戒区域になって島原市と分断されたため、深江町へは普賢岳の西側を回って片道約2時間もかかった。このため、早崎さんは深江町担当の契約記者として、現役にカムバックした。仮設暮らしを経験した唯一のジャーナリストである。
 宮沢首相は視察に訪れたとき、ひょいと早崎さんの仮設住宅に上がり込んだ。この様子が掲載された紙面には、車座になって現状を説明する住民の中に、下を向いてメモを取る早崎さんの姿も写っている。

 臨時の契約記者といっても、復帰に際して「時間に縛られるようならやらねぇよ」と条件を付ける人だから、共同通信の長崎支局長は「この人には頭が上がらない」と話していた。そんな自由な立場を使って、現地の記者にはいつも「深江でこんな動きがあるぞ」と情報を流してくれた。島原市の陰で忘れられがちな深江町をきちんと知らせようと考えていたためだ。
 「町の広報担当助役になったらどうですか」「深江町はすごいね。町専属の“共同通信”があるんだから」などと、ぼくら現地記者はよく冗談を言った。
 「現役のころは、そりゃあよく遊んだもんよ」
 銀髪がきれいで、ちょっと粋な話のできるこの大先輩が住んでいたおかげで、深江町はかなり恩恵を受けたと思う。切れ者だがワンマンな横田幸信町長と町職員の関係がギクシャクするとき、ちょくちょく役場に顔を出す早崎さんは町長を諌めたり、職員をなだめたりと双方の溝を埋めようと努めていた。

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共同通信OBの早崎貞俊さん

 早崎さんの孫は、3人とも大野木場小学校の卒業生である。
 警戒区域となってから、大野木場小は同じ町内の小林小学校の校庭に仮設校舎を建てて勉強していたが、手狭なこともあり、91年8月、運動広場の横の空き地に仮設校舎を移転した。この学校の再建が、集団移転と並んで深江町の大きな課題である。お孫さんは、下の2人が災害で仮設校舎を経験した。
 
 94年5月、文部省の教育助成局長が視察に訪れた。事前に配られた行動日程表に、ぼくは「大野木場小の被災校舎視察」とあるのを見つけた。
 小学校は警戒区域内。入域は災害対策基本法で、「災害応急対策に従事する者」に限られている。局長の視察が「災害応急対策」とは思えない。「また法律のいい加減なところが出ているな」とおかしくなった。
 ここでぼくは思った。
 「局長が入域できて、記者のぼくらが入れないということはないはずだ」

 島原市内のホテルで局長が記者会見した後で、長崎県島原振興局の幹部に「取材でついていきますから」と言ってみると、幹部は慌てて「だめです」とさえぎった。しかし、会見に同席していた早崎さんも「乗せてってくれよ」と言う。免許を持たない早崎さんと取材で会うと、時間があればぼくは自分の車で自宅まで送っていくのが常だった。
 深江町は、小学校へ至る広い道は法律上バリケードを張って立ち入りを禁止していたが、細い農道は住民のために開けておいた。事実上の立ち入り黙認である。行政として認められるかは別として、このあたりの考え方が、既成概念にとらわれない横田町長らしいところだ。

 被災者が集団移転する予定の住宅造成地などを局長が巡回している間に、ぼくと早崎さんは先回りして大野木場小学校に到着した。
 火山灰が厚く積もった校庭には、草で大きな文字が書かれていた。 

「大の木場に栄光あれ」

 無断で入域した住民が、校庭に雑草を植えたのだ。故郷への愛着と、それを断ち切ろうとする欠陥だらけの法規制への反発だ。「振興局の幹部はなんて言いますかね」と、早崎さんと顔を見合わせて笑った。
 局長らの乗る4輪駆動車が近付いてきた。車から降りた横田町長は、ぼくらの姿を見つけてニヤッと笑った。
 局長に「いかがですか」と聞くと、「すさまじいの一言です」と厳しい表情をした。横で、振興局の幹部が険しい表情をしてにらんだが、局長は現地のそうした複雑な事情を知らない。
 ぼくと早崎さんはそのまま局長について校舎の中に入った。中に入ってみるのは、ぼくも初めてだった。床はコンクリートの土台が剥き出し。机や椅子も焼け落ちていた。黒板には「きょうの日直」などとチョークで書かれている。3年前の日常がそのまま残っていた。
 早崎さんは今、被災を免れた自宅へ戻り、地域自治会の会長となり、住民と町長とをつなぐ役割を果たしている。大手マスコミの元幹部らしからぬ庶民的な人柄を生かし、深江町の復興がうまく進むよう、楽しみながら被災地に生きている。

 島原市の北隣、南高来郡有明町で写真館を経営する西川清人(きよと)さんは「写真を職業としている以上、俺が撮らにゃ」と、噴火以来普賢岳を写し続けてきた。身長170cm、体重94kgの巨体で、酒が入ると「サンパン」でさり気なく女性の胸やお尻を触るのを得意とする陽気な人柄だ。
 愛用のカメラ「ハッセル」で写した普賢岳は美しい。迫力や凄まじさだけでなく、自然の荘厳さにも焦点を合わせている。

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西川さんが撮った
普賢岳の写真の美しさは
比類ない

 黒い闇の中に舞い上がる火砕流の噴煙は、肉眼では見えない鮮やかな薄桃色、赤、紫が複雑なグラデーションを作り上げている。
 作品は何度も写真週刊誌のカラーグラビアを飾り、中学校の理科教科書にも掲載された。九大観測所の太田一也教授は「学術写真としても一流だ。ぜひ出版すべきだ」と太鼓判を押す。

 「ヤマが、撮ってみろと言っているようなんだ」

 居合いもたしなむ西川さんは「普賢岳は気を放っている」と話す。昼夜を問わず撮影に行く西川さんに、奥さんの成子さんは「頼むから仕事をして」と泣きついたこともあった。
 「6・3大火砕流」の直前、撮影に没頭していた西川さんは、島原市白谷橋の上からファインダーをのぞく毎日新聞のカメラマンが、黒塗りの車両に乗り込んですぐ上流の上木場地区に向かうのを見送った。犠牲になった石津勉さんだった。
 そのときは小雨混じりの天気で、ちょうど東の有明海に虹が浮かび出た。
 西川さんがその場に残って虹を撮影していると、あの大火砕流が駆け下ってきた。些細なことが生死を分けた。
 千本木地区が火砕流で壊滅した朝、ぼくを高台の鳥越山まで連れていったのも西川さんだった。
 「サンパン」に立ち寄ったフリージャーナリストや雑誌記者は、必ず西川写真館まで足を伸ばす。この時期何が絵になるのか、彼が一番よくわかっているからだ。

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「サンパン」での西川清人さん
本連載の写真はほとんど
「by Kiyoto Nishikawa」だ


1000日目の「定点」

 災害が続いた1993年も暮れ、まもなく浜野真吾・島原支局長の転勤が決まった。
 4月1日からの新ポストは福岡県の久留米支局長。島原生活5年半、普賢岳災害のすべてを見続けてきた人だけに、社の幹部はみな「浜ちゃんには苦労をかけた。特ダネは今まで数え切れないほどだ」と、最大級の賛辞を捧げて慰労した。
 ぼくが「警戒区域内の取材をしないのはおかしい」などと主張するのを、浜野さんはいつも苦しげにかわしていた。千本木地区が焼けた日に、ぼくが1人で危険な場所に入り込んだときには、肝を冷やしたことだろう。
 「4人目の犠牲は出せない」が口癖だった浜野さんが、転勤の内示後に意外なことを言った。

 「神戸くん、今なら『定点』に行けるかな」

 驚いたが、浜野さんの気持ちはよくわかった。
 そのころ、マグマは大きくなりすぎたドームを突き崩せず、数年間の火山活動で樹生がボロボロになった北側の山腹を押し出そうと火山性地震を多発させていた。火砕流が「定点」のある東斜面の水無川方向に起こる可能性は極めて低かった。
 浜野さんも、今なら安全だろうと判断したのだ。
 94年2月26日。上空観測後のフライトの結果火山活動に変わりがないことを確認し、法律違反を覚悟のうえで現地に向かうことに決めた。
 ところが、浜野さんは奥さんのノブさんも連れてきた。手に花を持っている。
 いくら火砕流の心配が99%ないといっても、奥さんが同行することには抵抗があった。しかし、奥さんの頑張りがなければ、毎日新聞は「6・3」直後の修羅場を切り抜けられなかったことは間違いない。彼女も、浜野さんと同様、「最後に『定点』に花を供えたい」と思っていたのだ。「結婚なんてするもんじゃないぞといつもは軽口を叩いているくせに、浜野さん優しいな」と思った。

 国道57号を右折し、水無川上流に向かう。立ち入り禁止の看板の近くで車を止め、警戒区域を3人で歩いた。
 焼けて土台だけしか残っていない民家、熱風で引っ繰り返された大木の根。近付くにつれドームはみるみる巨大になってきた。土石流で道は所々で削られており、岩を乗り越えながら進んだため、ルートに少し迷ったが、それほど苦労せず「定点」は発見できた。
 「6・3」から3年近くの月日が経っていた。高台だったはずの「定点」はすぐ間近まで土石流の岩が迫っており、斉藤ラジオカーが上半分だけを泥の中からのぞかせていた。塗装が熱で溶かされて車体は真っ赤にさびつき、屋根は腐って落ちていた。
 2人は線香に火をつけ、花を手向けて長い間手を合わせていた。ぼくは後ろから2人の姿を、その先に見える普賢岳と重ねて見つめていた。

 「これ、取れんかなあ」と、浜野さんが3分の1ほど地上に顔を出しているハンドルを指して言った。
 2人で引き抜こうとしたが、ハンドルは地面の下で車体とつながっている。しばらく挑戦したが、グラグラ動きはするもののどうしても外れない。「残念だけどだめですね」と言ったが、浜野さんは「もう少し」と、ハンドルをねじり続けた。真っ赤な顔をして無言で汗を流す浜野さんの執念のようなものに圧倒されて、ぼくはボーッと立ち尽くした。
 そして数分後、ガンとしてぼくを受け付けなかったハンドルは、浜野さんによって引きちぎられた。

 ハンドルは根が長さ1m近くもあり、かなりの重さがあった。ぼくはハンドルを肩に担いで、浜野夫婦と「定点」を後にした。岩だらけの道なき道を下りながら、その重さを味わった。

 帰りながら、とても大切なことに気付いた。「浜野さん、今日はちょうど『6・3』から1000日目ですよ」
 「避難1000日」という連載企画が終わったばかりだった。
 避難は「6・3大火砕流」の直前から始まっている。計算するとこの日が、ちょうど43人の犠牲から1000日だったのだ。

 「そうか、あれから1000日が経ったのか」
 そんな偶然に意味などないのだが、何かがぼくらを「定点」に呼び寄せたような思いに駆られた。浜野さんたちも同じ気持ちだったのかもしれない。帰りの車中で口数は少なかった。
 赤さびたハンドルは今、最後までそれを握っていた斉藤欣行ドライバーが勤務していた毎日新聞西部本社の車両係の部屋で、静かに眠っている。

押し寄せる救援物資

 浜野さんが転勤する数日前、ぼくは2度目の「記者の目」を書いた。
 原稿を持ち込んで3月中の掲載をお願いしたのは、浜野さんへの慰労と感謝の意味を込めて在任中に載せたかったからだ。
 テーマは「救援物質」と決めていた。
 被災地に救援物資は送らないほうがいい。こう言うと反発を受けそうだが、ぼくはそう思っている。

 普賢岳災害は、義援金や救援物資を被災者に贈る“慣例”が日本に根付くきっかけになった。火砕流の猛威と避難生活を送る被災者を、メディアが繰り返し報道したことの明らかな副産物だった。
 ところが、大量に送り込まれた物資は、かえって被災地に大迷惑をもたらした。被災地に住むか、ボランティアをしたことがないと理解しにくいだろうが、仕分けに大変な労力が必要なのだ。
 何より、郵便局のゆうパックが最悪だ。救援物資の郵送料がただなのがいけない。送る側は「かわいそうに」と同情し、「こんなものでもないよりは」と、1つの段ボールになんでもかんでも詰め込んでくる。
 島原に届いたゆうパックは2カ月間で6万個に及んだ。ある市役所の職員は「災害対策にあたらなければいけないのに、仕分けに人数を取られてまいった」と漏らした。しかし、こう付け加えるのも忘れなかった。

 「神戸さん、被災地の立場ではこれはとても言えないよ。善意なんだから。だから島原市がそう言ったなんて、絶対に書かないでくれよ」

 しかし、ぼくははっきり自分の意見として書こうと決めていた。
 一番困るのは、もちろん生鮮食料品。仕分けの前に腐ってしまい、一緒に入れられた衣類などもだめになる。
 古着もまずい。今や、世界でもっとも豊かな国ニッポン。古着が役に立つのは、災害の直後の寒さしのぎくらいだろう。そうでなければ誰のものかもわからない古着なんて着る人はいない。
 ほとんど使っていない新しい衣類をすべてクリーニングし、「3歳くらいの男の子用」などとメモして、ビニール袋を破らなくてもすむように工夫してあった詰め合わせは、市職員の前森聖子さんを感激させた。
 ここまで配慮がしてあれば別だが、黄ばんだ下着がそのまま入っていることも多かったのが現実だ。
 いらないものを送ってきたケースでは、王冠がサビた飲料。企業としてはとても売り物にはならない。そんなものは被災地でもいらないということまで考えてほしかった。捨てるに捨てられない島原市は、保健所で検査を受ける手間をかけた。
 変わった例では、半乾きのミミズ。漢方薬とメモがついていた。煎じて飲むと、精がつくらしいが、段ボールを開けた職員は、ビニールに入った黒い異物に悲鳴を上げたという。
 配れないものは廃棄処分になった。これはしかたないことだ。しかし、「マスコミにばれてはまずい」と、市は極秘にした。
 災害後3年以上経っても、古着は島原に届いていた。困った市は、被災町内会に箱ごと預け、その後の処置は被災者に任せているのが実態だ。立場はわかるが、少しずるい。

 北海道南西沖地震では、普賢岳をはるかに上回る32万個ものゆうパックが届いたというが、さすがに北海道は悲鳴を上げて、1カ月で郵政省に受け取りを断っている。
 「記者の目」を書こうと思ったのは、「奥尻島への善意焼却処分」という記事を、毎日新聞のタ刊で見たことがきっかけだった。毎日新聞北海道支社に問い合わせると、地元の新聞が特ダネで報じたのを追いかけたという。この新聞社に電話をかけた。
 その記事を書いた記者は「善意を処分するなんて許されないことだ」と説明した。ぼくは「被災地の現実を見ているのに、本当にそう思うのか」と再度質問したが、彼は「余っているなら、海外の援助物資にする方策を探るべきだ」と主張した。災害にあって苦しんでいる地域に、そこまで負担をかけられるものか。
 こんな現実離れした批判が繰り返されてはならない。被災地を知る記者として、実情を書くのは義務だと思った。

 いろいろ調べた結果、救援物資の効果より、仕分けのコストのほうが高いのは明らかだった。

 「家庭で要らないものは、被災地でも要らない」

 これが第1の原則だ。
 なおかつ、個人からバラバラと送られてくる物資は数が足らず、被災者に行き渡らない。奥尻には高価なコート1枚が送られてくる物資は数が足らず、被災者に行き渡らない。奥尻には高価なコート1枚が送られてきたこともあったという。公平さを考えれば、行政が1人の被災者だけに渡すことはできない。このコートがどうなったのか、担当者は明言を避けた。

 2つ目の原則は、

物よりも金

 現実的すぎると思われるかもしれないが、これが厳然たる事実である。復興資金はいくらあっても足らないのだ。
 ただし、生活必需品や消耗品は別である。
 これらを大量に贈ることができるのは、企業や労働組合などの組織だ。しかし、島原では、米や家電製品が大量に送られ、ただでさえ困窮している被災地周辺の米屋や電気店が干上がった例があった。
 物資を贈るなら、名目だけでも被災地の店を通すことが望ましい。物資としての意味だけではなく、利潤が落ちることで経済的な支援効果も生まれる。

 最後の原則は

金よりも人

 大企業がボランティアを動員して送り込む場合は、食事や泊まる用意などをすべて自前で確保すること。
 すべては被災地に無用な労力を使わせないように考えればいい。

 しかし、この論調で原稿を書くと、加藤信夫デスクは「もう少しやわらかくしたほうがいい」と忠告してきた。
 ぼくも「反発を買うかもしれない」と思い、「善意には感謝しつつも、災害発生後1000日が経過した今だから」と一歩引いた形にし、さらに南千本木町内会長の末永安広さんから「善意は気持ち。物資を送るな、などとんでもない」と怒られたエピソードも付け加えたのだが。
 一番もめたのは、「物資は送るべきではない。あくまで現金で」と主張した部分だ。
 加藤さんは「現金ならどうだろう」と書き直してきた。「ここが一番大事な部分なんです」と電話で交渉したが、加藤さんは「原稿を書くうえでのテクニックだ」と譲らない。とうとう根負けして、加藤さんの言い分を通した。
 ところが、紙面になると見出しに「個人は現金、原則に」とある。パッと新聞を見た瞬間に主張はしっかり伝わっていた。「ははあ、これが加藤さんの言っていたテクニックか」と感心した。

 ところで、この「記者の目」は1994年3月26日付けで掲載されたが、西部本社以外には載らなかった。東京の「記者の目」担当デスクから「紙面の都合で」と断られたのだ。
 これには浜野さんも加藤さんも「この話を、全国に伝えないでどうするのか」と怒った。10カ月後、阪神大震災が起きただけに、残念でならない。

(第8章 了)

『雲仙記者青春記』第9章「1994年4月、牟田隊長事件」に続く


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