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番外編 「ヤマが、撮ってみろと言っているようなんだ」 西川清人さんの普賢岳

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(1995年、ジャストシステム刊)のネット復刻にあたり、2021年6月1日記す

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ネット復刻した『雲仙記者青春記』で、引用した普賢岳の写真は、ほとんど西川清人さんが撮影したものだ。陽気な愛すべき人柄で、一緒によく飲んだ。

2000年、49歳の若さで突然亡くなってしまった。今回、西川さんからいただいた写真を引用するにあたり、パートナーの成子さんと、西川写真館を継いだ完くんにご了承いただいた。

今回の投稿で、天国の西川さんからお借りした普賢岳の写真を、時系列で一覧できるよう、ここにまとめてみたい。

(1)1990年12月
  噴煙を上げる普賢岳
  右は大崩壊跡が残る眉山

(2)1991年2月 再噴火
  まだ、観光の振興に役立つ
  と思われていた

(3)(4)1991年6月
  「6・3」大火砕流

(5)1991年8月
  西川さんが撮る普賢岳は
  比類ない美しさだ

(5)1991年8月
  北側から見た普賢岳


(5)1991年10月
   普賢岳から落ちてきた火砕流
   中央の黒い尾根を超えられず
   夜空を焦がしていた


(6)南側から普賢岳を望む
  手前に見える扇状地が深江町

(7)1991年10月
  東斜面に延びてきた溶岩ドーム

(8)普賢岳山頂の溶岩ドーム
  写真の範囲だけで左右100m以上
  麓から見ても毎日形が変わった

(8)1992年7月 溶岩ドーム
  長時間露光すると赤く写る

(9)1992年8月
  南東の「赤松谷」に
  溶岩ドームが崩れ落ちていく


(10)1992年7月の溶岩ドーム
  
溶岩噴出量は2万立方m
  
島原城の天守閣が毎日1本
  山頂に出てくる状態だった

(11)1992年11月
   プロの手にかかれば
   こんな写真が撮れる

(12)1993年5月 
  月の明るい夜に絞りを開けると
  こう撮れる
  右側(普賢岳の北東側)に
  流れ下っている火砕流は
  千本木方向に迫っていた

(12)1993年5月
  
北東方向に流れる火砕流は
  まだ垂木台地(中段の丘陵)を
  乗り越えられずにいた
  (手前は千本木地区)

(13)1993年10月
  夜の火砕流

(14)1993年12月
  まがまがしい噴気を放つ
  溶岩ドーム

(15)1994年7月
  阪神大震災の半年前
  星空の七夕

(15)1994年7月
  あかね色は美しくさえ見える

(16)1994年8月
  左の稜線が元の普賢岳
  巨大な「平成新山」が誕生した

(15)1994年9月
  西側から見る火砕流の灰かぐら
  手前の雲仙ロープウエイの駅は
  安全な場所だ


以下に紹介するのは、もう26年も前に『雲仙記者日記』の第8章で、ぼくが記した西川さんの記述だ。
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 島原市の北隣、南高来郡有明町で写真館を経営する西川清人(きよと)さんは「写真を職業としている以上、俺が撮らにゃ」と、噴火以来普賢岳を写し続けてきた。身長170cm、体重94kgの巨体で、酒が入ると「サンパン」でさり気なく女性の胸やお尻を触るのを得意とする陽気な人柄だ。

 愛用のカメラ「ハッセル」で写した普賢岳は美しい。迫力や凄まじさだけでなく、自然の荘厳さにも焦点を合わせている。

 黒い闇の中に舞い上がる火砕流の噴煙は、肉眼では見えない鮮やかな薄桃色、赤、紫が複雑なグラデーションを作り上げている。
 作品は何度も写真週刊誌のカラーグラビアを飾り、中学校の理科教科書にも掲載された。九大観測所の太田一也教授は「学術写真としても一流だ。ぜひ出版すべきだ」と太鼓判を押す。

 「ヤマが、撮ってみろと言っているようなんだ」

 居合いもたしなむ西川さんは「普賢岳は気を放っている」と話す。昼夜を問わず撮影に行く西川さんに、奥さんの成子さんは「頼むから仕事をして」と泣きついたこともあった。
 「6・3大火砕流」の直前、撮影に没頭していた西川さんは、島原市白谷橋の上からファインダーをのぞく毎日新聞のカメラマンが、黒塗りの車両に乗り込んですぐ上流の上木場地区に向かうのを見送った。犠牲になった石津勉さんだった。
 そのときは小雨混じりの天気で、ちょうど東の有明海に虹が浮かび出た。
 西川さんがその場に残って虹を撮影していると、あの大火砕流が駆け下ってきた。些細なことが生死を分けた。
 千本木地区が火砕流で壊滅した朝、ぼくを高台の鳥越山まで連れていったのも西川さんだった。
 「サンパン」に立ち寄ったフリージャーナリストや雑誌記者は、必ず西川写真館まで足を伸ばす。この時期何が絵になるのか、彼が一番よくわかっているからだ。
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西川さんとは、本当によく飲んだ。ふとカメラを構えた西川さんが撮った写真だ。
ぼくの20代の、ベストショットだと思っている。

もう一度、西川さんに会いたい。
そう思っているのは、ぼくだけではない。


雲仙記者青春記 「大火砕流 30年後の"あとがき"」に続く


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