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大火砕流 30年後の”あとがき” 2021年6月3日

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(1995年、ジャストシステム刊)のネット復刻にあたり、2021年6月3日記す

復刻した本文はこちらから)

28歳のぼくが書いたこと

きょう6月3日は、大火砕流発生からちょうど30年の日だ。
あの時、24歳だったぼくは、たまたま島原市の取材ポイント「定点」にいなかった。だから、54歳になった今もこうして生きている。

長崎県島原市の取材本部に駆け付けた時、先輩記者からもらったメモには、「CAMERA 石津 車両 斉藤 伝送 笠井」とある。

「病院や警察を回って、この3人を負傷者の中から探せ。仕事はしなくていい」
島原に真っ先に駆け付けた長崎支局新人記者のぼくに与えられたのは、そういう指示だった。

同僚が、普賢岳の火砕流に巻き込まれているとは、思ってもいなかった。記者になったばかりのぼくは、夜を徹して懸命に探したが、見当たらなかった。
高温の火砕流の爆風が通り過ぎた現場、マスコミの取材ポイント「定点」に、3人の遺体はそのまま残されていたのだから。

犠牲者43人のうち、報道関係者はタクシーの運転手さんを含め20人。悔やんでも悔やみきれない。

3年後くらいの撮影だろうか
吹き飛ばされた手前の車両が
先輩3人が乗っていた車

24歳からの4年間、新米記者が現地で見たそのままを、ぼくは文章にまとめ、『雲仙記者日記』という本にした。28歳だった。

会社の上司には、事実関係を確認するために、一応ゲラを見せた。上司たちの人柄や言動を記した記述には、「こんなことまで書くんじゃない」と、赤ペンの添削がたくさん入れられたゲラが戻ってきたが、「この本は、業務として出すものじゃない。書くのはぼくだから」と、修正の指示はスルー。そのまま出版した。だけど、だれも怒らなかった。

なので、この文章には、四半世紀前のぼくが「冷凍保存」されている。

復刻した本文はこちらから)

社内のことで、特に隠したことはない。ただし、島原の人たちのことで、あえて書かなかったことはある。「あの人たちのことを、そこまで書いてはいけない」と判断した事柄だ。

島原の人たちは、よそ者であるぼくを迎え入れてくれた。メディアの一員でもあるぼくに、次第に本音で語るようになってくれた。

ネット社会となった今、6月3日が近づくと毎年、報道関係の犠牲者に対するさまざまな誹謗があふれるようになった。死者に鞭をふるう人々が拠って立つ根拠は、ネット情報だ。一部だけ事実を含むものの、意図的に拡大解釈されているのも目立つ。だが、現場にいなければ、わからなかった空気がある。

自分たちの仲間からも犠牲者を出してしまった。痛恨の事件だった。だが、ここで引いてはいけない。先輩たちは本気でそう考えていた。いつ収まるかしれない噴火災害に、徹底的に向き合う。そうしなければ、ぼくたちが存在する意味を見出せなかった。
長い災害に耐えていく島原の人々に、懸命についていこうとした報道陣の末端に、新人記者のぼくがいた。ぼくは現地に住み込み、島原市民として暮らした。

書いていないこと

この本に書いていないことで、一つだけ書いておきたいことがある。
「マスコミが電気を盗んだ」と批判された件だ。

避難勧告が出され、住民が退去した地域だったが、報道陣や火山学者はまだそこにいた。火山灰で喉がいがらっぽくなると、地元の方にお水をもらった。
家財を運び出す住民から、「水は勝手に飲んでよかけんね」と言われた。

ある放送局は、持参したバッテリーが切れそうになってきた時、そうした家の電源を借り、充電した。
ところが、「無人の家に、勝手に上がり込んだマスコミがいる」という話になってしまった。また、火山灰が降り積もった庭には、お水をもらう時の足跡も残っていた。

大火砕流が起き、消防団員12人、マスコミ関係者20人を含む43人が犠牲になった。大混乱の中で、メディアは猛烈な非難を浴びた。

ぼくたちが非難されるのは、仕方のないことだと思っている。

島原での勤務を終えて数年後。
電気を借りた放送局の方が、初めて島原の市民を前に語る機会に立ち会ったことがある。彼は、苦渋に満ちた言葉を絞るように紡いだ。

庭の電源(室内ではない)を勝手に借りたこと。
自分たちの連絡先を明記したメモを残していたこと。
(だから、電気を借りた局のことが住民に分かった)
住民の避難先を訪ねて、お詫びとお礼を伝えようとしていたこと。
だが、電気をもらった家の主を探し出せなかったこと。

その時の自分たちの行動を説明することは、見苦しい言い訳と取られるかもしれない中で、苦しそうに語る彼の姿を見ていて、過去のことにして知らぬふりをせず、覚悟を決めて語るべきだと考えているように思えた。
集まった島原の市民は聴き入っていた。

火砕流で大事な人を失った人々。
被災していないのに警戒区域に入ってしまい、破綻したホテル。
土石流で軒先まで埋まった家から、貴重品を取り出そうとする女性。

メディアの存在も一つの大きな被災要因となった島原で、報道を続けるのは時に苦痛も伴った。
島原に住み、異例の長期災害となった現地の状況をなんとしても東京に伝えたい、なぜ東京では報道されない、と歯噛みする私たちを、島原の人たちはよく見ていた。

30年後の「定点」

斜面に堆積した火山性の噴出物は、雨が降ると土石流を引き起こした。

谷は埋まり、高台にあったマスコミの取材ポイント「定点」が土石流に飲み込まれるのも時間の問題だと思っていたが、ぎりぎりで残った。
島原市役所の松下さんたちが、「定点」の場所を示す白い三角柱を建ててくれた。
だが、その意味を示すものは、何もない。ひそやかな慰霊だった。

爆風で吹き飛ばされたタクシーは、土砂にほとんど埋まっていた。

昨年秋、ぼくが島原でお世話になった地元の仲間たちが、「定点」周辺にそのまま放置されている車両を掘り出して保存しよう、と言い出した。

みんな、30年の月日を重ねている。

地元・町内会連絡協議会の会長になった、元ホテルマンの阿南さん。
ボランティア協議会の会長だった、造園会社の宮本さん。
公民館の職員だった杉本さんは、もう退職されている。

私にとって、長い災害をともに耐えた、戦友とも呼べる人たちだ。

島原では、マスコミに対し、いまだ複雑な感情が残る。だが、近年は、地元の住民が三角柱に花束を捧げるようになっているという。
阿南さんたちは、「マスコミの車をこのままにしておいてはいけない」「6・3から30年に合わせて、定点を整備しよう」と声を上げ、地元の人々を説得して回ったのだ。

紆余曲折あったが、長崎に拠点を置く放送局、新聞・通信社が足並みをそろえ、現地整備のために一定額を寄付した。

1月、阿南さんたち地元住民は集まって、「定点」の雑草を刈った。

2月、宮本さんは造園会社の重機を持ち出して、車両を掘り起こした。

「CAMERA 石津 車両 斉藤 伝送 笠井」の3人が乗っていた車両は、もう原形をとどめていなかった。

タクシーは骨格だけになっていて、吊り上げられると大きくたわんだ。バラバラになって落ちるのではとハラハラしたが、無事に地面に置くことができた。

掘り出し現場で宮本さんは、「整備するなら、もう少し広く場所を取った方がいい」とおっしゃっていた。費用は手出しででもやるつもりだ。

なんと、立派な人たちなのだろう。
ありがたく、申し訳ない思いだった。

雲仙に思いを残しているメディア人は、長崎のみならず、福岡にも、大阪にも東京にもいる。会社単位の寄付とは別に、個人の思いを集約してみようと思った。

30年前に新人記者だったぼくは、もう54歳になったが、大火砕流当時の最年少者であることはずっと変わらない。まだ報道の現場にいるぼくが、呼びかける役割を負うべきだろうと思った。

寄付専用の銀行口座〈PayPay銀行 はやぶさ支店(003) 普通 4858626〉と、クレジットカード専用の寄付サイトを用意して、ネット上でFacebookページを公開し寄付を呼びかけた。

「定点」整備と今後の維持・管理の費用に充ててもらうのだ。

多くの先輩はすでにリタイヤされているが、続々と寄付が集まってきた。ぼくに電話をくれ、「ありがとう、ありがとう」と繰り返す先輩が、何人もいた。

消えない思い

地元の方々によって、「定点」の整備はなされた。

「定点」の三角柱もリニューアルされ
中央やや左の奥に小さく見える

6月3日現在、募金を寄せてくれた方は120人に上り、総額は130万円を超えた。募金は7月末まで受け付け、募金サイト利用料や振込手数料を除く全額を、阿南さんが会長を務めている地元住民組織にお渡しする。
保存を呼びかけてくれた地元の方に宛て、メッセージを添えている方も多い。

・地元の皆様のご厚意に心から感謝し、島原半島の振興を祈念します。
・寸志で恐縮ですが、ご支援させて頂きます。改めて安全管理の責任を全うするように致します。
・現場整備へのご尽力、頭が下がります。よろしくお願いいたします。
・町内会の皆様の取り組みに敬意を表し、「1991・6・3」が風化しないことを願っています。
・決して忘れることはありません。「定点」を保存、整備する取り組みに心より深く感謝いたします。

そして……
ここに記していいか悩んだが、やはりお伝えすることにする。

約30万円という、多額の振り込みが一個人から寄せられた。
振込人の姓名は、女性。犠牲となったある報道関係者のパートナーだった方だ。

だが、夫を雲仙で亡くした後、女性は別の生活をしていると聞いていた。
若くして亡くなった夫と一緒にいたころの30年前の姓名で、募金を寄せてきたのだった。
そして、金額の「万」単位は、夫の年齢と同じ数だった。

思いの深さに、粛然とした。


5月22日、九州災害情報(報道)研究会の勉強会が開かれた。オンラインなので、九州だけでなく全国各地から、報道関係者、アナウンサー、気象や火山の研究者、行政の防災担当者が参加した。
ぼくは「雲仙の教訓」について1時間話した。

生きて帰ってこそ、災害報道であること。
他社や防災関係者が一緒にいても、安全は保証されないこと。
現場では五感をフルに使い、においや揺れに注意すること
危険を感じたら、指揮命令にかかわらず撤収してかまわないこと。
その結果、「特落ち」しても、責任を問わないこと。

毎日新聞時代のぼくが考えた「雲仙の教訓」は、そのまま現在の職場、RKB毎日放送の「災害取材の基本原則」としている。

また、明らかに危険な現場の映像ならば、どんなスクープ映像でも放送しないこと、その映像を撮ってきた記者は、その後の取材から外すことは、うるさいくらい事前に言ってきた。

だが、取材になるべく行かないことを、「雲仙の教訓だ」という人がいる。それは「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」ようなものだ。ぼくらの仕事は、人に伝えることだ。問題は、どう取材するかだ。
「雲仙の教訓」を、広く同業者と共有したいと願う。

撮るなら、考えられうる限り安全な場所から撮る。
「デスクからの指示だから」「他社がいるから引けない」では、再び死者を出す。
危険かどうかは、現場判断を最優先する。撮り損なっても、責任は問わない。

繰り返し、言い続けなければいけない。
雲仙は、過去のことではない。

2021年6月3日

元 毎日新聞島原支局記者
神戸金史
(RKB毎日放送 報道局)


『雲仙記者青春記』 了

















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