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『雲仙記者青春記』第10章 被災地に生きる

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』
(1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月3日第10章公開)

リレー「記者の目」

 牟田さんの件が一区切りすると、すぐに1994年の「6・3」連載企画の打ち合わせが始まった。
 戸澤正志、加藤信夫の両デスクも例年通り参加した。議論の末、今年は雲仙取材に関わった5人の記者がそれぞれテーマを分担して、署名記事形式で連載する「普賢岳『記者の目』」という企画に決まった。
 常駐したばかりで力がなかった入社2年目、災害に翻弄され警戒要員となっていた3年目を過ぎて、ぼくは初めて「6・3」連載企画陣の一員となれたのだ。
 「普賢岳『記者の目』」の1回目は柴田種明島原支局長で、テーマは「住民」。故郷にこだわる心と現実を取り上げた。

 2カ月前までいた北九州市で、いつも疑問に思っていたことがある。「将来の見通しがないのに、なぜ島原にしがみつくのか」

 島原市民になって疑問が解けた。一つは古里への深い思い。がそれだけではない。生活再建は島原でしか考えられないのだ。
 「よそに行ってん、なあんもなかけん、じげ(地元)におるしかなかろもん」

(1994年5月29日、毎日新聞)

 斉藤ラジオカーと途中まで行動をともにしながら、自家用車のウオッシャー液が切れガソリンスタンドで補充していて、惨事を免れた長崎支局の宮本勝行記者は「復興対策」を題材に、「やる気を支えるために、住民の願いを大胆に施策に取り込んでほしい。それが『島原方式』として定着するまで、しつこくペンを執り続けたい」と記した。

 最初の土石流から連続2カ月間に及ぶ応援取材を続け、その後も復興対策を担う長崎県政を担当した田中洋之記者は「政治」を取り上げ、特別立法という看板を自ら掲げた海部俊樹元首相らを「現地と東京で発言を平気で変え、約束守らぬ政治家たち」と厳しく批判した。
 また、浜野さんは島原支局長時代の太田終息発言報道を「結果的に言えば、誤報だった」と正直に告白し、「正確さと住民の願い。二者択一でなく、両立させる記事を目指したい」と“素人火山記者”の思いを率直に述べた。
 最終回がぼくの担当で、テーマは「報道」。危険区域の取材や牟田事件など、書きたいことはたくさんあったが、3年間もの長い災害に耐える被災者の現状に関わるものがふさわしいと思った。
 しかし、ぼくは筆が進まず考え込んでいた。というのも、特別立法に象徴される遠い未来の「目標」と、火山との共生を目指す被災地の日々の「現実」とのギャップに、自分自身がどういうスタンスで報道したらいいのか、判断できなくなっていたからだ。

 普賢岳災害は、前例のない長期災害である。
 災害対策基金を作るなどの対策を国が迫られたのも、災害対策基本法が一過性の災害しか想定しておらず、長期化した大規模な災害への対策がおろそかなためだった。こうした法的な欠陥は、島原市出身の福崎博孝弁護士らが中心になって92年9月にまとめた九州弁護士会連合会(九弁連)の「雲仙普賢岳噴火災害に関する意見書」で明らかにされた。
 これを受け、内部で討議を続けていた日本弁護士連合会(日弁連)は94年2月、「災害対策基本法等の改正に関する意見書」を新たに政府に提出した。日弁連の意見書は、北海道南西沖地震を例に挙げて「一過性の災害である地震・津波災害に対しても、決して十分な配慮がなされているとは言いがたい」と批判、次の5項目を提言した。

(1)警戒区域などの設定に伴い、住民が受けた財産的損失を補償する制度の創設
(2)
警戒区域の設定や解除にあたり、住民の意見を十分取り入れ、設定権者の市町村長を助けるために科学者や都道府県知事などを含めた第三者機関を作るなど、権限の行使システムの再検討
(3)長期化大規模災害対策法
(仮称)の制定
(4)災害対策基金創設措置法(仮称)の制定
(5)地震などで被害を受けた住宅について、国レベルでの共済制度の創設

 この中で、後半の3つの提言は九弁連の意見書にはなかった新しい考え方だ。
 (3)の長期化大規模災害対策法は、「長期化」「大規模」と2つの条件を付け、対象となる災害を限定したことが九弁連の意見書とは大きく違う。
 政府系金融機関は、災害区域内の被災者が災害前から抱えていた債務の利息を免除し、元金の支払いを一時猶予する。住宅が被災した場合は、残っている住宅ローンの減免措置を導入する。
 大規模な災害では、被災者が連帯保証人や担保物件を見つけることが難しいため、公的な災害対策融資はこうした条件を軽減し、災害が継続しているうちは返済を求めない。災害危険区域内の住民が移転を希望する場合、国が土地・建物を買い上げる――などの内容だ。

 また、(4)の災害対策基金創設措置法は、数百億円の公費をつかって創設した普賢岳の災害対策基金に、その出費の根拠となる法律が何もない不備を補うため考えられた。
 国は恒常的な災害対策基金を創設し、さらに災害が発生した都道府県には国の基金を原資に臨時の地方基金を設置する。これらは、(1)と(3)の事業の財源を確保するのが目的だ。

 九弁連の意見書は、主に警戒区域設定による“法災”救援を訴えたが、日弁連の意見書は、伊豆大島・三原山噴火など各地の災害の実例も取り上げ、災害対策全般に関する内容に深化していた。
 この意見書を貫いているのは「相互扶助」の思想である。
 福崎さんに「一体いくら必要になるんでしょう」と聞くと、「数兆円はいるね」という答えが返ってきた。国民1人が年間1000円を拠出したとすれば1000億円。10年かけてやっと1兆。とんでもない金額だ。しかし、「災害の被害はなんでも補償すべきだ」としていた九弁連の意見書より、改善策はずっと具体的になった。なんも備えのない現状を改めなければならないのは当然で、方向性を指し示したと言えるだろう。

 しかし、現地の島原、深江ではすでに「特別立法」は実現不可能な夢物語としてすっかり色あせていた。

 特別立法を求めて500万人の署名を集めた市民団体「島原生き残りと復興対策協議会」(生き残りの会)は94年6月、吉岡庭二郎島原市長と横田幸信深江町長らとともに上京、羽田孜首相と面会して、激甚災害の指定枠拡大など、具体的な内容の政府請願を実現させたが、生き残りの会は「特別立法」や「個人補償」という災害当初からの合言葉を、この請願の文面から外した。
 この文句が入っていては、「災害は自立再建」という原則を譲らない官僚が請願すべてを拒否してしまうからだ。被災地は“法災”への怒りよりも、長期災害が継続する中でどう生き残るかを模索していた。「名を捨てて実を取る」ことを選んだわけだ。
 こうした現状の中で取材を続けていたぼくは、日弁連の主張にうなずきながらも、「理想論より現実的な対応を急ぐべきでは」との思いに駆られていた。マスコミが簡単に行政を批判しても、何も変わらない。
 「報道」というテーマを与えられたのに、自分が拠って立つ場を見つけられなかった。

被災地のリアル

 行き詰まっていたある夜、島原市札の元町の建築士、堀一也さんと会うことにした。
 堀さんは1991年の「6・30土石流」で自宅を失った。導流堤建設予定地となった堀さんら約70世帯は当初、建設省の計画に反対したため、早期着工を求める周辺地区から孤立し、住民団体「流焼失家屋被災者の会」を作って独自の路線を歩んでいた。
 避難先の県営住宅に集まってくれたのは堀さんらメンバーの5人。「現状の問題点を聞かせてほしい」と切り出すと、彼らは堰を切ったように喋り始めた。最初に指摘があったのは、保険制度の欠陥だった。

 「住宅の火災保険は、噴火でやられたのだからと、保険金額の5%の見舞金が支払われただけだった。地震や火山が保険の免責事項だなんて、契約のときになんの説明も受けていない」

 火災保険の契約書には、戦争、内乱、地震や津波、火山噴火とそれらに伴う火災には保険金は支払われない、と注意書きが付いている。地震保険はこの免責事項を補う意味を持ち、火災保険の加入者だけが加入できるもので、それ自体が独立した保険ではない。
 地震保険は、1964年の新潟地震が契機となって68年に創設された。これには、当地出身の田中角栄大蔵大臣の強い意向が働いたとされる。
 この保険の最大の問題点は、支払い金額が建物補償は上限1000万円、家財が500万円とかなり低く抑えられていることだ。これは被災者が膨大な人数になると、保険会社が支払い不能となる恐れがあり、支払金額の総額を抑える必要があったからである。

 加入者が支払う掛け金は、都道府県ごとに設定された地震発生の確率に基づいて算定され、さらに補償対象の建物が木造か、非木造かで異なる。
 木造住宅で上限いっぱいの1000万円の補償を受ける場合、岡山県や福岡県など統計上地震が起こりにくいとされる地域は、火災保険の掛け金に加えて年間1万6000円を支払うことで加入できる。
 しかし、危険率が高いとされる東京都や神奈川県では4万7000円と、かなりの高額だ。
 このため、北海道南西沖地震が発生した93年の時点で、加入者は全国の世帯数のうちわずか7%に留まっていた。東京は地震への危機感が強いのか、全国でもっとも加入率は高いが、それでも16・3%にすぎない。加入者が少なすぎるから、いっそう割高になる。
 日弁連は意見書で「地震国であるわが国で、加入率の極めて低い地震保険制度は、その制度自体に問題があると言わざるをえない」と指摘していた。

 保険会社も地震保険の加入促進に消極的だ。うま味は少ないし、値段が高い地震保険を提示しても加入者が少ないのだから無駄だ。このため、奥尻島では保険会社が「説明義務を怠った」と被災者から提訴されている。
 一方、普賢岳災害では、警戒区域内は危険地区と見なされたため、新たに地震保険に加入しようとしても認められなかった。水無川下流で規制が解除された地域住民はこぞって加入したが、こうした防衛策を選べた人たちは恵まれていた。警戒区域の設定は、保険に加入する権利も奪ったのである。

一番弱い立場の人が見えなくなっていた

 「声ば出せば打たるるばってん、結局91年6月の災害当初に帰らなければ、なあんも解決できんとですよ」と堀さんが唇をかみしめるのには、こうした事情がある。
 堀さんたちは前年の夏、「生活再建に義援金で補償を」と訴えて市役所前で座り込みを決行し、新聞でも大きく取り上げられた。しかし、被災者の中でも、彼らのように明確な要求を掲げるのは少数派。市民の反応は「金のことばかり言いよって。島原の恥ばい」と冷たかった。
 まわりの影響で、ぼくも少し偏見を持っていた。しかし、それまで座り込みなどでその時々の取材はしていても、彼ら1人1人の心情をじっくり聞いたことはなかった。
 堀さん自身は設計事務所を市北部の三会地区に移転して事業を専開しており、食うに困る状況ではなかった。のぼり旗を立てて座り込むような運動をしていれば、商売にも悪影響が出ることは覚悟の上だったはずだ。
 ぼくは初めて、彼が切り捨てられる仲間、弱い被災者のために矢面に立っていることを知った。弁舌が立つこのリーダーを得て、ようやく被災者は重い口を開けたのだ。

 「住んどったこまんか(=小さな)家が火砕流や土石流でのうなった。買収対象は狭ぁか土地だけですよ。それも被災地やっけん、足元ば見られて安か値しか言うてこん。こン金額で、新しか家ば建てろと言われてン、無理でしょもん」

 「家の燃えてしもうてから、ローンだけ残った人とか、老人しかおらずに収入のなか人たちゃ、どがんすればよかとでしょうか」

 普賢岳災害では、被害拡大を防ぐために大規模な防災工事が計画され、建設予定地域内の土地や家屋の買収が進んでおり、その補償金が結果的に被災者の住宅再建資金となる。
 しかし、事業地域に入らなければ、被災していても買い上げ補償は当然出ない。さらに、買い上げ契約がまとまる前に家が燃えてしまえば、補償対象は土地だけだ。土地代も災害前とは違って荒野として価格算定される。
 防災事業と復興対策がごちゃごちゃになっていることに基本的な問題があるのだ。「ゼネコン型復興」と呼んでもいいかもしれない。
 93年の「4・28大土石流」で被災した水無川下流部は、川の拡幅工事と導流堤の建設工事を除いて、ほとんどの地域が買収対象から外れた。2つの工事地域にはさまれた93haのこの地区は通称「安中三角地帯」と呼ばれている。
 住民にはなんの補償もないため、行政はこの地域を「土石流で堆積した土砂の捨て場」として借り上げ、土砂を積み上げて高さ6mもかさ上げするというプランを考えついた。買収しないので、土地は住民の所有である。
 県や国が川などから取り除いた土砂を三角地帯に捨て、代わりに土地賃貸料が住民の手に入る。そして、住民は高台になって安全になった故郷に自宅を再建するのだ。完成までには5年以上もかかるというが、「ゼネコン型復興」に入らない住民を救う名案だ。
 しかし、これは土石流が頻発してかさ上げ用の土砂が大量に供給され続けている特殊な状況で初めてできることで、根本的な災害対策のあり方には関係がない。
 ぼくは、三角地帯に比べれば買収される人はまだいいと思っていたが、堀さんらの話を聞いて、買収地区の住民にも根深い問題が残されていることを改めて考えさせられた。
 副会長の百貨店勤務、吉田国廣さんは「避難生活に耐え切れなくなって、しかたなく買収に応じた人も多かですよ。そン金も食いつぶして、とうとうサラ金に頼る人も出てきとっとが現状ですよ」と訴えた。その場にいた1人が、ぽつりとつぶやいた。

 「市からも、町内会からも見放されてしもうた。復興対策はだんだん進みよるばってん、最初に被害におうた俺(おい)たちゃは、打っちょられとる気がしてならん」

 「普賢岳『記者の目』」の最終回、ぼくは堀さんたちの取材で感じたことを、反省を含めてそのまま書いた。

 日本弁護士連合会が「警戒区域設定に伴う損失補償は法的に正当」という内容の意見を政府に提出した。毎日新聞は1面トップで報じたが、私は「大事なことだが、地元の意識とはずれている」と戸惑いを覚えた。

 経済的に追い詰められた商店主から「被災者は甘えている」と聞かされているうちに、「特別立法」「個人補償」という言葉が空虚に思え、「被災地全体に具体的な援助を」と考えはじめていたからだ。

 ところが、災害当初に被災、すべてを失ったのに保険による補償も十分でなかった人が「被災者の中では少数派。もう切り捨てられる。将来の望みはないよ」とつぶやく声にハッとした。
 いつしか、一番弱い立場の人が見えなくなっていたのだ。

(1994年6月2日、毎日新聞)

書けなかった遺族のリアル

 また「6・3」がやってきた。
 当日の朝刊では社会面で、消防団員の夫を失った若い2入の女性を取り上げた。
 女性は、夫(当時26歳)の遺骨が納められたお寺にお参りするのが日課だ。全身に大火傷を負った夫は3カ月間、一度も意識を取り戻さずに世を去った。「寝たきりでもいいから生きていて」という妻の祈りは届かなかった。
 「6・3」の直前に生まれたばかりの息子は3つになった。写真でしか知らない父親の遺影の前に座り、お経をあげる真似をするようになったという。「元気に育つよう、あの人も見守ってくれるはず」と、女性は信じている。
 もう1人の女性の取材は、ぼくが担当した。
 「6・3」の直前、3女を身ごもっていた。実家に帰っていた妻に、夫(当時31歳)は「明日は消防団の当番で、上木場に入るよ」と電話をかけてきた。それが最後だった。
 「6・3」の翌日、夫は病院で亡くなった。葬儀に誰が来たかも覚えていないほど混乱した女性は、夫の名を呼びながら、3女を産み落とした。長女は今も、よく父のことを思い出して話す。「私たちの生活に、今も主人は欠けていないんです」と、女性は話した。

 しかし、このような家庭は少ない。
 多くの遺族で、若い妻と夫の両親の間に修復できないほど深い亀裂が生まれていた。
 問題になったのは、消防団の弔慰金と義援金の扱いだ。
 寄せられた金の名義は妻あてである。妻はまだ小さな子どもの将来を考え、教育費などに資金を残しておきたい。「私はあの人の妻であって、家の嫁ではありません。これから女手一つで子どもを育てていかなければならないんです」と別居したケースが多いのだ。
 一方、両親は「うちの嫁は金を全部持って実家に帰ってしまった。年寄りのことなんか見向きもせん」と憤る。
 最大の相違点は「家庭観」だった。ある遺族は「世代で考え方が違うのはしかたないのかもしれん。しかし、私たちも跡取りを失って、将来が不安。孫とも会えなくなった。家族で助け合って生きていきたかった」と漏らしていた。
 しかし、このつらい現実を、表に出すことはできなかった。

 「防災関係で何かおもしろいことがあるよ」という情報が5月末に入ってきた。
 夜回りして調べると、眉山(まゆやま)が崩壊する恐れが出たときに備え、島原市が大規模な避難計画を策定し、「6・3」当日に開く市防災会議で決定、発表するというのだ。
 計画では、眉山に明らかな異常が見つかった場合、市長は市北部の三会(みえ)地区を除く市内全域に避難を勧告する。全市民4万2000人の87%を、まず三会地区と南隣の深江町の小中学校に避難させ、各町内会ごとにそこから自衛隊や警察車両などで約50km離れた長崎市と、約30km西の諌早市の小中学校など公的施設に収容し、臨時の市役所を長崎県庁に設置するという。
 島原市には三会地区に出先機関を置くだけ。島原市はほとんどが無人になる大規模な計画だった。
 全貌がわかったのは、6月2日夕方。紙面上の扱いについて、「6・3」デスクとして前線本部入りしていた戸澤さんと相談した。
 計画は1つの市がほぼ丸ごと避難するという規模。1面トップを張っても当然だった。

 しかし、眉山崩壊は市民がもっとも恐れる災害だ。
 せっかく火山活動が下り坂になってきているのに記事の書き方によっては、市民に無用な不安をあおり、わずかずつ回復に向かっていた観光客も途絶えてしまうかもしれない。戸澤さんは「せっかくの特ダネだが、控えめにしよう」と判断した。柴田種明支局長も同意見だった。
 ぼくは、九大観測所の太田一也教授の自宅へ行き、「眉山の水位計や傾斜計のデータに変化なく、地震はゼロ。現在まったく崩壊は考えられない。だが、計画はあったほうがいい。公表に驚く必要はない」というコメントを取って記事に加えた。扱いも社会面の目立ちにくいところに置き、見出しも「眉山崩壊に備え避難計画 市民の87%、長崎・諌早市へ 島原市、きょう公表『恐れ全くないが』」(1994年6月3日、毎日新聞)と、非常に気をつかった。
 島原市がこの時期に公表したのは、大きな災害が続いた93年から1年が経過し、「今なら冷静に市民が受け止められるだろう」と判断したためだった。
 明日の朝刊の大刷りをファクスで取り寄せた後、ぼくはこれまで浜野さんに任せっ放しだった「『6・3』の特ダネ」をやっと書けて、全身の力が抜けたような気がした。

 しばらく経って、ぼくはふと不安になった。
 ほとんどの市民が避難した後で、もし眉山が崩れなかったら、吉岡庭二郎市長は避難勧告を解除できるのか。危険性が残っている以上、できないのではないだろうか。
 この避難勧告は事実上、「市の自殺宣言」に等しい。記事を自分で書いておきながら、そんな避難計画が実際に発動できるとは思えなくなってきた。
 眉山の安全性は、大学教授や防災関係者を集めて年に数度開かれる「眉山治山対策検討委員会」で論議され、異常のないことが報告されている。委員会に参加している東京の専門家や行政マンが、一つの地域を崩壊させる決断に責任を持つことは不可能だ。
 「この会議で実際に異常が報告された場合どうなるのでしょう」と、九大観測所の清水洋・助教授に聞いてみた。
 清水さんは「結局、委員会に参加している太田先生と吉岡市長の間で決まることになるでしょうね。本当に異常があれば、太田先生が『もう限界だ。避難を勧告すべきだ』と進言するでしょう。太田先生は、もし何もなかったら首をくくるぐらいの覚悟を持っていますよ」と言った。
 地元出身で、防災に深く関わってきた太田先生がそこまでの覚悟を持って進言したら、吉岡市長も決断せざるをえまい。自分の故郷を守るため大きな責任を持って研究している研究者が島原市にいた意味を、ぼくは改めて考えた。

 3周年で、ぼくにはもう1つ課題が残されていた。「記者の目」である。
 ぼくはもう一度、原点に戻った論調を選び、島原グランドホテルの金崎福男社長や「流焼失家屋被災者の会」の堀一也さんら、「法災」や災害当初の被災者を取り上げた。

 有史以来、世界で噴火した火山は約800。その1割の83個が日本にある。
 住民の要求は、直接的には自分たちの救済要求だが、同時にどこかで起きる可能性のある長期災害について「普賢岳を教訓にして、関係法律を見直してほしい」という訴えでもある。

 堀一也さんは次のように言う。
 「普賢岳以外で、二度と『法災』の被害者を出してはならない。法改正と新規立法の制定に取り組むことが、義援金など全国からの善意に応えることになる」
 政治に求めたい。住民の声と、日弁連の意見書にぜひとも応えてほしい、と。7日正午で、鳥原は警戒区域設定から4年目に入る。

(1994年6月7日、毎日新聞)

 連載企画、「6・3」当日特ダネ、3回目の「記者の目」を書き上げて、忙しかったぼくの「6・3」3周年が終わった。

10_19940723山頂付近の火砕流


「もう3年」か、「まだ3年」か

 1994年は全国的な異常渇水で、「筑紫二郎」と呼ばれる九州一の大河、筑後川を管内に持つ久留米支局は、夏に予想される水不足取材で忙しい日々が続いていた。
 久留米支局長に異動した前島原支局長の浜野さんは、前線本部に時々電話をかけてきて「雨が降ってくれ、って祈るんだよ」と言う。ぼくは「とんでもない、島原で土石流が起こるじゃないですか。言ってることが1年前と逆ですよ」と冗談で返した。
 あるとき、浜野さんに「島原を離れてみて、初めて感じたんだけどな。被災者が一体どうやって生活しているのかが、新聞を読んだだけではわからないんだよ」と言われた。
 そうかもしれない。堀さんや吉田さんのような立場の声が、新聞にあまり載っていないのは確かだ。農業ができなくなった人たちが、需要の増えた土木作業員などに吸収されていることは知っていたが、それだけで生活しているのだろうか。住民のたつきの道がどうなっているのか、ぼくもよくわからなくなっていた。
 浜野さんは、加藤信夫デスクにもこの思いを伝えていた。この年のマスコミ「雲仙集会」で、パネラーになった加藤さんは、居並ぶ各社の記者たちに壇上から宣言した。

 もう3年経ったのか、それともまだ3年なのか、ずっと考えています。

 実は今年、毎日新聞の西部本社で6月3日に祭壇を設けない、という話があり、大変驚いたんです。3人の仲間を失った毎日新聞としては、当然今年も慰霊するものと思っていたからです。結局祭壇はととのいましたが、社内でも“感度”の違いがあると深刻に受け止めました。
 毎日新聞は今後、紙面に住民の息づかいを出していきたい。毎月1回、住民の生活報告と現状ルポをやろうということになり、今具体的に詰めています。

 浜野さんの疑問と、加藤デスクの意気込みが、月に一度の社会面連載「生きる」を生んだ。初回は7月上旬と決まった。1回目で、ぼくはどうしても取り上げたい人がいた。

 6月3日に島原地区労動組合会議などが主催して新規立法を求めた集会で、福崎博孝弁護士が講演した。その中で現地記者のぼくも知らなかった厳しい現実が紹介された。
 「災害は、忘れ去られるのが宿命です。しかし、災害が継続しているのに、忘れられるなんてこんな悲惨なことはない。災害前からの借金が返済できず、災害対策融資を受けるが、災害は一向に終わらない。借金だけがどんどん増えていく。本人が倒産するだけではなく、とうとう災対融資の連帯保証人まで仮差し押さえが及んでいるケースが出てきました」

 公的な災対融資が、保証人まで差し押さえを強行したなんて信じられなかった。
 演壇から降りてきた福崎さんに駆け寄り、「その人が誰か教えてくれ」と頼むと、数日後「本人の了解が取れた」と連絡があった。その人、島原市内で学習塾を経営するMさんは、福崎さんの島原高校の同級生だった。

 Mさんは東京で塾教師をしていたが、「故郷で暮らしたい」と一家3人で8年前にUターン。2300万円のローンを組み、市中心部の住宅街に自宅を建設、塾を開いた。
 実家は市内のアーケード街にある靴店で、年老いた両親が細寿と経営していた。月平均の売り上げは125万円。在庫を抱える仕事柄、手形決済が多く、効率は悪い商売だった。借金も当然あった。
 そこに「6・3大火砕流」が起きた。靴店の収入はほとんどゼロになったのに、手形の支払いは迫る。老夫婦は、Mさんが連帯保証人になって国民金融公庫から災害対策資金を350万円借り、月末を乗り切った。
 しかし、災害は拡大するばかり。2カ月後にまた200万円。直接被害を受けた事業者は返済が猶予されたが、靴店は被災していない。翌92年1月から、6・5%の利子分のうち、県の雲仙岳災害対策基金からの利子補給を除く3・5%分の返済が始まった。
 その後も経営は回復せず、まもなく地元信用組合から200万円を借りた。その返済に、クレジット会社からも借金した。

 Mさんは「今考えれば、災対融資を借りずに自己破産してしまえばよかったんですけどね。でも噴火はすぐに収まるかもしれないし、手形を切れなければ店を潰してしまう親を前にして、保証人を断れないですよ。自分もその店のお陰で成長してきたのだし」と、雪だるま式に借金が増えた理由を説明する。

 太田先生の終息発言も出た93年初め、老夫婦はとうとう店を売ることを決めた。すでに借金の総額は3700万円、Mさんが保証人になっている分だけで1800万円にも達していた。
 しかし、買い手が見つかって、交渉を進めている矢先に大災害が連発。7月に水無川と中尾川の土石流で市内が孤立化したことで、交渉相手から「島原市内では商売できない」と見なされ、商談は白紙に戻ってしまった。
 これで、両親は自己破産せざるを得ない状況に陥った。代わってMさんに返済義務が回ってきた。取り立てが早いクレジット会社を優先し、毎月約16万円もの返済に追われた。
 長崎簡易裁判所から1通の封書が届いたのは、94年5月下旬。国民金融公庫からの災害対策融資620万円分の未払いで、夫婦の名義になっていた自宅と土地のうち、Mさん分の2分の1が「仮差し押さえ」処分を受けた。この後も支払いが進まなければ「本差し押さえ」。売却して負債を支払うことになる。自宅がなくなれば塾の経営もできない。

 「何度か催促に来たけど、とても国民金融公庫まで手が回らない。公の機関だし、災対融資だから、と後回しにしていたんです。こんなに早く仮差し押さえするとは思わなかった。1週間くらい女房にも言えませんでした。
 でも、誰も恨んではいません。前向きに生きないとね。子どもにまで借金を残すのは嫌だから、何年かかっても返済します。だから、返済の相談に乗ってほしいんです。家がなくなったら、返せなくなるんです」

 災対融資の貸付窓口となる島原商工会議所は、「普通なら融資できないような経営状態の事業者にも融資しました。災対融資を受けられないために倒産したとなったら大変です。融資条件のハードルを下げたのは確かです」と、正直に取材に答えてくれた。
 数回の取材中、Mさんは一貫して冷静だった。しかし、「貸すときだけ災害対策で、回収はいつも通り。これでは災害対策じゃないですよ。私のような例はこれからどんどん出てきます。災害は1つの“戦争”なんです」と話したときだけ、厳しい口調に変わった。

 老いた両親のささやかな店は、災害の余波に押しつぶされ、息子一家に重くのしかかった。水面の波紋のように、被害の輪は静かに拡大している。連載「生きる」の第1回は「Uターン人生とん座 靴屋の父の連帯保証で 塾兼自宅『災害融資が一番に仮差し押さえ』」(1994年7月5日、毎日新聞)と見出しが並んだ。
 反響は大きかった。深江町商工会でさえ、「こんな例は聞いたことがない」と詳細を問い合わせてきた。国民金融公庫も、事の重大さがわかったのか、その後Mさんの家はまだ本差押さえを受けてはいない。

被災者一人ひとりのリアル

 それから、毎月初めに社会面で「生きる」を連載することになった。
 8月になって、柴田種明島原支局長が「ニワトリ処理工場が災害でつぶれて、1億もの借金を作った人がいる」と聞きつけてきた。
 前年の5月、西日本新聞が独自ダネで大きく扱った徳田小平さんのことだった。その記事を読んですぐ調べてみると、「あの人は災害の影響というよりも、無理な投資をしたせいで倒産したんだ」という話だったので、追いかけ記事は書かなかった。
 そのことを説明したが、柴田さんは「本人には話を聞いていないんだろう。『生きる』に使えるかもしれないから、行ってくる」と取材に出かけた。

 徳田さんは1956年に鶏肉処理工場を市内上折橋町に作った。養鶏農家から卵を産まなくなったニワトリを仕入れ、食肉処理をして食品加工メーカーに卸す。40年近い歳月をかけて、夫婦2人の工場は従業員18人を抱えるまでに成長した。
 ところが、「6・3」で流れが変わった。欠勤する従業員が相次ぎ、売り上げも半減。工場も避難勧告地域になり、3カ月後には操業休止に追い込まれた。
 廃業すべきか、移転して再起すべきかと悩んだ徳田さんが移転を決断したのは、取引先や従業員の強い希望があったからだった。災害関連の県中小企業移転対策資金から1億円を借り、市北部の安全な場所に新工場を建設、92年7月に操業を再開した。
 新工場は最新鋭の機材を導入、月に20トンを処理できるはずだったが、思ったより能率が上がらなかった。さらに急激な円高で、外国産の安い鶏肉が大量に流通、取引価格が急落してしまった。
 生命保険を解約したり、孫の貯金を取り崩したりして支払いにあてたが、とうとう93年3月、廃業を決断して自己破産した。借金は1億4500万円にも膨れ上がってしまった。

 「操業中はニワトリの夢を見てうなされたばってん、やっと眠れるようになった」と徳田さんは言う。
 今は造園業の仕事に落ち着いている。「避難勧告地域にならんやったら、休業したときにやめとったら、と思う。40年間、一生懸命に働いて得たものが、この3年で全部失(の)うなってしもうた」と徳田さんはつぶやく。しかし、「誰を恨んでも仕方なか。周りの人に迷惑をかけんでやめられてよかったと思うとります」と、柴田さんに話した。
 災害にねじ曲げられた人生。9月の「生きる」に、徳田さんの思いが掲載された。柴田さんは、取材を終えた後でぼくに言った。

 「抜かれた後で、きちんと徳田さんに会っておくべきだったな。無理な投資というが、災害がなければ徳田さんもこんなことにはなっていなかったんだ」
 ぼくは反省せざるを得なかった。

 久しぶりに島原取材に来たテレビ長崎の槌田禎子さんを囲み、島原新聞の清水真守さんと飲んでいたある夜。1人の青年と会った。広瀬介干(すけもと)さん。聴覚障害者で、言葉が不自由だ。
 カウンターの端でニコニコと酒を飲んでいたが、やがて筆談を交えて話しかけてきた。唇の動きで、ぼくらの話もだいたい理解できる。島原市南上木場町出身のこの介干さんを、柴田支局長が95年1月の「生きる」で取り上げることにした。
 島原市新山の県営住宅に避難中の広瀬一家を訪問し、両親の「説明」を交えて取材することになり、ぼくも同行した。
 介干さんは、幼いころの病気がもとで聴覚を失った。市内の鉄工所に勤めながら両親のタバコ栽培を手伝っていたが、火砕流で自宅は焼失してしまった。
 父の秋男さんが「家が燃えたとき、介干はわんわん泣いてね。酒を自棄飲みして、大変な騒ぎだった」と話し始めると、介干さんは口を「への字」に結んで、「違う、違う」と身振りで否定した。しかし、母親のミツヱさんも「そうそう。5合くらい入っていたのを全部飲んじゃって。ゲーゲー吐いたんですよ」と具体的に説明するので、介干さんはとうとう「そんなに飲んでなかったよ」と笑い出した。
 一家で避難生活を送るうち、介干さんは「生活再建するにはお金がいる」と愛知県の自動車工場に就職することになった。「その工場は障害者を特別扱いしなくてよかった」と介干さんは言う。ミツヱさんは「給料も鉄工所の2倍になって」と誇らしげだった。
 被災地に残した両親とは、ファクスで連絡を取り合った。ミツヱさんは、息子から届いたファクスを箱に入れ、大切に保存している。
 しかし、離れ離れに暮らす年老いた両親と障害を持つ子は、お互いが心配だった。会社の上司には「ご両親も名古屋へ呼んだら」と勧められたが、やがて介干さんは自分が故郷に戻ることに決めた。

 93年3月、介干さんの新しい職場は島原半島北部にある特別養護老人ホームになった。入所しているお年寄りの食事や入浴を介助するのが仕事。将来は、介護福祉士の資格を取るつもりだ。
 取材中、秋男さんは「うちに来たお客に、酒も飲まさんで帰らせたら恥ばい」と何度も熱欄を勧めてくれた。
 途中で、1人の若い女性が広瀬さんの家を訪ねてきた。ミツヱさんが出迎え、女性は部屋の隅にちょこんと座った。取材を続けながら「どこかで見たことがあるな」と考えているうちに思い出した。市内のアーケード街を介干さんが歩いているのを見かけ、声をかけようとしたが、この女性が一緒なのに気付き遠慮したことがあったのだ。
 柴田さんが「失礼ですが、この方は」と聞くと、介干さんは酒で赤くなった顔をさらに真っ赤にした。ホームの同僚で、結婚の意志をすでに固めているという。照れる2人を、笑い声が包んだ。
 こんなに楽しい取材は久しぶりだった。

絶たれた農業後継の夢

 災害が長期化するうちに、被災地の経済はどんどん先細りになっていた。島原市は災害前の年間売上高が約985億円の小さな町だが、島原商工会議所の試算では、惨事が起きた91年6月から92年11月までの2年半で売上高は659億円減少したという。
 人口も2700人減少して4万2000人を切った。銀行関係者は「届け出ていない一時転出も考慮すれば、実数は4万人を割っていると考えたほうがいい」と解説する。
 これでは、商店街は青息吐息になる。修学旅行客を中心に年間42万人いた観光客も、約半分の22万人にまで落ち込んでいた。修学旅行は実際の旅行の2年前には計画を立てている。すぐに災害が終わったとしても、回復するのは数年後。経済の落ち込みは深刻だ。

 火砕流や土石流で直接被害を受けたわけではないが、経済的なダメージで苦しむ「間接被害者」の企業に対する融資制度は、国民金融公庫など6種類ある。長崎県の「地域産業対策資金(災害対策特別貸付)」が最大で、災害当初はまだバブル経済だったため利率は5・4%と高かった。
 しかしその後の低金利時代で、行政は利子を一部補給、その後に融資を求めた人には実質負担が3%と市中金利に近い水準まで引き下げ、償還期限も5年から10年に延長された。
 こうした政府系金融機関の災害貸付を受けたのは、94年6月当時で約2300企業、金額は172億円に達していた。
 ある商店主の場合、長崎県の災害対策特別貸付から2000万円を10年返済で借りた。年利は4・8%。元金は2年間返済が猶予されており、毎月利子分だけを返せばよかったが、その後バブルがはじけて市中金利は2%台にまで下がった。融資当時の利率は変更できないため、相対的に高くなった利子を商店主は払い続けている。日弁連が「長期化大規模災害対策法」を創設して、災害継続中は災対融資の返済を求めるべきではないと主張したのは、こうした実態があるからだ。

 農林漁業の被害も大きかった。
 火砕流や土石流で直接被災した地域だけではなく、周辺地域の作物も火山灰で品質が悪化した。土石流で有明海に流れ出た流木は漁船のスクリューを傷付け、海に押し出された火山灰で魚が集まってくる藻場は埋まった。漁場が壊滅した島原市の安中漁協の水揚げ高は災害後30%に落ち込み、103人いた漁業従事者は80人に減った。
 有馬進組合長は「半年くらいで終わるじゃろと思っとったが。息子も漁業を辞めた。何かで稼がんと家族を養えん」と悔しがる。
 長崎県のまとめでは、94年2月末までに農林水産施設が受けた直接の被害だけで159億円に達していた。
 農地か自宅が警戒区域になった農家は667戸あった。94年2月になっても、この3分の2は農業を再開できず、アルバイトか土木作業員などで糊口をしのいだ。県の農業担当者は「一度現金収入の味を覚えた人が、農業を再開するのはむずかしいのでは」と見る。

 島原農業高校2年生の伊藤寿之君は、数少ない農業後継者だった。家業の酪農を継ぐことに決めたのは、中学2年生の正月のことだ。半年後に島原市中安徳町の自宅と牛舎は警戒区域になったが、父の廣喜さんは島原半島北部に約20頭の乳牛を避難させ、酪農を続けていた。
 「火山活動はいつか終わる。そのときには農業を」と心に決めていた寿之君は1年後の夏、酪農の研修に北海道へ行った。そのとき泊まった農家のテレビに、水無川の土石流の映像が流れた。
 心配して電話した寿之君の電話に、廣喜さんは「土石流は来とらんから心配するな」と答えたが、実際には自宅は床上1mも埋まっていた。みんなで2週間かけて掘り出した家は、93年の「4・28土石流」で柱1本を残して流されてしまった。

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1993年4月28日に起きた土石流で
上流の家屋は破壊され
下流は溶岩塊と火山灰に埋まった

 「あれからお父さんの考えが変わった」と寿之君は思っている。梅雨が明け、廣喜さんは農業を諦めることを家族に告げ、寿之君には就職を勧めた。「まだ今からなら就職先も探せるから、抵抗はありません」と彼は言うが、本音は父と一緒に牛を飼いたかったのだった。
 純朴な寿之君から、災害に翻弄された農家の姿が伝わってきた。

被災地に新たな動きを

 「なんとしても特別立法を」と訴えていた社会党から総理大臣となった村山富市首相は、94年8月の島原視察で「現行法の枠内で対応できる」と従来の政府発言を踏襲、被災地に大きな失望を与えた。自ら特別立法を言い出した海部俊樹首相は、村山政権と対時する新進党の党首である。被災地は政治に裏切られ続けてきた。
 しかし、94年2月に福崎さんらが中心になって作成した日本弁護士連合会(日弁連)の意見書に影響されて、被災地でも新たな動きが生まれた。「弁護士会ががんばっているというのに、当の島原がこのまま災害を忘れてしまってはいけない。市民が話し合う場を作って、災害対策をめぐるさまざまな意見を交換することが必要だ」と考えた有志で、ミニコミ紙を発行しようという計画だ。
 中心になったのは、島原市職員組合の執行委員長だった松下英爾さんと、社会党市議の松本匠さん、それに長崎新聞島原支局長の蓑田剛治さん。彼らから参加を誘われたのは94年の秋だった。

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1994年9月 西側から見る火砕流の灰かぐら
手前の雲仙ロープウエイの駅は 安全な場所だ

 「生き残りの会」のように、商工会議所や農・漁協など、市内の主要な団体を網羅した準公的な団体ではなく、「緩やかな個人参加のネットワーク」を作る方向を松下さんらは目指した。組織化に向けて、3人のがんばりは目を見張るものがあった。上木場地区、千本木地区、深江町の有力な被災者も設立の議論に迎え入れたのを始め、「問題をそのまま残して妥協してしまってはまずいのではないか」と考える災害とは無関係の住民にも参加を呼びかけた。
 問題は、「生き残りの会と敵対する新組織が生まれた」との誤解を避けることだった。手法は違うが、目的は一緒であることを明らかにしなければならない。このためネットワークの代表者選考が最大の問題となった。転勤族の新聞記者がなるわけにはいかない。「一派に偏している」と誤解されては仕事にも差し支える。
 かと言って、「流焼失家屋被災者の会」の堀一也さんや、島原グランドホテルの金崎福男社長では「のぼせもんがまた舞い上がっちょる」と相手にされない可能性がある。労組委員長の松下さんや社会党の松本さんでは、“色つき”と思われてしまう。
 代表者は公平、中立な人がふさわしい。
 何人もの名が浮かんでは消え、堂々めぐりの議論が何度も続いた。打診しても断られることもあった。すっかり議論が煮詰まってしまったある夜、堀さんが言った。
「女性だっていいんじゃないか。宮崎和子さんはどうだろう」

 それまでまったく候補に上らなかった人の名だった。
 和子さんは、『まぼろしの邪馬台国』を著した島原市出身の作家、故宮崎康平さんの奥さん。視力を失って島原鉄道の重役を退いた後、康平さんは和子さんの肩に手を乗せて、邪馬台国ゆかりの九州各地を歩いた。
 和子さんが読み上げる古事記から、耳だけが頼りの康平さんは、「日(ひ)が太陽だなんてとんでもない、干潟の干(ひ)だ」と考え、独自の解釈「白い杖の視点」で邪馬台国を有明海沿岸地域だと主張した。この本はベストセラーとなり、現在まで連なる邪馬台国ブームを全国に巻き起こした。1967年、康平さんと和子さんは2人揃って第1回「吉川英治文化賞」を受賞している。
 和子さんが島原新聞紙上に随時連載しているコラムの視点は厳しい。島原の「御意見番」といった趣だ。市の選挙管理委員でもあり、政治色もない。
 ぼくは93年6月、「私家版『人草紙』」という西部本社の記事で和子さんの生き方を4回連載したことがあった。「謎のボランティア騒動」で、西表島での表面的な一部報道を止めてくれた宮崎春而さんの母でもあり、お嫁さんの千絵さんには「サンパン」で食事の世話になっていた。孫の海峰くんと香蓮ちゃんは遊び友達。ぼくは家族付き合いをさせてもらっていた。堀さんの意見に、ぼくはすぐ賛同した。
 しかし、和子さんがすんなりネットワークの代表者を引き受けるとは思っていなかった。何しろさっぱりした粋な女性なのである。「弱いものが群れたがる」市民運動は大嫌い。堀さんたちの座り込みも、「見苦しい」と厳しく評していた。
 しかし、「一方的な行政批判をするつもりはない。さまざまな人が意見を持ち寄る場にしたい」というぼくらの要請に、和子さんは「数名の世話人が出れば、その代表になるのは構わない」との条件付きで、OKしてくれた。

 和子さんのほか、世話人を引き受けたのは、水無川流域の安中地区町内会連合会の村越安男会長と、市仏教会会長の菊池文喬住職。
 村越さんは細身だが、日本武道専門学校を卒業した剣道7段の猛者で、銀行の支店長を40代で辞めて島原市に移り住み、まもなく30年になる。「俺はよそものだから」と言いながら、冷静に被災者間の溝を埋めようと努力を重ねており、行政にとってはもっとも大切な被災者との窓口だった。そして、堀さんら直接被災者のよき理解者でもあった。
 酒は飲まないのに、美しいボトルを集めるのが趣味で、中身はぼくがよくいただいた。さり気なくブランドものの指輪をはめるおしゃれなおじいさんである。
 菊池住職は、特別立法を求めた500万人署名のうち、100万人近くを全国の仏教団体から集めた実績がある。現在でも「生き残りの会」の副会長だったが、「会が現実的に方向転換したのはしかたないとしても、このままでは署名していただいた全国の方々に申し訳ない」という気持ちも持っていた。行政や「生き残りの会」との無用な軋轢を避けるには最高の人材だった。

 宮崎和子、村越安男、菊池文喬の3人を世話人とすることで、市民団体「復興ネットワーク」は94年12月15日、やっと発足した。
 メンバーは上木場の鐘ヶ江秋和さんらの被災者や、蓑田さんやぼくらマスコミ関係者、災害対策に関心のある一般市民など約30人。年末までに創刊号を出すことにして、編集会議を何度も開いた。「島原ボランティア協議会」の旭芳郎事務局長と、宮崎春而さんが2人で経営している広告代理店「メディア長崎」の事務所が、当座の活動拠点になった。
 個人への中傷などをのぞき、基本的に投稿はすべて受け入れる。事情がある場合は匿名でも可。A4判で10ページ前後の小冊子にし、発行部数は2000部。印刷費用は約30人の会員で割り勘にし、足りない分はカンパを集める。組織立った配布ではなく個人の手渡しを基本にする――というのが編集方針。
 いつのまにか、ぼくは「編集長」の肩書を与えられていた。
 午後8時過ぎから集まって、原稿をワープロで打って切り貼りする手作業が、日付が変わるころまで続いた。ぼくら若手記者は20代だが、中心人物の3人やグランドホテルの金崎さんは40代。目をしばたかせながら細かい作業に励んでいた。素人ミニコミだったが、宮崎春而さんが「メディア長崎」のマッキントッシュで見出しやロゴを作成したので、予想以上の出来栄えになっていった。

 ある日、ぼくは市役所に吉岡庭二郎市長を訪ねた。「復興ネットワーク」の発刊を祝うあいさつ文を、創刊号に寄せてもらうためだった。これはぼくが提案したプラン。編集会議で「行政のお墨付きをもらわなくても」という反論も出たが、このままではネットワークの活動が誤解を受ける可能性がまだあった。率直に言えば、吉岡市長の名前を借りたかっただけだ。
 吉岡市長は行政畑出身だが、人の気持ちはわかる誠実な人であり、ぼくには説得する自信があった。
 ほぼできあがった創刊号のコピーを渡して、「スペースを空けてお待ちしています」とお願いした。行政と対立する立場の堀さんや金崎さんらの名前を見て、吉岡さんは少し戸惑った表情だったが、苦笑いしながら「さっき、この件で安中地区の村越会長も来られてね。ネットワークができて世話人に引っ張り出されたのでよろしく、と話していったんですよ」と承諾してくれた。さっそく、世話人人事が功を奏したわけだ。
 和子さんの巻頭言「今こそ情報交換を心と心をつなぐネットワークづくり」と、吉岡市長の「発刊によせて」で1面を作り、創刊号がやっとできあがった。

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 このほかの内容はこんなものだ。

(1)「ロングインタビュー 前市長鐘ヶ江管一さんに聞く」
 災対法の問題点を、当時の行政責任者から述べてもらう。随時掲載する。

(2)「日弁連の意見書やさしい解説」
 災害対策の法欠陥を政府に進言した意見書を、かみくだいて説明する。これはぼくが書いた。

(3)「一度ならずも二度三度 七転八倒九死に一生」
 金崎さんの連載体験記。なぜグランドホテルがこんな惨状に陥ってしまったのかを知らせ、もう一度“法災”の意味を考え直すのが狙いだった。

(4)「コラム ロシアンルーレット」
 普賢岳災害を取材した記者が、外部から被災地を見たエッセイ。原稿のラストで、次回の執筆者を突然指名する趣向。

(5)「町づくり考」
 
活気ある商店街を目指して活動している森岳まちづくりの会の連載。被災者だけでなく、ネットワークの広がりを持ったフォーラムにするために盛り込んだ。

(6)「普賢日誌」
 
災害対策や復興をめぐる動きを日にち順に並べた。

 年の暮れも押し詰まった12月30日、3人の世話人ができあがった創刊号の見本を持って、島原記者クラブで「復興ネットワーク」の発足について記者会見した。柴田支局長は「創刊の記事は自分で書けよ」とぼくに言った。

 長崎県島原市と深江町の住民有志が1月中旬、情報誌「復興ネットワーク」を発刊する。雲仙・普賢岳災害に苦しむ被災者の実態、街の実情などを投稿してもらう。復興をめぐり住民の間に意見対立もあるだけに「お互いを思いやる気持ちを作りたい」と、融和を図る狙いを込めている。
 
…(略)…
 宮崎さんは「みんな自分のことで精いっぱいで、コミュニケーションが不足している。立場を超えて語り合う場にしたい」と言う。
(1995年1月1日、毎日新聞)

 一方、長崎市の福崎博孝弁護士も「日弁連の意見書を出しっ放しにしないで、さらに発展させよう」と、長崎県弁護士会に「災害対策法システム研究会」という1つの部会を設けた。
 メンバーは弁護士と大学教授、マスコミ関係者が中心だ。長崎市で毎月1回会合を開いて、テーマごとにリポート、災害対策の法的な問題点を洗い出していく。1年後には、研究成果を1冊の論文集にまとめる計画だった。弁護士や学識経験者の専門知識と、記者が取材した現地の実情をミックスして、お互いにサポートし合うのが狙いだ。「復興ネットワーク」の蓑田さんに続いて、今回もぼくは熱心な福崎さんに引き込まれた格好だった。福崎さんは報道関係者をうまく勧誘した。
 「研究会では、記者も知らない事実が出てくるはず。オフレコにという条件がなければ、報道しても構わない。ただし参加するだけではなく、研究発表も頼むよ」
 最初の集まりは94年11月末。代表に県弁護士会の塩飽志郎会長を選び、議論すべきテーマを次のようにリストアップした。

(1)現行施策の検討と評価
(2)義援金の配分などに関するシステムの検討
(3)警戒区域設定に伴う損失補償
(4)警戒区域を設定するシステムの再検討
(5)経済的支援策
(6)公租公課の減免策
(7)集団移転などの復興事業に関する現行法
(8)日弁連が求めた災害対策基金創設の法的・財政的問題点
(9)地震保険

 参加したのは、長崎大学の宮入興一教授(行政学)と高橋和雄教授(土木工学)、福崎さんら弁護士、長崎新聞の蓑田剛治、テレビ長崎の槌田禎子、西日本新聞の佐藤晃島原支局長、NHK長崎放送局の岡克則ら各記者、それに県や市の職員有志で約20人。わざわざ福岡県から駆けつける弁護士もいた。
 共同通信の所沢新一郎記者は94年春に北海道・函館支局に転勤していたにもかかわらず、はるばる長崎まで駆けつけて参加したこともある。函館支局は奥尻島を管内に持つ。所沢さんはこのとき、義援金分配に関する島原と奥尻の比較研究を発表した。
 この研究会は1回に2時間程度のささやかなものだが、内容は相当に専門的で、マスコミ陣には理解できない法理論が出ることもあったが、刺激を受けることが多かった。それは弁護土も同じだったようで、ある人は「弁護士というのは、すでにある法を解釈していくもの。自分たちで『どういう法律がもっともいいのか』と議論するなんて初めてのことで、興奮しますね」と話していた。

 12月23日の第1回報告は、ぼくが受け持った。
 テーマは(6)の「公租公課の減免策」。税金や社会保険料などの経済的分野は、まったくの門外漢。本来の取材の合間に、税務署や社会保険事務所、県、税理士などに話を聞いた。「復興ネットワーク」創刊も年末に控え、目の回るような忙しさになったが、火山活動が極めて静穏になっていたため、ぼくは仕事以外の2つの活動に打ち込んでいた。

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西川清人さんが撮ってくれたポートレート

(第10章 了)

雲仙記者青春記 第11章「阪神大震災が起きた」に続く




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