マガジンのカバー画像

『雲仙記者青春記』 新米記者が遭遇した、災害報道の現場

16
記者になったばかりの新米が、突然の大災害に遭遇。1万人を超える避難住民が出ているのに、経験はゼロ。右往左往しながら地元に住み込み、5年後に災害が終わるまで見届けた記録が、『雲仙記… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

『雲仙記者青春記』 2020年11月17日から公開を開始します。

記者になったばかりの新米が、突然の大災害に遭遇。1万人を超える避難住民が出ているのに、経験はゼロ。 新人記者が地元に住み込み、右往左往しながら、4年後に災害が終わるまで見届けた記録が、『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(ジャストシステム95年刊、絶版)だ。 1990年11月17日に噴火した長崎県雲仙・普賢岳は、翌年6月3日に大火砕流を起こし、43人が死亡した。このうち、報道関係者は20人に及ぶ。24歳だった筆者(私)は、交代していて、たまたま難を免れ

『雲仙記者青春記』第1章 1991年6月3日午後4時、火砕流が43人を襲った

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2020年11月17日第1章公開) 198年ぶりに目覚めた火山 梅雨入り近しと思わせる、曇り空の午後だった。  ぼくは弓道愛好家の元気なお年寄りの記事を書こうと、毎日新聞長崎支局の2階でワープロに向かっていた。  人のよさそうな顔を縁取る白いあごひげや、弓をきりりと引く袴姿を思い返しては、「どう書いたらあのおじいさんを見たまま正しく表現できるか」と、うなっていた。  新聞記

『雲仙記者青春記』第2章 新人記者が出合った雲仙・普賢岳

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2020年12月3日第2章公開) 記者を目指すきっかけ 新聞記者には小学生のころから憧れていた。  わが家は古くから毎日新聞の読者で、売り物の記事「記者の目」を見るのが好きだった。記事の意味はわからなくても、執筆した記者の署名と顔写真が載っているからだ。どんな人が記者をしているのかに興味があった。  高校では生徒会長、大学では生協の学生委員長をした。特定のイデオロギーは持って

『雲仙記者青春記』第3章 警戒区域が設定され、1万人の被災者の長い生活が始まっていった

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2020年12月17日第3章公開) 自然災害 と ”法律災害”  「6・3大火砕流」から3日後。島原市の鐘ヶ江管一(かねがえ・かんいち)市長は、市内のホテルの一室で、高田勇長崎県知事の必死の説得を受けていた。「普賢岳が沈静化するまでヒゲはそらない」と公言し、普賢岳災害を象徴する存在となったヒゲ市長である。  「なんとしても警戒区域を設定してくれ。これ以上犠牲者は出せない」との知

『雲仙記者青春記』第4章 1992年4月1日、島原前線本部がぼくの仕事場兼住居になった

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年1月3日第4章公開) 職住一致の前線本部  1992年4月1日、島原市役所のすぐ近くの毎日新聞島原前線本部が、ぼくの新しい仕事場兼住居になった。  支局やその出先である通信部は社内機構の1つだが、前線本部は事件・事故が発生した現場近くに置かれる臨時の取材拠点である。通常はせいぜい1週間程度で撤収される。  しかし、普賢岳は「異例の長期災害」という枕言葉がかぶせられる

『雲仙記者青春記』第5章 太田先生の「終息発言」と、火山学者たち

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年1月17日第5章公開) 普賢岳のホームドクター  普賢岳は、世界でも極めて珍しい「非爆発的な噴火様式」の火山だ。噴石で被害が出たのは、たった一度。火砕流は溶岩ドームからの部分的な崩壊でしか発生せず、フィリピンのピナツボ火山のように、噴き上げた高温の火山性噴出物が降下してくるケースはなかった。  だからこそ、火口からわずか7kmの島原市街地が生き延びることができた。普賢

『雲仙記者青春記』第6章 1993年4月28日、立ち直りつつある島原を土石流が叩きのめした

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年2月3日第6章公開) けた違いの大土石流 「俺はどうあがいても『雲仙記者』にはなれない。『6・3』の修羅場も知らないしな」  あるとき、ぼくと同じころに島原に赴任した他社の記者が、残念そうに言った。  「雲仙記者」。彼の言い方には、ある種の敬意がにじんでいた。  毎日新聞なら浜野さんだ。彼なしに毎日新聞の普賢岳報道は語れない。社内では「普賢岳のことなら、浜ちゃんに聞

『雲仙記者青春記』第7章 謎のボランティア騒動

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年2月17日第7章公開) 彼らは、一体何者なのか  話は1年ほど遡る。  前線本部に着任して間もない1992年6月末。あるレストランで、ぼくは近くの席の会話に聞き耳を立てていた。その席にいる人たちに気付かれないよう、背を向けて。  「こんないい話はない。被災者は喜びますよ」  斜め後ろのボックス席には、3人の男性と若い女性が1人。  身を乗り出してしゃべり続けている

『雲仙記者青春記』第8章 島原で出会ったジャーナリストたち

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年3月3日第8章公開) 報道人にとっての島原 毎年6月初め、多くの報道関係者が島原市に集まる。「6・3」取材のためだけではない。毎日新聞労働組合が中心になって開く「マスコミ雲仙集会」があるからだ。  約300人の報道関係者が参加する集会は「島原の声を全国に」をテーマに、これまで毎年欠かさず開かれてきた。  日々のニュースに追われる記者は長いスケールの報道が苦手なだけに

『雲仙記者青春記』第9章 1994年4月、牟田隊長事件

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年3月17日第9章公開) 警察の災害警備隊 長崎県警島原署の災害警備隊は、隊長の牟田好男警視ら16人の体制だった。このほか、24時間交代で派遣されている約40人の機動隊員が、警備隊の指揮下に入っていた。  牟田隊長は、同期拝命の警官の中でもっとも早く警部に昇進。また、一緒に警部になった中でも最初に警視になり、長崎県警の出世街道のトップを走るエリートだった。  しかし、出

『雲仙記者青春記』第10章 被災地に生きる

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月3日第10章公開) リレー「記者の目」  牟田さんの件が一区切りすると、すぐに1994年の「6・3」連載企画の打ち合わせが始まった。  戸澤正志、加藤信夫の両デスクも例年通り参加した。議論の末、今年は雲仙取材に関わった5人の記者がそれぞれテーマを分担して、署名記事形式で連載する「普賢岳『記者の目』」という企画に決まった。  常駐したばかりで力がなかった入社2年目、

『雲仙記者青春記』第11章 1995年1月17日、阪神大震災が起きた

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月21日第11章公開) 大地動乱の時代  高度を下げていく飛行機の窓から、民家の屋根を覆うたくさんの青いビニールシートが目に入ってきた。  大阪・伊丹空港はもう近い。1995年1月29日午後。ぼくは西部本社から派遺された阪神大震災の第2次応援部隊の一員として、毎日新聞大阪本社へと向かっていた。  小さな火砕流が時折あるだけの静かな島原の正月は、17日午前5時46

『雲仙記者青春記』第12章 1995年4月30日、故郷

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年5月3日第12章公開) あるべき災害対策とは 阪神大震災の発生は、災害対策のあり方を洗い直そうとしていた「復興ネットワーク」と、福崎博孝弁護士を中心とした「災害対策法システム研究会」や九州弁護士会連合会(九弁連)の活動にも、大きな影響を与えることになった。  大震災から約1カ月後の2月20日、九弁連は「阪神・淡路大震災についての緊急基本提言」を発表した。日本弁護士連

『雲仙記者青春記』単行本あとがき 1995年6月3日から

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年5月17日あとがき公開) 5回目の「マスコミ雲仙集会」  43人の犠牲者を出した大火砕流から5回目の「6・3」がやってきた。1995年6月3日、ぼくは転勤後初めて、長崎県島原市に向かった。  阪神大震災で被災した神戸市の新聞や民放の記者、テレビ長崎の槌田禎子記者らと並び、「マスコミ雲仙集会」のパネリストとして島原文化会館大ホールのステージに座ると、1カ月前まで慣れ親