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『雲仙記者青春記』単行本あとがき 1995年6月3日から

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』
(1995年11月ジャストシステム刊、2021年5月17日あとがき公開)

5回目の「マスコミ雲仙集会」


 43人の犠牲者を出した大火砕流から5回目の「6・3」がやってきた。1995年6月3日、ぼくは転勤後初めて、長崎県島原市に向かった。
 阪神大震災で被災した神戸市の新聞や民放の記者、テレビ長崎の槌田禎子記者らと並び、「マスコミ雲仙集会」のパネリストとして島原文化会館大ホールのステージに座ると、1カ月前まで慣れ親しんでいたあの島原に自分がいるようには思えなかった。
 何しろ、雲仙担当デスクだった戸澤正志現長崎支局長や、志半ばに倒れた出版社経営の友人の遺志を継いだ三原浩良葦書房社長(元西部本社報道部長)らが客席に座っているのである。

 阪神大震災の直後であり、今年のテーマは「普賢岳…そして阪神・淡路――災害と報道――」だった。
 第1部で、神戸市の民放や新聞社の記者が現地取材の実情を伝えた。
 2会場に分かれた第2部では、「普賢岳災害と大震災の相違点――法と救援体制の不備」と題して、九弁連・災対法検討委員会の藤井克己委員長が、改めて「相互扶助を国の理念とし、災害住宅共済を実現させよう」と訴えた。また、「復興ネットワーク」の中心人物である島原市職組前委員長の松下英爾さんと島原ボランティア協議会の旭芳郎さんも、島原での経験を語った。
 ぼくが出席したのは、もう1つの分科会で、テーマは「被災者とともに生きる報道とは」。ぼくは自分の4年間を振り返り、警戒区域内の報道の問題や、阪神大震災で自分が見た仮設住宅の劣悪さ、「復興ネットワーク」の編集長になった経緯などを説明した。
 隣で、生々しい被災地の現実を報告する神戸市の2記者の発言を聞きながら、これからまだまだ長丁場になる震災報道に思いを馳せた。

 その夜、集会参加者の懇親会を抜け出し、「サンパン」で仲間たちと飲んだ。何も変わらないこの雰囲気。この打ち解け方。それは、現在勤務している福岡市でまだ得られないものだ。
 福岡の街はにぎやかだが、行き交う人になじみの顔はいない。毎日が夜回りの連続で、顔を合わせて心を開ける相手と出会う機会はほとんどない。
 島原の警察官とは、「普賢岳」という“共通の敵”がいたため、話もしやすかったが、多くの記者が特ダネを競っている福岡では警戒感が強く、まだ打ち解けられる警官は少ない。
 雑踏の中でそんなことをふと思うと、「前線本部の日々はかけがえのない時間だった」と改めて思うのだ。

 この『雲仙記者日記』には、思い込みが深すぎて記者の枠を踏み越えた記述がある。普賢岳災害に関連した、4年間の個人的体験でまとめたからである。とくに第7、第9章は毎日新聞記者としてではなく、あえて1人の島原市民として記した。こうした記述なしでは「ぼくの雲仙記者日記」にはならない、と思った。
 だから、すべての文責はぼく個人が負うつもりである。

お世話になった人たち

 しかし、ここに記した「1500日」が、毎日新聞元島原支局長の浜野真吾さんを初めとする各社取材陣の活躍と苦悩の日々でもあるのは言うまでもない。たまたま、ぼくが執筆する機会に恵まれただけのことだ。
 普賢岳取材に参加したすべての人たちが犠牲者に寄せる追悼の気持ちと、被災地復興への祈りを書きたい。そう思って、ワープロに向かった。
 日本の災害対策のあり方にまで踏み込めたのは、前例のない長期災害に耐え続けた被災者と、研究を重ねてきた弁護士と研究者、ともに災害下で報道に携わってきた現地記者のみなさんのおかげである。

 島原に赴任した当時、三原さんの後任の報道部長だった片山健一さんから「将来の記録にするため、必ず日記をつけろ」と言われていたのだが、ぼくは1カ月で見事に挫折した。
 だが、記者にとって、スクラップは日々の「取材録」だった。また、4年間で書きためたメモ帳43冊、ノート53冊から当時の取材記録を拾い出す「索引」でもあった。
 入社研修で、岩見隆夫さんが「自分の記事をスクラップしろ」と勧めなければ、一連の記憶ははるか昔に消えていただろう。
 スクラップを引いて取材メモを探す作業は、振り返ることもなく過ぎた日々を自ら検証する作業だった。そこには、「新米記者のドタバタ」や「異常な日々に慣れてしまったゆえの怠慢」をあらわにしなければならない一抹の恥ずかしさが終始つきまとった。

 大学時代の友人であるジャストシステム出版編集部の深澤眞紀さんから、「体験を本にしてみないか」と誘いがあったのは1995年2月末、阪神大震災の取材から戻った後のことだった。途中、右手をけがをして執筆を中断するなどのトラブルもあり、たいへんな迷惑をかけたが、深澤さんの的確な指摘を得て記録を残すことができた。

 島原市記者クラブの大槻純子さんには、ぼくのスクラップにない資料を何度となく探していただいた。
 原稿は記憶に頼る部分が多かったので、正確を期すため多くのみなさんにゲラのチェックをお願いした。
 法律面や災害対策は福崎博孝弁護士とテレビ長崎の槌田禎子記者、地元の事情や言葉遣いについて島原新聞の清水真守記者、科学面では九大島原地震火山観測所の清水洋・助教授と馬越孝道助手。
 これらの方々から「よくここまで書いた」とお褒めの言葉をいただけたのは、何よりうれしいことだった。
 主要な人物として登場していただいた江川紹子さんと牟田好男警視、カバーと口絵に写真を使わせていただいた西川清人さんにも見ていただいた。
 そして、ぼくに記者になるよう勧めた白岩妙子さん。彼女の存在がなければ、ぼくが島原で生きた「1500日」はなかった。本当にありがとう。

島原を離れて以後

 毎日新聞は、太田先生の「停止発言」をうまく報道するタイミングをつかみ損なった分、火山噴火予知連絡会が1995年5月25日に「噴火活動は停止状態」とコメントし、太田発言を追認したことを1面で大きく取り扱った。
 ぼくがパネリストとしてマスコミ集会に出席していた6月2日、島原市は被災者が集団移転する仁田団地の一角に「慰霊碑」を建立した。
 深江町も9月15日、4年前のこの日に火砕流で炎上した大野木場小学校に多くの町民が集い、「災害復興祈念式」を開いて故郷再建を誓い合った。校旗がポールに高く掲げられ、青空に大きくはためいたという。

 加藤信夫デスクは5年目の「6・3」後、紙面にこう記した。

 当初は、山の状況を、いかに正確に分かりやすく伝えるか、に腐心しました。再び犠牲者を出さないためには不可欠、と判断したからです。
 第2段階では、住民の困っている点や不満、要求に注目しました。食料、住宅、健康、職業、児童・生徒の転校……、スクラップをめくると、さまざまな特集記事が飛び込んできます。
 次の段階は、行政と政治家が住民の声にどう応えているのかのチェックです。避難所で住民に「個人補償を盛り込んだ新規立法が必要です」と語った政治家が何人もいました。が、東京に帰った途端、全員が「現在の法律の運用で対処できる」に変わりました。東京と地方の距離を痛感、住民ともども「この災害が東京で起こっていたら対応が違っていたのではないか」と歯ぎしりしたものです。

 そして今、考えることが2つあります。

 1つ目は「かつて例のない長期災害」の島原を教訓にしてほしいということです。日本弁護士連合会が昨年2月に提案した国の災害対策基金や、住宅保有者の強制加入を前提とした住宅共済制度の創設などは、実現していれば、阪神大震災でも力を発揮したはずです。

 2つ目は、記者にとっても例のないことですから、とにかく島原と隣接する深江町が完全に復興するまで、とことん付き合うということです。島原が忘れられないようにメッセージを送り続けるつもりです。

(1995年6月10日、毎日新聞)

 大震災後も、地の底では不気味な鳴動が続いている。
 伊東沖の群発地震に続き、10月12日、九州中央部にある九重連山・硫黄山(標高1550m)が257年ぶりに噴火した。翌日、ぼくは前線本部が置かれた現地に向かったが、マグマの動きが感知されず、水蒸気爆発と見なされたため、前線本部は6日間で撤収した。
 10月18、19日には奄美大島近海で震度5の地震が連発。津波が各地に届いたが、幸い被害は出なかった。今度は地震学者の電話取材にかり出された。
 日本の地下で、ゆっくりと大きな変動が進んでいるのは間違いない。これからも、ぼくは災害のたびに取材陣に加わることになるのだろう。

長崎県警災害警備隊が撮影した
溶岩ドーム付近
(撮影時期未詳、93年ごろか)

4年の「前線本部」にピリオド

 災害対策のあり方をめぐる議論も広がってきた。
 10月中旬、「災害対策法システム研究会」から届いた資料の中に、兵庫県の和久克明企画部長が書いたレジュメが入っていた。「地震保険は役割を十分に果たしておらず、全国民皆保険型の災害共済を設立すべきだ」という主張を見て、ぼくは驚いた。阪神大震災の被災地が、普賢岳災害と同じ結論を出したのだ。
 電話で問い合わせると、和久部長は「兵庫県としての意見と受け取ってもらってかまわない。同じ苦しみを味わう人たちが出る前に、議論を起こしたい」と言う。
 「自立復興」が原則の現行の災害対策に行政が反論し、「相互扶助」を求めたのは初めてだ。少しずつだが、確かに流れは変わってきている。

 10月1日、浜野真吾さんに続く2代目島原支局長の柴田種明さんは宮崎支局デスクに転出した。後任はなかった。
 読売新聞より1年半、朝日新聞より半年長かったが、毎日新聞島原前線本部もこの日、4年半前と同じ通常の1人態勢に戻った。
 ぼくの後任の中尾祐児記者は前線本部の建物に住み込み、災害直後に連日掲載された「避難 今1万人が」の心を受け継いだ、月1回の連載「生きる」を今も続けている。

1995年10月26日
福岡総局にて 神戸金史


雲仙記者青春記
 「番外編 西川清人さんの普賢岳」に続く

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