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『雲仙記者青春記』第11章 1995年1月17日、阪神大震災が起きた


『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』
(1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月21日第11章公開)

大地動乱の時代

 高度を下げていく飛行機の窓から、民家の屋根を覆うたくさんの青いビニールシートが目に入ってきた。
 大阪・伊丹空港はもう近い。1995年1月29日午後。ぼくは西部本社から派遺された阪神大震災の第2次応援部隊の一員として、毎日新聞大阪本社へと向かっていた。

 小さな火砕流が時折あるだけの静かな島原の正月は、17日午前5時46分、阪神・淡路地域を襲った大震災でかき消された。
 早朝のニュース速報を偶然目にしてから、テレビに釘付けになった。神戸市は各地で火事が起き、無数の黒煙が立ち上っている。思いもよらなかった直下型の大地震である。ニュースは「警察署が倒壊している模様」「死者は50人確認」と報じていた。
 火山と地震は密接な関係がある。九大観測所の清水洋・助教授と馬越孝道助手は、ともに地震学の専門家で、基礎的な質問をしても誠実に答えてくれた。お陰で少しは基礎知識があったぼくは、映像を見て「犠牲者が1000人を超えるのは間違いない」と思った。

 この日はたまたま、北海道から奥尻島の住民が視察に島原市を訪れていた。
 奥尻町内会連合会長の大谷政之さんは少しこわばった表情で、「燃え上がる神戸の映像を見て、当時を生々しく思い出してしまった」と話し出した。

 「93年は1月に北海道東方沖地震があり、7月には私たちがやられた北海道南西沖地震。去年は三陸はるか沖地震があった。列島の端から地震が始まって、今度は真ん中の神戸ですよ。どこか日本はおかしい」

 まったく指摘の通りだった。建設省建築研究所の石橋克彦応用地震学室長は、著書『大地動乱の時代』(岩波新書)で、日本は現在、大規模な地殻変動の時期に突入していると主張している。
 清水助教授から「なかなか大胆ですよ。地震が少なかった時代は終わり、これから大地震が各地で起こり出す、と主張してるんです。学問的にもしっかりしているけど、素人にもわかりやすいように書いてあります」と、一読を薦められていた。

 石橋氏はこの著書で、江戸時代末期からどんな地震がどこで起き、1923年の関東大震災というカタストロフィーを迎えたのかを詳細に分析している。そして現在、再び「大地動乱」の時代がめぐってきたものと著者は捉える。
 大規模な地震が今後も続き、最終的に首都圏大震災を迎えるのは不可避。「経済の論理が最優先された危険な大規模開発が恐ろしい勢いで進行している。こんな現状は、一つには、一般の方看が頭では地震の可能性を知っていても、首都圏が地球上でいちばん危険な地震の巣の真上にあることを身に泌みてわかっていないためかもしれない」と警告し、ハイテク社会が初めて直面する震災にどう対応すべきか、真剣に考えるよう求めている。
 この本は首都圏を襲う震災に焦点を当てているが、日本全体が世界でもっとも危険な土地であることは、地震を知る人の間では常識だ。活断層は国土をくまなく走り、列島は四六時中かすかにきしんでいる。
 地質構造上、日本に安全な場所はない、と考えたほうが正しい。

 突然の大震災に、島原、深江の住民は「他人事とは思えない」と強い衝撃を受けた。そして、被災者は「これでもう島原は忘れ去られる」と落ち込んだ。
 しかし、実際は逆だった。
 前線本部には大阪本社社会部などから「今後想定される問題を挙げてほしい」「長期の避難をどう工夫して過ごしたか、被災者に聞き取りを」などの間い合わせや取材依頼が相次いだ。
 島原市役所へも被災した自治体から「災害後の具体的な復興対策を教えてほしい」との問い合わせが、1カ月足らずのうちに約800件も寄せられた。
 各紙の社説や論評でも「生かされなかった被災地の教訓」「災害列島の備えはこれでいいのか」「鐘ヶ江前島原市長に聞く」などの記事が載り始めた。影を薄めていた被災地島原、深江が、期せずして再びクローズアップされる格好になった。

11_!9940707星空と赤いドーム

阪神大震災の半年前
星空の七夕

被災地・阪神へ

 すぐにも阪神への応援取材を命じられるかと思ったが、まずは現地の土地勘を持つ記者が動員された。ぼくは震災発生後12日目の1月29日から取材陣に加わった。
 すでに、震災の死者は5000人に達しようとしていた。水も寝る場所もない状況で奮闘した第1陣と交代で、応援期間は1週間の予定だった。
 梅田駅近くの大阪本社社会部で、仕事の簡単な説明を受けた。普賢岳での「避難 今1万人が」と同じように、震災紙面でも「午前5時46分の証言」という小連載が始まっていた。恐怖の瞬間と今の生活を、被災者の話し言葉で記事にしたものだ。
 この「証言」の積極的な出稿と、家族を失った1人1人から犠牲者の名前や直後の様子を聞き取り、資料化する作業を命ぜられ、記者は神戸市中心部にある神戸支局と、兵庫県尼崎市の阪神支局へ散った。

 ぼくが配置されたのは阪神支局。ところが、向かう途中の阪神電車内では、食料や水を入れた大きな荷物を抱えて被災地を目指す人はほとんど見られなかった。正直言えば、「震災後12日も経てばこんなものか。できるなら地震直後に来たかった」と残念だった。
 何より驚いたのは、尼崎市中心部にある風俗営業店が営業を再開して呼び込みしていた風景。やはり神戸支局のほうがよかったのでは、と少々拍子抜けした。
 阪神支局では、普賢岳の前線本部と同じように、本社から応援デスクが入って指揮していた。阪神支局の管内は、兵庫県東部の「阪神間」と呼ばれる住宅地だ。壁に張り出された記者配置図には、芦屋市と西宮市に各4人、宝塚市2人、尼崎市2人の名前が書き込まれていた。
 これとは別に、機動班、生活班、遺児・教育班などテーマごとのグループに分けられた記者がおり、総勢は30人に達していた。神戸支局には50人程度いるという話だった。
 応援デスクは「1週間は短い。社会面に記事を最低1本出せるようがんばってほしい」とあいさつした。
 ぼくは7人いる機動班の一員に配属されていた。機動班は、自分で取材テーマを決めて独自に行動する遊軍的な部署である。

 「神戸くんは、島原での経験を生かした避難所のルポを書いてくれ。ほかのことはしなくていいから」

 デスクの言葉に、「6・3」の夜の島原が頭に浮かんだ。けが人の中から3人の同僚を探すようぼくに命じた堀記者も「ほかのことはしなくていいから」と言ったことを思い出したのだ。

 最初の2日間は、西宮市や尼崎市の避難所をめぐって、雑魚寝する被災者の話を聞くことにあてた。
 街の様相は、尼崎市から西に進むと一変した。阪神電車に乗って甲子園駅を過ぎたあたりから、倒壊した家屋が増えた。後で歩いてみて、尼崎市の郊外にも倒壊家屋は点々とあり、最初の印象が間違っていたことを知らされることになる。
 まず、西宮市民体育館へ向かった。広い館内に1000人以上の被災者が雑魚寝しているため、よく報道で登場する避難所だ。何十人ものボランティアが駆け回っていた。
 所狭しと床に広がり、布団にくるまる被災者たち。厳寒の1月末、だだっ広い体育館の冷え込みは厳しい。かき分けるように中に進みながら、話を聞いた。
 
 最初に話し込んだ女性から、「あなたは長崎の出身?」と聞かれた。偶然にも島原半島の出身だった。「ところですね、なるほどですね、それでですよ、って言うもんだから。長崎の人は何でも“ですよ”を付けるからね」と笑った。
 いつの間にか、ぼくの言葉は島原に染まっていたのだ、と苦笑した。そして、島原で災害取材を3年続けてきたことを伝えた。「へえー」と女性。そのうえぼくの名前が「神戸」だと知ると、女性は「何か不思議なもんだねえ」と笑った。
 大震災の取材では、島原から来たというだけで被災者と打ち解けられることが多かった。誰もが「大火砕流のころ、島原の人はどんなに大変だったろうね」と同情してくれた。自分がどれだけ今苦しいかを忘れ、逆に慰労するのだ。本当に苦しいとき、人は優しくなるのだなと思った。
 女性は50年前の原爆投下の翌日、親戚を心配して長崎市に入ったという。直接閃光にやられたのでなく、爆発後長く現地に残る放射能を体に浴びたのだ。いわゆる「入市被曝」である。そして今回の震災。「なんで二度も死ぬような目に遭うんかね」と彼女はぼやいた。
 「テレビで故郷の災害を見ていたが、まさか自分も同じように避難するとは。同じ立場になって、初めて気持ちがわかるようになった」とため息をついたこの女性の話が、ぼくが書いた最初の「証言」になった。

 西宮市で道に迷って歩いていると、茶色のタイル張りのビルが目に入った。阪神に来たのは初めてだったが、「前に見たことがあるような」と思った。それは錯覚ではなかった。
 朝日新聞阪神支局
 記者を目指すきっかけの1つになった、あの銃撃事件の舞台だった。ビルを見上げ、しばらく感慨にふけってしまった。

つまみはキャベツ

 与えられたテーマは島原との比較ルポだから、取材対象を阪神支局管内に限る必要はまったくなかった。とりあえず行ける場所まで行こうと思った。
 阪神電車の当時の終着駅は、神戸市東灘区の青木(おおぎ)駅。駅前の細い道は、神戸市中心部の三宮を目指す人であふれていた。
 数百mもの行列の先に阪神電車の代替バス乗り場があり、無数のバスが順番にピストン輸送していた。
 しかし、通常なら20分足らずの距離が、乗降に費やす時間、高速道路の倒壊による国道車線の通行制限などで、乗車するまでに1時間以上、さらに移動に1時間半もかかっていた。通勤時間帯になると3~4時間は覚悟しないといけないらしい。
 大きな荷物を持って延々と並ぶ人の姿は、電車という大量交通機関が切断されることの意味を如実に物語っていた。ぼくは、とりあえずこの青木駅周辺から取材を進めることにした。

 駅周辺には焼け跡が広がっている。小さな商店街は軒並みかしぐか、潰れるかしている。歩道に大きく迫り出した家を、みなこわごわとよけて歩く。傾きがはっきりわかる高層マンションがある。
 駅から北に約10分歩くと、神戸市立福池小学校があった。当時は、約800人の被災者が身を寄せ、校庭のテントでお握りなどが配給されていた。まず遺族の聞き取り調査をしようと、配給を待つ被災者数人に話を聞いた。
 そのうちの1人が、カメラマンの市井敬喜さんだった。

 小柄で、温厚な顔が白髪混じりの不精ヒゲの下に隠れている。住んでいた文化住宅が倒壊し、1階にいた94歳の母親と兄夫婦の3人を失っていた。
 市井さんの話を調査用紙に書き込みながら、寒風の中で食事を受け取るため行列する人たちをながめた。
 「ここの誰もが、何かしらの悲劇を体験している」と想像したとき、5000人以上の犠牲者が出たことの大きさが、初めて言葉だけではなく実感を伴ってきた。この市井さんに、ぼくは阪神滞在中いろいろな手助けをしていただいた。

 この震災によって、1995年は「ボランティア元年」と言われた。「自分も何かをしたい」と、全国から無数のボランティアが阪神、淡路に駆けつけた。しかし、ボランティアの数は地域によってかなり偏りがあった。
 火災の惨状が何度も報道された神戸市長田区や、西宮市や芦屋市など阪神地区の駅や市役所周辺、特に1000人以上が1カ所に避難している体育館などには、かなり早くからボランティアが集まり、ぼくが着いた時点できれいに分業が進んでいた。マニュアル作りは、後から続々とやってくる人を活動にうまく組み込むための工夫である。
 ところが、そのうちにボランティア組織内で責任が生まれ、簡単に場所を移動できなくなる。だから、最初に電車が復旧した西宮市や芦屋市の駅周辺はボランティアの密度が高かった。
 ある避難所で「大変ですね。今何がお困りですか」と声をかけると、「何もかもボランティア任せだから、何も困ってないよ」と答えが返ってきた。もちろんボランティアへの感謝の意味もあったのだが、「それに頼って、ちっともみんな動かない。食事は配られるまでじっと待つ。手伝おうともしない。お茶がないぞーとボランティアを呼ぶ人もいるんですよ」という自嘲が主だった。
 町内会長はいち早くどこかへ避難して、姿が見えないという。肩透かしを食ったような感があった。しかし、こうした地域でも、駅から離れているため、その存在すら把握されていない少人数の避難所も少なくなかった。

 一方で、福池小がある東灘区や灘区などの神戸市東部地域では、圧倒的に人手が不足していた。
 ボランティアが大阪から来れば、手前に西宮や芦屋がある。まず、そこで引っかかる。さらに終着駅・青木で電車を降りて人波についていけば、数時間で神戸市中心部の三宮、さらに進めば地震後の火災で炎上した長田区。ボランティアだって「映像で見たあの惨状を一度はこの目で見たい」という意識があるから、神戸市東部は通りすぎてしまう。
 このため、福池小などでは、生きるために被災者が自分たちだけで食事の分配や衛生管理などをしなければならず、震災直後から避難所ごとに自治組織を作ることを迫られた。だから、ぼくは福池小に泊り込むことにした。被災者の自治活動を見たかったからだ。
 結果的に、この選択は当たっていた。周辺の避難所をいくつも見て回ったが、教員と被災者組織の責任分担などで、福池小は際立ってうまく苦難の日々を乗り越えていたからだ。

 午後7時、対策本部とされた福池小学校2階の教室で、被災者有志の会議が始まった。
 食事配給の担当をしていた会社員の佐野武くんが「今の人員では、朝の食事はとても配れない。階から1人ずつ当番を出してください。それから、トイレを洗う水は、自衛隊の給水車の水ではなく、プールの水で」と発言した。
 彼はまだ25歳。何事も率先して動く優秀な青年だったが、若さゆえの率直な言葉遣いや態度が、年長の被災者に抵抗感を抱かせることもあった。
 議論が続いた後、オブザーバーとして参加していた安本昂三校長が「ボランティアが少なく負担が大変ですが、私たち自身で生活を作っていきましょう」とまとめた。体育館責任者の市井さんは、教室の後ろの席に座って、議論に参加していた。

 会議の後で、「今晩、どこかにもぐり込んで泊まれる場所はないか」と探していると、市井さんが「私の所へ来ませんか」と誘ってくれた。
 ところが、体育館の6畳ほどのスペースには市井さん夫婦のほかに、年ごろの娘さん3人がいた。気が引けたが、約250人が雑魚寝する体育館は誰もそんなことを気にかける状況ではなく、お言葉に甘えさせていただいた。

 ラジオの音やかすかなイビキが、寒々と広い体育館の天井に響く。各世帯の境は、救援物資などの段ボールで区切られていた。これは島原と同じだ。
 「復興ネットワーク」世話人の村越安男さんは「低い垣根だけど、あれば少しは安心できるもんなんだよ」と話していた。自分たちの家を作ろうとする本能のようなものだろう。
 ペットの犬を放っておけず、隣に寝かせる人もいた。市井さんは、1日にヤカン3杯だけ配給されるお湯を使って、紙パックの焼酎を振る舞ってくれた。
 キャベツを出して、「これがツマミにいいんです。意外に甘味があって。地震があるまで知りませんでしたが」とヒソヒソ声で笑う。
 ぼくはなんとも言えず、ただ愛想笑いをしてキャベツをかじった。

福池小学校が体験した震災

 初めて福池小に行ったとき、自治組織の責任者は笹尾文之さんという五十年配の人だった。写真会社の部長さんで、10日以上も仕事を休んで奮闘していたが、「さすがにもう仕事に行かなければならない。今後が心配です」と漏らしていた。
 強力なリーダーが欠けた後は、どんな組織でも揺らぐ。それが出会ったばかりの人たちで、衣食住にからむ物事なのだから問題が起きやすい。そこで、まもなく数人の集団指導体制に移ったが、指揮が乱れた。一度ぎくしゃくした後で、市井さんが代表者に決まった。

 地震災害がその他の災害とまったく違うのは、被災地の真ん中に無数の避難所があることだ。
 火山の噴火、津波、大規模な土砂崩れ、水害。地震以外であれば、住民はとりあえず安全地帯に避難する。
 しかし、地震は水、電気、ガス、交通網などのライフラインを切断してしまう。余震に脅えながら焼け跡に住まざるを得ない被災者の姿は、ほかの災害被災者とはまったく違った。むしろ、50年前の空襲で焼き出された人たちに近いのではないかと感じた。
 午後11時過ぎ。体育館を抜け出して職員室に行くと、安藤祐吉、津田成俊さんら教員が当直にあたっていた。彼らから震災直後の福池小の様子を教えてもらった。

 初めの3日間は孤立状態だった。約30人の教員のうち、若い女性教師1人が圧死。自宅が全半壊したのは9人。生徒は3人、保護者1人が犠牲になったことがわかった。
 学校日誌によると、震災当日に出勤できたのは安本昂三校長以下8人にすぎなかった。安藤先生は、自宅周辺で埋まった人たちの救出にあたっていた。
 早朝からすでに学校には被災者が殺到していた。工作室のガラスは破られ、工具は持ち出されていた。遺体は学校に運び込まれた。ガレキの下から助け出された後に学校で死亡した犠牲者は19人。多数の負傷者が運び込まれた保健室は、「さながら野戦病院の様相」だったという。
 近くのスーパーにあったパンが差し入れられたが、2000人近い被災者にはとても渡らず、ナイフやノコギリで小さく切って配分した。
 電気も飲料水もガスもなかった。暖を取るため、倒壊した家の木材が校庭で燃やされた。
 被災者は茫然自失の状態で、校内の秩序は教員が支えるしかなかった。避難者の消息を尋ねて訪れる人が多く、教員は交代で当直にあたった。
 翌日朝には学校近くで火災が発生したが、プールに溜まっていた水を使って被災者が協力、なんとか消し止めることができた。夜、自衛隊の給水車が到着した。しかし、1トン車1台だけだったため、水が行き渡らず怒り出す被災者もいた。

 しかし、19日夜に電気がついたときから、校内の空気が変わったという。真っ暗な闇が去り、1人1人の顔が照らし出された。期せずして校舎の内外から歓声が上がったそうだ。「あの光が生きる勇気を湧き立たせた」と、教師たちは口を揃える。
 翌20日、排泄物が山盛りになっていた水洗トイレを、女性たちが自主的に片づけた。男性は校庭の一角を掘って仮設トイレを作った。上田美佐子教頭は「あのときのお母さんたちはえらかった。手袋を見つけて、手ですくったんです。ものすごい人間のふれあいがいっぱいあった」と振り返る。

 教室ごとに避難者の名簿作りが始まった。物資の配給は教室単位で行われ、いつのまにか教室棟のフロアや体育館に、市井さんのようなリーダーが生まれた。
 21日には初めてボランティアの炊き出しがあった。教員と被災者の有志が協力し、次第に食事や物資の配給、掃除の当番、夜警などの分担が進んだ。
 教員はバラバラになった児童の行方を確認するため、25日から家庭訪問を繰り返した。全児童の安否が確認できたのは28日。学校(避難所)の運営主体が被災者に移り、対策本部が職員室から独立したのは、ぼくが訪れる前日のことだった。

避難所暮らし

 翌朝午前7時。体の震えで目が覚めた。
 毛布を重ね、コートをかぶっていたが、下に引いた薄いマットレスを通して体育館の床に体温を奪われていた。
 2月1日、朝の冷え込みは厳しい。校庭ではもうたき火が始まっていた。この朝の食事は、埼玉県大宮市が大きなコンロとカマを持ち込み、スイトン3000食を作ってくれた。
 食事配給の責任者は、美容室が倒壊した生田益広さん。長い髪を後ろで結わえ、いかにも美容師さんといった出で立ちだが、服装は汚れ、以前の生活との落差を想像させた。
 それでも、生田さんは「温かくて、ホウレンソウなどの野菜もたっぷり。こんな豪華な食事は初めてですよ。でも毎日忙しくて、自宅の片付けもできないんです」とニコニコ。量もあり、内容も充実した食事の配給に飛び回っていた。
 スイトンには在庫のパンと、缶のお茶が付いた。「実はパンは7000個も残ってるんです。賞味期限もあるし、無理矢理付けないと減らないんです」と、佐野くんは小声でこぼした。冷え切った被災者の胃は、冷たいパンを受け付けられないのだ。これは贅沢ではない。お茶も冷え切っていた。
 食事の配給は、校庭のテントで行われる。受付窓口は2つあった。校内の避難者と、周辺地域の住民用だ。たとえ自宅が被災を免れても、水もガスもなく調理できないからだ。
 校外の住民は「食料は学校の被災者のためだけに届いているのではない」と思っている。窓口で汗を流す人をボランティアだと思い、「早く配ってくれ」などと、ときに横柄な口ぶりの人もいた。
 一方、校内で奮闘する被災者は「家が残っている人間は買い出しに行く余裕もあるだろうに、なぜ我々が校外の人の分まで世話しなければならないのか。スイトンのように、温かくておいしそうな食事はどこからか聞きつけてドッと来るんだ」といらだちを隠せずにいた。
 福池小は佐野くんや生田さんらが我慢してトラブルを避けていたが、校外への配分を一切拒否し、物々しい雰囲気になっている小学校も近くにあった。お互いの置かれた状況を理解し合うのは難しい。

 細い体の安本校長の目は落ちくぼみ、顔色もすぐれなかった。
 しかし、「無理に授業再開を急ぐことはないと思ってます。まず、校内にいる被災者の生活を安定させることが先。子供たちは今、物の大切さや自然の怖さ、壊れた家から自分を助け出してくれた家族との絆を、体で学んでいるんです。口はばったいですが、自分たちは今、まさに『開かれた学校』という言葉を実践しているんだ、と感じています」ときっぱり話した。
 非常時には、学校は地域の支えとなる。このことを安本校長は身をもって知ったという。「学校はどこも緊急時の避難所に指定されてますよね。それなのに、ここには毛布や水がなかった。本当に防災計画を立てるなら、具体的なものでなければ。名目だけの避難所なんて、なんの役にも立たないんです」と、語調を荒らげた。
 この話を聞いた大宮市の幹部は「現地でなければわからない実感だ。早速わが市でも検討します」と校長に頭を下げていた。

 スイトンを行列の全員に手渡すには、2時間以上かかった。
 自衛隊が炊き出しを開始したのは24日からで、当初食事は1日3食だったが、ぼくが行ったころには2回に減らしていた。配給にあまりの体力と時間を使うため、災対本部が校内の被災者からの聞き取り調査をしたところ、受け取る側もやはり行列に疲れていることがわかったからだ。
 配給が一段落すると、佐野くんと、市井さんの長女でピアニストの夕美さん、3女の万紀さんらが、余ったスイトンと、自衛隊のご飯で作った雑炊を軽トラックに積んで出かけた。今回の差し入れは温かくて量もたくさんあるので、近くのお年寄りばかりの小さな避難所をめぐろうというのだ。
 ずっと盛り付けや食事の受け付けで働き詰めなのに、この困難な状況でも他人を思いやる気持ちに、ぼくは率直に感動した。同行して、わずかな時間だが配分を手伝った。

 福池小の24時間を題材に島原と比較したルポは、社会面の予定を変更して2月7日付の「記者の目」欄に掲載された。
 ところが、柴田種明島原支局長に電話すると、「俺はあの原稿に不満だ」と言われてしまった。「島原での経験から、阪神では復興のために何をするべきかを提言できたはずだ」というのだ。そう言われて、ぼくも「せっかく『記者の目』を書くのなら、そうすれぱよかった」と思ったが、デスクから指示されていたのは避難所の比較ルポで、「記者の目」ではなかった。
 釈明したが、戸澤正志長崎支局長も「なんだ、この原稿は」と怒っていた。
 加藤信夫デスクに至っては、「西部本社だけこの『記者の目』を載せるのはやめ、神戸が帰ってきてから書き直させよう」と話していたらしいが、西部本社が「記者の目」を掲載する日に合わせて東京本社が出稿したことがわかり、紙面に載ってしまったらしい。後での評判は散々だった。
 とんでもない目にあったが、ぼくはこれで通算4回目の「記者の目」執筆となった。入社4年で4回も書いた記者は、まずいないだろう。島原に赴任したというだけで、ぼくはこうした機会を与えられたのだ。

弱者に厳しい災害

 「記者の目」を書き上げてからも、福池小学校に通う日々が続いた。知り合った人たちがどうなっているかが気になった。しかし、もう1つ実利的な目的もあった。自転車を貸してもらうのである。
 福池小には、避難所に分散した児童の安否を確認するため、教職員が使う自転車が約20台寄贈されていた。上田美佐子教頭の配慮で、空いている自転車が使え、取材の機動力は格段に増した。
 福池小を取材する前は、島原のような農村地区と違い、住民問の日ごろの付き合いがない都市では、災害が起きたら無秩序な状態に陥るのでは、と危倶していたが、それは杞憂だったことを教えられた。
 東灘区魚崎中町の男性は「いつもは付き合いもなかったワンルームマンションの若い住人が、壊れた家から9人を掘り出した。3人はだめだったけど、若い人の力がなければ、残りの人はとても助けられなかった。まったく大したもんでした」と称賛していた。生きるために、人は新しいコミュニティを作り出していた。
 しかし、それはもろいガラスの積み木のようだった。小さなきしみは毎日生じていた。福池小の被災者組織が崩れ落ちるのは、ぼくが2週間の応援を終えて島原に戻った後のことである。

 「京都大学を出て、大阪の1部上場企業本社に勤め、阪神間に家を建てる」――。
 これが成功した関西人の姿なのだそうだ。阪神間とは、そういうステイタスを持つ高級住宅地である。
 阪神間では、住みやすいとは思えない坂道の上に行くほど、住宅のグレードが上がっていく。中腹部の山手には、目を見張るような超高級邸宅が立ち並ぶ。お抱え運転手がいる家も多いから交通事情は関係ないのだ。かつて、ある一等地内をバス路線が通ることになり、住民が反対運動を起こしたという話も聞いた。
 山に押されて狭まった阪神間を、阪急、JR、阪神の3鉄道が平行に走る。阪急沿線の山手から海側を見ると、すぐ南のJR線沿いはまあ高級、もっとも海側の阪神電車沿線は庶民が多く住むという。
 これほどはっきり階層が分化されていることは驚きだった。

 あるとき、倒壊した家の片付けをしていた男性に話を聞いた。残った庭は豪勢なもの。現在は離れの書斎に寝起きしているという。庶民が多く住むという阪神沿線でも、川の両岸は美しく整備され、豪邸が下流まで広がる。
 「大きな家だったんだがな。瓦が重すぎたんだ。日本家屋はもう嫌だよ。ほら、隣のプレハブはなんともないんだ」と、和服の男性が指さした家は、瀟洒な2階建ての民家。これを指さして「プレハブ」とは。「次はすぐに洋館を建てるから」と言う男性を残して、ぼくはそそくさと立ち去った。
 ひび割れた芦屋市の高級マンション。近くで避難していた女性に「ローンは残っているのですか」と聞いた。「自立再建を」と行政は言うが、なくなってしまった家の借金があるのにさらに新居を作るため借金するのは、そう簡単ではない。このダブルローンは、島原でも大問題だった。
 ところが、この女性は「はっきり申し上げまして、このマンションにローンで住んでいる人はおりませんの」と言う。夫は大企業の幹部らしかった。
 「1区画1000坪以下の家は自治会として建築を認めない」という最高級住宅街では、警備員を雇って作った“自警団”に留守宅を守らせていた。自身は大阪の高級ホテルに避難しているというのがもっぱらの噂。この人たちは「高級避難民」と呼ばれていた。

 しかし、阪神地区と言えど、お金持ちばかりではない。
 文化住宅は軒並み倒壊している。関東育ちのぼくは、文化住宅というアパートを初めて見た。築後数十年経ち、老朽化している建物が海側に多い。大抵の文化住宅は1階がグシャッと潰れ、2階がその上に傾いて乗っていた。
 市井さんの家も文化住宅。災害は、誰にでも平等に降りかかるのではない。島原でも阪神でも、庶民、とりわけ弱者に厳しいのが現実だった。

 日本屈指の進学校として知られる私立灘中・高校の周辺の神戸市灘区も、被害が大きかった。幸いに生徒に犠牲者はなかったが、体育館には遺体が多数安置され、学校は避難所となった。2月1~2日に予定されていた中学入試は、1カ月延期されていた。
 校庭でテントを張って生活していの沢井直恵さんに声をかけた。9歳の長男、勇太(はやと)ちゃんを失ったという。「証言」に書けると思い、取材をお願いした。

 ダイバーのご主人はあの日未明、淡路島へ向けて出発した。送り出した妻の直恵さんはビデオをつけてうつらうつらしていた。
 突然「ガッと横に揺れて」、木造モルタル2階建てのアパートが倒壊。幼い子ども3人と生き埋めになった。
 「下の2人の子は泣きじゃくって、無事なのはわかったんですが、お兄ちゃんは『頭が痛い」とくぐもった声で泣いたきり、すぐに静かになって。私は頭を押さえつけられ、横向きのまま動けなかった。目の前に、お兄ちゃんの足があった。脳卒中のようないびきをかいて。『意識を取り戻して』と強くねじったんですが」と、直恵さんは涙を拭った。

 「お兄ちゃんの足がだんだん硬直してきて……。折れてもかまわないと、何度も何度もひねったんですが」

 勇太ちゃんは1時間半ほどしてから助け出され、人工呼吸しながら病院に搬送されたが、助からなかった。
 目の前で死んでいく子供を見つめながら、何もできずに苦しむ母。地獄のような光景だ。それが当たり前のように、阪神には転がっていた。
 夫は阪神高速を走行中に地震に遭遇したが、目の前の高架が落ちたにもかかわらず転落を免れ助かった。
 数日経ってもショック状態だった直恵さんを、下の子たちは無邪気に励ました。

 「お兄ちゃんは神さんとこへ行ったんだよ、泣いたらだめだよ、って言うんです。私たち夫婦は無宗教ですが、キリスト教系の幼稚園を出たお兄ちゃんは教会が好きでした。こんなときのために宗教ってあるのかな、とこのごろ考えるんです」

 聞きながらもらい泣きした。
 直恵さんの「証言」が掲載された後、一家の行方を探していた知人から、居場所を間い合わせる電話が支局にかかってきた。
 つらい話を取材するとき、「無理矢理涙を流させる権利が記者にあるのか」と、いつも思う。しかし、こうして少しでも役に立てたとき、初めてこの稼業の喜びを感じられる。

仮設住宅とは何か

 デスクに「記者の目は最低限の仕事だな。あと1本は書けよ」と注文を付けられた。応援期間は、さらに1週間延長されていた。普賢岳を経験した記者ならではの視点を求められている。
 ぼくは、仮設住宅しかないと思った。

 仮設住宅への入居を求める声が日増しに高まっていた。
 すでに宝塚市などの一部では入居も始まっていたが、県知事が表明した建設戸数は4月末までに3万戸。それでも20万人以上ともいわれる被災者を収容するには足らない。
 島原、深江では計1455戸建設された。奥尻島では408戸である。阪神では数が違う。土地、資材、輸送能力、労働力などの確保が困難なことが予想された。
 しかし、仮設住宅には根本的な問題がある。
仮設住宅の起源は、空襲で焼け出された国民の収容施設として、内務省が戦前に内部で検討した「国民住宅」まで遡る。
 このときに計画された間取りは、50年以上経った今も基本的に変更されていない。このことは94年夏、島原市に修士論文の研究に来た京都大大学院生の三浦研さんに教えられた。三浦さんは環境心理学が専門で、仮設住宅のあり方を研究していた。
 戦後すぐの福井地震などで、担当官僚が生活保護の受給者の生活水準を越えないように心がけるよう発言したことが明記されているという。被災者が自立再建を忘れ、仮設に住み着くのを恐れたためだ。
 仮設住宅はそもそも長期の避難ができるようには考えられていない。激しい降灰のもとで長期間の避難生活が不可避となった普賢岳災害で初めて、クーラーの導入が認められたことを取ってみても、仮設住宅設計の思想が理解できる。

 仮設でのトラブルは、島原、深江でも枚挙にいとまがなかった。
 2世帯が1棟に入居しているため、隣の話し声は筒抜け。床板は隣とつながっているので、歩けば隣の床にも響く。地面に打った杭の上にプレハブを置いただけなので、すきま風は畳の間からも入り込む。
 島原、深江では自治会ごとに仮設の団地はまとめられ、隣近所は顔見知りだったにもかかわらず、小さなトラブルは続いた。

 三浦さんと同じころ、京都造形芸術大学の野田正彰教授も島原に調査に訪れた。野田さんの専門は文化精神医学というちょっと聞き慣れない分野。講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した著名な作家でもある。
 野田さんは、意外にも「予想以上に建物自体は立派だ」と言った後で、こう付け加えた。

 「ただし、2世帯を1棟に押し込んである仮設住宅は、世界各国の避難施設を見ても例がない。大事なのは、狭くてもいいから1軒1軒を少しでも離すことです。こうした精神文化的な発想は欠如しています」

 こうした知識を得ていたぼくにとって、阪神の仮設住宅は衝撃的だった。被災者があまりに多いので、何軒もが連なっているのが普通だったからだ。
 宝塚市では、15戸が1列に並んでいる仮設もあった。これでは、両側から音が聞こえてくる。そのうえ、阪神では入居は抽選。隣人の人となりもわからない。ぼくは三浦さんに連絡を取った。

 「ささいなトラブルが殺人事件などに拡大しなければいいのですが」

 ぼくが危倶していたことを、三浦さんがずばりと指摘した。少しでも仮設を知るものなら、強い危機感を感じざるを得ない。
 神戸大学で都市防災学を専攻する室崎益輝教授は「災害弱者を優先的に入居させることになっていますね。理由はわかるのだが、人数が膨大なので、最初の仮設住宅はお年寄りや母子家庭、障害者などばかりが集まることになる。誰も隣の家庭を助ける力がないんです。ケアの態勢をしっかりしないと、都会の老人が人知れず死ぬような事態が起こります」と警告した。
 島原よりもよくなっていたのは、玄関ができていたことくらいだった。

 兵庫県や建設省に電話取材した。県の担当者は「3万戸と簡単に言いますが、世帯の人数を考えたら、人口10万人の都市を新たに作るということですよ。今は贅沢は言ってられません。とにかく、数が欲しいんです」。
 気持ちはよくわかる。しかし、これは物理的なことより、危機管理の思想の問題だ。仮設住宅のあり方を検討しなおす必要は大きい。

 取材中に抽選発表があり、当選した中年の女性がうれし涙を流す様子が大きく報道された。体育館の雑魚寝に比べればうれしいだろう。しかし、問題はこれから始まる。その視点がまったく報道されなかった。
 ぼくは、島原と阪神の仮設住宅の間取り図を比較して、「普賢岳・奥尻の教訓生かされず 仮設厳しい暮らしに」と書いた。
 しかし、残念ながら震災後半年で10人のお年寄りが孤独死を遂げた。誰も気付いてあげられなかった。

押しつけられる「被災者らしさ」

 被災者には「心のケア」が大切だという。しかし、何度も新聞での言葉を見るたび、空虚な思いにとらわれた。
 心のケアとはなんだろう。被災したり家族を失ったりして深く傷付いた人の話し相手になってあげること、くらいにしか捉えられていないのではないだろうか。
 この問題については、前述した野田正彰教授が日本の第一人者だ。仮設住宅の問題で、野田さんは何も構造が悪いからいけないとだけ言ったわけではない。日本には「災害救援の文化がない」という持論の一端にすぎない。
 経済至上主義が蔓延した日本は、身体医学的救急と物質的援助は過剰なまでに行われているが、心の傷については意図的に無視しているのだという。
 島原を訪れた野田さんの取材をお手伝いした後、前線本部でお話をうかがった。
野田さんの主張で、深く胸に残っているいくつかの言葉がある。

 1つは「被災者らしさを、被災者に強制するな」ということだ。
 被災者は、体育館に集められ、食事の配給を受け、世話をされる。受動的な「被災者的役割」を果たすことを義務付けられているという。
 逆に、行政やボランティアは「救援者的役割」を果たす側に自分たちを置き、懸命に世話する。1カ所の体育館に被災者を集めるのも、実は自分たちが効果的に救援者の役割を果たすために便利だからだという。
 効率的であればあるだけ、物質的な援助は充実する。できるだけ早く、もとの生活に戻してあげようと救援者の誰もが考え、努力する。しかし、逆説的に復興が早いほど、被災者は取り残された感情を持つ。
 野田さんの話で興味深かったのは、家族を失った被災者はしばらくして、自分だけが生き残ったことで、または生き残るためにしたことでの罪悪感に悩まされるということだ。「原爆で生き残った人が、『連れていってくれ、と足をつかむ人を振り払って、自分だけ逃げた』ことにいまだに悩まされているでしょう」と、野田さんは例を上げる。
 そして、被災者自身も自分を被災者的役割にあてはめて考えるため、「こんなにお世話になっているのに、立ち直れないのは自分が甘えているのではないか」と考え、自らを責める方向を選んでしまう。心に残された問題はさらに潜行していく。
 野田さんは「被災者の心の中に『生きよう』と思う気持ちを芽生えさせ、自らが立ち直ろうとする意欲が生まれないままでは、復興はあり得ない」と話した。
 そのためには、被災者がどう心を回復していくのかを知る必要がある。このことについては、日航機事故の遺族の心の回復を、時間を追って級密に取材した野田さんの著書『喪の途上にて』や『災害救援』にくわしい。
 「幼いころ、事故で親を亡くすなどの強い衝撃を受けた子供が、数年後に躁鬱症になる確率は、何もなかった子に比べて明らかに高い。一見なんともなくても、心の問題は根深いのです」と野田さんは言った。
 そして、島原と深江を取材して「専門知識を持っている人がほとんどいない」と慨嘆していた。

 さらに、被災者らしさを被災者に押し付けている張本人はマスコミだと厳しい指摘を受けた。
 たしかに、ぼくらはステレオタイプの被災者像を追い求めてきた。「6・3」から1周年ならば「悲しみ今も深く」「天国のお父さん見て、ぼくはこんなに大きくなったよ」という記事を探しているでしょう、と見透かされた。
 野田さんはこうしたマスコミの反応を「アニバーサリー・リアクション」と呼んだ。その日が来れば、また同じことをするという揶揄だ。そして、「その取材は被災者の心に踏み込んで、被災者的役割を担わせ、読んだ被災者の心にも被災者的役割を再認識させる。百害あって一利なしだ」と言われた。
 1年経っても、2年経っても変わらないことを伝えようとしていたぼくにはショックだった。

 深夜、福池小の職員室で当直の先生にこの話をした。ぼくは野田さんの話を受け売りして、「たとえば、児童を丸く座らせて、みんなであのときの恐怖を、亡くなった友だちのことを話し合う。絵にかく。泣きたいときは泣く。しっかりしようね、がんばろうねとは言わない。心に押さえ込まれた感情を放出させてあげる機会を作ることがまず大切だと野田さんは言ってました」と話すと、先生たちは予想以上に興味を示した。
 その影響ではないと思うが、6年担任の安藤祐吉先生は数日後、学校近くの北青木児童館に児童を集め、作文や絵で表現する時間を持った。
 作文はまとめられ『地震なんかに負けへんで』という文集になった。

 「今でも1人でいると、なんかこわく心細くて、テレビとかつけてうるさくします。夜ねるのも眠れません。今思えば、なんでこんなになるのか不思議です。早く元通りになって、学校でみんなで遊んだりしたい」
(藤尾佳代子)
 「こんだけすごいはかい力をもった地震におそわれ、よく助かったと思う。今では、余震がきてもまったくこわくない。けれど、建物がまっすぐ建っているのに、ななめに見えてしまうことがある
(藤田啓一)
 「今、こうやって字を書けるのも、こうやってしゃべれるのも、みんなみんな生きているからなんだ。こうして何気なく学校に来て勉強しているけれど、死んでしまっては何も出来ないんだ。生きているからこそ、こうやって笑ったり、怒ったり、悲しんだりすることができる。生きているからこそ、今ここにいることができて、しっかりとこの地面をふみしめることができるんだ。そう、生きているということは、すごく幸運なことなんだ
(林佳吾)
 「私は、一生に一度しか体験できないかもしれないこの地震がすごくにくいし、くやしい。もう絶対に起こらないでほしい」
(栗原あゆみ)

 ここに挙げたような、心への傷を想像させるものもあったが、文集には激励の手紙への返事も掲載されていた。
 それらはやはり「怖かったけれど、水くみなどでいい体験もした。困難に打ち勝って神戸を立ち直らせたい」という声が多かった。
 野田さんのいう“被災者的役割”は、しっかり子どもたちの心にも刻み込まれているように思えた。

救援物資の実態を確かめる

 大震災の10カ月前、ぼくは救援物資についての「記者の目」を書いた。ぼくの主張は「物よりも金、金よりも人」。とくに、郵便局のゆうパックの悪影響に触れた。
 しかし、阪神大震災は被災の規模や度合いがこれまでの災害とは違う。被災者は、救援物資の衣類を何枚も重ね着して真冬の寒さをしのいでいた。
 ぼくが島原で出した結論は、ここでも通用するのか。それが確かめたかった。

 神戸市社会福祉協議会はボランティア約100人の応援を受けて、ゆうパックを専門に仕分けにあたっていた。
 責任者の岡田誠さんは「郵政省は物資を送るのに経費を取るべきです。悲しいけれど、中にはゴミが入っているだけの箱もあるんです。ゴミ出しの日に出せなかったんじゃないですか。無料だから、中にはこういう人も出てしまう。収益は義援金にあてればいいじゃないですか」と話してくれた。
 別の仕分け場所でボランティアに汗を流していた奈良県の郵便局員は「ゆうパックは送るなと言いたい」と断言した。
 郵便局員だけに、実態をよく知っていた。大阪にある小包の集積場には、捌き切れないほどのゆうパックが届いており、作業が追い付かず1週間は留め置かれているのが実態。中には腐り出す箱もあるので、ひそかに廃棄しているという。
 また、ガスがないのでカセットコンロを贈る人が多かったが、ボンベは危険物なので郵便のルートには乗せられない。窓口で受け取りは断るように指導があったという。彼は「ボンべなしのコンロに意味なんてないですよ」と、腹立たしそうに言った。
 ボランティアの大学生らにも意見を聞いた。「気を回しすぎな物があるんです。たとえば線香やろうそく。慰霊のために使ってということなんでしょうが、渡せば遺族の心情を逆なでするでしょうね。薬品が足りないとの報道を見て、簡単に薬を贈ってこられても、処方せんが必要なものもあり、怖くて渡せないんです」と彼らは話す。
 ぼくは深くうなずいた。
 「それから、中身は1つの同じ品物ばかりにしてほしい。箱には内容と数を詳細に書いて。そうすれぱ、仕分けはグッと楽になります。缶詰を贈るなら缶切りも、懐中電灯には電池を入れる。すぐ使えるような工夫がないと、物資は生きません」
 島原市役所の記者クラブから「記者の目」をファクスで取り寄せて見せ、「個人は物資は贈らないほうがいいと思うが、どうか」と聞くと、彼らは異口同音に言った。

 「物資ごとに、被災者に必要な時期があるんです。直後に欲しいものとか、1週間してから必要になるものとか。混乱した被災地が的確に配れるわけがないですよ。正直言って、同感です」

 意を強くした。阪神地区のある市の幹部は「今後、ほかの場所で災害があっても、絶対に市として物資は贈らない」と明言していた。
 この取材をまとめて記事にしてみたが、まだ災害から間もないためボツになった。
 しかし、どの災害でも事情は同じであることがわかった。阪神大震災の被災者に届いたゆうパックは、約1カ月半で61万個に達していた。

 しかし、「なんとか被災地を助けたい」という善意は大事にしたい。
 阪神でぼくが取材を続けていたころ、島原市の有志は市民から物資を募集していた。ただし、普通の呼びかけではなく、被災地ならではの工夫が凝らしてあった。
 まず、市民に直接被災地に送らないよう呼びかけ、必要な物資をリストアップして広報し、いったん公民館などで受け付ける。
 窓口では、被災地に不必要だと判断したものはそのまま持ち帰らせる。
 集まった物資は同じ品目ごとに仕分けして、急いで送るべき物から発送した。

 中心になって活動したのは、普賢岳災害当初に物資の仕分け作業にあたった「島原ボランティア協議会」の宮本秀利会長らで、教訓を生かした見事な計画だった。
 これなら、被災地にあまり迷惑はかけない。全国の自治体が「個人で物資を独自に贈らないで」と住民に呼びかけて、“島原方式”に取り組めば、現地に行かなくてもボランティアをしたことになる。これはぜひ広めたい。

福池小住民組織の崩壊

 福池小のその後について触れておきたい。

 阪神滞在中、福池小に行くたびにハラハラするようなやりとりが目についたが、それでもうまくやっているほうだったと思う。
 ぼくは2週間の応援期間を終えて島原に戻った。それから1カ月、3月半ばになってそれまでの組織は崩壊してしまった。

 避難生活が長くなり、不満や苛立ちは同じ被災者である本部に向けられたのだ。根も葉もない中傷を広める人もいた。

 ――本部は偉そうに指示して、自分たちはいい思いをしている。
 大きなテレビの入った段ボールがあったが、後で箱しか残ってなかった。横流ししたのではないか(実際には元々箱だけだった)。俺たちならもっとうまくやれる。
 あのボランティアはなんだ。被災者の若い男とチャラチャラして。なんで被災者でもない者に命令されなきゃいかんのか――。

 ある日、被災者の一部が本部にいた人たちやボランティアに罵声を浴びせた。そこにいた人は「男が欲しければ東京で探せとかね、ひどいことを言われて、聞くに耐えなかった」という。1人は涙を流して、その場で東京に帰った。
 すぐに校内の被災者にビラが配布された。言葉は冷静だが白い紙に真っ赤な文字が印刷されていた。怒りがほとばしっていた。

 私たち、復興推進本部(旧称災害対策本部)は、1月下旬に発足して以来、現在に至るまで、さまざまな分野に於いて行政、学校とのクッション的な役割を果たすために、できる限り努力してまいりました。

 しかし、なかなか私たちの仕事をご理解して頂けない方がいることを知り、とても残念です。
 先日、一部の避難者の方より、復興推進本部やそのメンバーについて批判があり、本部のメンバーは全員かなり深刻なショックを受けています。
 「避難している人はみんな本部に不満を持っている」ということなので、私たちも業務を遂行していく気力を無くしました。

 非常に残念ではありますが、皆様のご理解ご協力を頂けなかったのも、私たちの努力不足と感じ、力不足を痛切に感じました。

 私たちもそろそろ各々の家庭や仕事に重点を置きたいと思います。
 よって、私たち、現時点での福池小学校復興推進本部は4月3日を以て解散致します。

 ぼくが見た震災は、たった2週間、それもあれだけ広い場所のごく一部だった。だから、知ったかぶりはできない。
 福池小の被災者組織がこれほど簡単に崩壊するとは思わなかった。しかし、これも避難所の現実だったのではないか。

 最初の代表者だった笹尾さんが心配していたように、見知らぬ人たちが異常事態の中に作ったコミュニティは、あくまで臨時のものだ。いずれ、くしの歯が欠けるように中心人物が抜けていく。うまくいっている状態を保つことは困難だ。
 市井さんは3月末で、近くのマンションを借り仕事に復帰した。若い佐野くんも会社勤めに戻った。2人とも、もっと早く仕事に戻ろうと思えばできたが、福池小を見捨てておけなかったのだ。
 旧本部が解散した後、福池小は混乱した。そして、まだ残る旧本部の数人が作業に復帰した。
 食事担当の生田さんは5月下旬まで福池小で暮らし、借金して美容院を再建した。ご苦労されたことと思う。

 8月20日、神戸市は避難所を閉鎖した。福池小には、まだ約30人の被災者が残っていた。

(第11章 了)

雲仙記者青春記 第12章「1995年4月30日 故郷」に続く


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