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『雲仙記者青春記』第2章 新人記者が出合った雲仙・普賢岳

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』
(1995年11月ジャストシステム刊、2020年12月3日第2章公開)

記者を目指すきっかけ

 新聞記者には小学生のころから憧れていた。

 わが家は古くから毎日新聞の読者で、売り物の記事「記者の目」を見るのが好きだった。記事の意味はわからなくても、執筆した記者の署名と顔写真が載っているからだ。どんな人が記者をしているのかに興味があった。
 高校では生徒会長、大学では生協の学生委員長をした。特定のイデオロギーは持っていなかったが、自由民主党の機関紙「自由新報」と日本共産党の「赤旗」を併読して、論点を読み比べては楽しんだ。
 新聞が好きだった。

 大学時代に衝撃を受けた4つの事件がある。どのときも、新聞を食い入るように読んだ。
 1987年の警察による日本共産党国際部長宅盗聴事件
 89年の民主化を求めた学生たちが犠牲になった天安門事件では、中国を非難するデモに参加して渋谷の街を歩いた。
 同じ年の坂本堤弁護士一家拉致事件は「こんな事件が許されれば司法制度は崩れてしまう」と腹立たしく、一家3人の行方が心配でならなかった。
 そして、もっとも強くショックを受けたのは、ぼくが大学2年生だった1987年5月3日に発生した朝日新聞阪神支局の銃撃事件だった。小尻知博記者が無法な銃弾に若い命を奪われ、ベテランの犬飼兵衛記者も重傷を負った。

 4つの事件は、どれも民主主義の根幹に関わる問題である。
 就職を考える時期になって、「俺も新聞社を受けてみるか」と決めたのは、これらの事件への憤りが一つの原因だった。

 といっても、事前に何かの準備をするほどの熱意を持っていたわけではなかった。ぼくの就学態度はいい加減そのもので、優の数は4年間で片手で数えられるレベルだった。
 しかし、大学5年目の1990年当時はバブル経済の最盛期。1人で何社も内定を取るのが当たり前の時代のこと、「俺だってどこか就職先があるさ」とたかをくくっていた。新聞社は毎日と朝日だけを受験するつもりだった。だめなら、地域生協の職員になろうと思っていた。

 マスコミセミナー受験を申し込むため、毎日新聞に電話した。セミナーの受け付けは先着順で、早く申し込みをしないと締め切られる恐れがあったが、どうしても外せない用があり、定員にまだ余裕があるかを聞くつもりだった。人事課が「まだ大丈夫」と言うので、都合が付いた数日後の早朝、東京本社に行った。

 ところがセミナーの受付席は無人で、「応募は締め切りました」と貼り紙がしてある。「わざわざ電話で確認したのに」と怒ったが、始まらない。「せめて会社の中を見てやろう」と社内をウロウロしているうちに、だんだん腹の虫が収まらなくなってきた。
 編集局に出勤しようとしたスーツ姿の社員を捕まえて、「おかしいじゃないですか」と文句を言った。別になんとかしてほしいと思ったわけではない。「社員の誰かに腹立ちをぶつけて帰ろうと思っただけです。突然すみませんでした。では失礼します」と頭を下げて、腫を返した。
 すると、同情したこの社員が「それは会社の落ち度だから、もう一度かけ合ってみたら」と勧めてくれた。
 
 1階の受付に戻ると、所在なく10人ほどの学生が立っていた。聞くと、ぼくと同じ境遇だった。「やっぱり問題だよ。きっちり抗議しよう」と話し合い、担当者に申し入れた。人事課から「対応にミスがあったようです。この場に来ている人だけにセミナー受験を認めます」と、OKが出た。
 数日後の試験は英語、国語、作文の3科目。英語はさっぱりわからなかったが、問題は時事英語。記事に書いてある内容をだいたい知っていたのでパスしてしまった。もうこの時点で、ぼくはすっかり入社を確信していた。3度の面接もはったりで通し、うまくすり抜けた。
 バブルの時期だけに、同期入社は135人もいた。「入社までせっかく時間があるのだから」と、有志で集まって新宿の喫茶店で何度も勉強会を開き、「匿名報道の是非」「海外経済支援の問題点」などのテーマで、活発に議論した。この時のメンバーは全国各地に散ったが、今でも懐かしく思い出す。

 入社式の前日。
 上野公園の近くを歩いていると、消防車のサイレンが聞こえた。人だかりの方向へ進むと、JR上野駅の地下入口からもうもうと煙が出ている。火事だ。「東京の北の玄関が燃えている。これはニュースだ」と思った。
 ちょうど手元に買ったばかりのカメラがあった。扱い方も知らなかったので、散歩しながら撮影の練習をしていたのだ。歩道橋の上や近くのデパートの窓などからパチパチと撮影して、東京本社に持ち込んだ。
 写真部には、2人の男性がいた。1人はその日の当番デスクで、「明日からお世話になる新人です」とあいさつすると、「ごくろうさん」と言ってフィルムを受け取った。
 しばらくして、焼き付けを終えたデスクが「こちらの方も写真を持ってきてくださったんだ。比べてごらん」と、2種類の写真を見せた。

 ぼくの写真は駅舎の全景。「上野駅の看板まで入れたほうがわかりがいい」と思ったからだが、その男性は現場の近くまで迫って撮影していた。黒煙が地下鉄の入口から噴き出し、手前には消火にあたる消防署員も写っており、ずっと臨場感がある。
 男性は毎日新聞の販売店主で、たまたま上野公園で花見をしていたという。ぼくが明日から記者になると知って、アドバイスをしてくれた。

 「野次馬が入れないように、警察や消防が現場にロープを張るだろ。ああいう現場では、中にいる警官に『どうもごくろうさん」と声をかけて、いかにも関係者だって顔してロープを越えて、グッと近付いて撮るんだよ」

 デスクも激励のつもりだったのだろう。笑いながら「明日から君もプロだからな。失敗はできないぞ」と肩を叩かれた。「入社式の朝刊を自分の写真で飾れるかも」とわくわくしていたぼくは「情けない、こんなことでやっていけるだろうか」とすっかり落ち込んでしまった。
 翌日の新聞には、もちろん販売店の男性の写真が掲載された。

大きな流れに巻き込まれて 

 全国紙の体制は、東京、大阪、西部(九州・山口)、中部の4本社と、北海道支社に分かれている。
 5つの本支社が、全国に発信すべきニュースを他本支社に送る。集まってきた原稿は各本支社が独自に編集、地域の読者ニーズに対応した新聞を作っている。だから、同じ毎日新聞といっても、5つの紙面はそれぞれ違う。
 どこに配属されるのか。研修が始まると、新入社員はみなそのことで頭がいっぱいだった。ぼくは出身が群馬県で、学生時代も東京で過ごしたため、東京本社を希望した。入社前の配属支局希望調査には、秋田、山形、長岡と書いた。「コメ問題を考えたい」などと、もっともらしい理由を付けておいたが、正直言えば東京本社管内ならどこでもよかった。

 1991年4月1日。入社式が終わり、新人研修が始まった。政治評論で高い評価を受けている毎日新聞のスター記者、岩見隆夫さんが講演した。「優秀な記者は、自分が書いた記事はどんなに小さくても、切り抜いてスクラップするものだ」と話されたのを覚えている。
 その後、編集、販売、広告、組合など全般的な会社説明が続いた。イスに座りっ放しで聞き続け、「もう疲れたな」と休憩時間に体を伸ばしていると、誰かが「日本で一番古い新聞、創刊から120年の伝統、なんてことばかり言っている。未来の話が何もない。新聞じゃなくて“旧聞”だな」と言った。自嘲気味な態度は好ましく思えなかったが、ぼくもうなずけるものがあった。

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同期入社は135人。
(最後列、左から5人目が筆者)

 2日目の夜、立食の懇親会があった。翌日には、それぞれの配属される本支社が発表されることになっている。「このパーティーで、幹部が気に入った新人を自分の本社に引っ張るらしいよ」という噂が流れていた。
 「そんなものかな」と一応頭にとめておいたが、いざパーティーになると、東京本社の編集局長らのまわりに大きな輪ができた。「そこまであからさまにしなくても」と思い、同じ輪にいづらくなり、すぐに抜けた。
 適当に酒を飲みながら、仲のよい同期と雑談していると、空のグラスを持っていた1人の幹部社員に気付いたので、ビールを1杯注いだ。

 翌日の本社発表。1人1人、名を呼ぼれ、配属先が言いわたされた。これで自分が赴く地域がおおよそ決まる。やはり緊張した。

 「神戸金史くん、西部本社」

 あれっ、という感じだった。九州には縁もゆかりもないし、なぜだろう。
 後で聞けば、前夜の幹部社員は西部本社の編集局次長だった。新入社員の胸にはネームプレートが付いており、それで名前を覚えられたのだった。
 「新聞社の人事なんてこんなものか」とあきれたが、会社にしてみれば、たった2日で新人がどの地域に向いているかなど判断できるはずもない。それならそれでいい。
 ぼくは東京本社で1週間の研修後、新幹線に乗って福岡県北九州市小倉にある西部本社に出発した。

 西部本社に配属されたのは、記者、営業を含め21人。赴任した日はちょうど統一地方選挙の投・開票日で、研修を兼ねて雑用を手伝ったり、選挙事務所の取材に同行したりした。
 次に、西部本社内での配属が決まる。ぼくは「どうせだったら、端まで行きたい」と考え、長崎か鹿児島を希望すると、今度は通った。
 こうして日本の西の果て、長崎支局に最終的な配属が決まった。長崎への赴任はぼく1人。研修中には新聞の長崎関連記事を熟読した。雲仙・普賢岳の火山活動と、まもなく長崎を訪れるゴルバチョフ・ソ連大統領のことばかりだった。
 販売店での実習など、計2週間の研修を終えた4月18日、長崎行き特急かもめに乗った。佐賀支局に赴く同期の宮下正己記者と、佐賀駅で「お互いがんばろうな」と握手して別れた。
 長崎を目指して列車に揺られている間に書いたメモが手元にある。気負った言葉が並んでいる。

 135人いた今年の新入社員。いつも集まって騒いでいた。それが、今はたった1人になった。みな全国へ散り散りとなった。

 明日、来崎するゴルバチョフ大統領を、取材の一線で出迎える、その一員としていられることの幸せ。
 記者として、ぼくにできることを見つけていこう。

 大きな流れの中に巻き込まれていく。それが今の実感だ。

 ゴルバチョフ大統領の訪問を翌日に控え、長崎支局は応援記者やカメラマンでごった返していた。誰が本来の支局員なのかもわからない。
 支局長に赴任の報告をした後で、すぐ「大統領が明日行く予定の外人墓地周辺で、住民のコメントを取ってこい」と指示された。
 メモ帳を手に初めての取材に行き、原稿用紙に向かったが記事はボツ。「この忙しいときに、新人の面倒まで見ていられない」と、取材の名目で体よく放り出されたのだろう。

 翌日、支局員と応援部隊はそれぞれ、打ち合わせ通りの場所に飛んだ。ぼくは支局に居残り。「誰もおらんから、何かあったら君が行くんだぞ」と冗談混じりに脅された覚えがある。それが本当になってしまった。
 長崎空港からリムジンに乗ったゴルビー夫妻が、市内に入って車から降り、沿道の市民に手を振りながら約100m歩いてしまったのだ。全く予定外の市民サービスで、その周辺に毎日の取材陣は1人もいなかった。
 「神戸くん、誰か写真を撮っているはずだ。現地へ行って探してきてくれ」

 北郵便局の近く、という情報だけを持って、支局を飛び出しタクシーに乗ったが、長崎市内は警備のため厳重に交通規制されていた。運転手は裏道を探しながら進んだが、渋滞でまもなくストップしてしまった。しかたなくタクシーを降りたが、なんせ初めての土地。住民に方向を尋ねて走った。
 汗まみれになって現地に着き、「写真を撮った人はいませんか」と声を出して歩き、ようやく1人の高校生を見つけることができた。ライサ夫人と並んで手を振るゴルビーをカメラに収めたという。
 「フィルムは必ず返却しますから」と頼み、メモ帳に高校名と住所、名前、年齢、電話番号を書いた。ついでに「興奮した」「目があって」と彼の感想の断片もメモしていると、外人墓地と平和公園への訪問を終えた大統領が、国道を空港の方向へ戻っていった。
 リムジンの中に、かすかに人影が見えた。

 「見つけました。カラーフィルムです」と支局に駆け込むと、デスクは「よし、この先にある現像所へすぐ持っていけ。それからメモがあったら置いていけ」とせき立てた。
 当時の長崎支局にはまだカラー現像機がなく、前もって近くの写真館に夜遅くまでの現像を依頼してあった。写真部が撮ってきたフィルムも持って、支局と写真館を何度も往復した。
 すべての現像が終わり、支局に戻って驚いた。デスクに渡した殴り書きが、社会面トップの原稿のワンシーンに使われていたのだ。

 「一瞬、大統領と目が合った。うれしかった」と見守っていた1人、青雲高校1年、柳忠宏君(16)は興奮した様子。
(1991年4月20日、毎日新聞)

 事実はまったく記事の通りなのだが、唖然とした。たったあれだけの走り書きで、よくもまあ見たように書くもんだ。
 わずか5行とはいえ、この社会面トップがぼくの初原稿となってしまった。「自分で書いていないのに初原稿とは」となんだか中途半端な気分だった。
 高校生の写真はピントが合っておらず、新聞には結局使えなかった。

雲仙部会

 次の日曜は統一地方選の投票日で、「天皇に戦争責任はある」と発言して右翼に銃撃された長崎市の本島等市長が4選を果たした。「長崎は全国的なニュースが多いな」と思ってうれしかった。
 ゴールデンウイークが終わると、島原通信部の浜野真吾記者が長崎支局にやってきた。

 通信部とは支局の出先機関で、記者は1人で持ち場をカバーする。浜野さんは家族と一緒に島原通信部に住み込み、島原半島の1市16町を担当していた。当時のもっとも大きな課題は、当然、雲仙・普賢岳の火山活動である。浜野さんは毎日、防災機関や火山学者の取材に追われていた。

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1990年12月、噴煙を上げる普賢岳
右は、大崩壊跡が残る眉山

 長崎支局はこの春、支局長と次長(デスク)、記者2人が交代したばかりだった。浜野さんが長崎に来た目的は、全員に普賢岳の現状と今後の見通しを教え、何があっても対応できるようレクチャーすることだった。
 この「雲仙部会」で、浜野さんは今後起こりうる災害を列挙した。

(1)大量の火山灰が積もっており、雨が降れば土石流が起こる。大雨が降りそうなときは前もって記者の応援がいる。

(2)溶岩が噴出する可能性も否定できない。普賢岳では1663年と1792年の2回、山腹から溶岩が流出しているが、溶岩は粘り気の強いデイサイト質なので、流れは非常に遅かった。

 浜野さんは解説を進めた。
 「九州大学島原地震火山観測所の太田一也先生によると、前回の噴火ではゆっくりと流れる溶岩のそばまで見物人が押しかけ、茶店もできたといいます。普賢岳でまた溶岩の噴出が起こっても、スピードは前回と同じく、走って逃げられる程度でしょう。それより、怖いのは眉山(まゆやま)の崩壊です」

 浜野さんが3番目に挙げた災害「眉山崩壊」は、今回の噴火から想定される最悪の結末だった。

 眉山(標高819m)は島原市中心部のすぐ西側に位置し、天狗山(てんぐやま)、七面山(しちめんざん)の南北2つの峰からなる。
 1792年の噴火に伴って、島原は直下型の地震に見舞われた。地質的にもろい眉山は大崩壊を起こし、一瞬のうちに目の前の有明海に流れ込んだ。崩壊土砂は約3億4000万立方mと推定されている。これは東京ドーム約270杯分だ。
 有明海は幅約20kmしかない内海である。地震による大津波はまず対岸の熊本を襲い、ついで島原半島側に跳ね返って、さらに何度も往復した。津波の規模は、1993年の北海道南西沖地震で奥尻島が受けたものと同程度とされている。
 この災害は俗称「島原大変、肥後迷惑」と言われている。両岸で1万5000人にも達した犠牲者は、日本の火山災害史上もっとも多い。
 約200年後の今も、眉山には巨大なスプーンで山体をえぐったようなすさまじい崩壊跡の急斜面がそそり立ち、市街地を見下ろしている。

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島原市街地の西側にそびえる眉山。
200年前に大崩壊した跡は
今も生々しい

 浜野さんは約200年前と同じように再び市街地を襲うことを恐れていた。しかし、前回は島原城の近くで大きな地割れができるほど地震が多発したが、今回の噴火では、普賢岳よりも東の島原市側で、地震がまったくないことが大きく違っていた。浜野さんは「今のところ、眉山崩壊の可能性はほとんどないでしょう」と続けた。
 「これだけはあってほしくないなあ。取材どころじゃないよ、みんな終わりだ」
 誰かの言葉に、緊張が解けて笑いが広がった。この部会で、「火砕流」という想定はなかった。伝承や古文書で伝えられる普賢岳の過去の噴火パターンになかったからだ。

普賢岳の取材へ

 初めて普賢岳取材に加わったのは1991年5月26日、大雨洪水警報が出た晩だった。雨が降れば、土石流が水無川を流れ下る。その日も流域住民は避難を勧告されていた。ぼくへの指示は「雲仙岳測候所に行って土石流を警戒しろ」というものだった。

 雲仙は、島原半島の中央部の盆地。「風呂から海に沈む夕日が見える」が売り物の温泉街、小浜町(おばまちょう)から国道57号を東に登ると、雲仙温泉街に到着する。戦前は、中国・上海からの外国人避暑客がテニスやゴルフに興じた国際的な避暑地だった。硫黄泉がこんこんと湧き出している。「地獄」に投げ込まれ殉教したキリシタンの悲しい歴史も残る。雲仙岳測候所は温泉街の一角にあった。
 この日は車のワイパーも効かないほどの土砂降りで、道がどちらにカーブしているのかもよく見えない。おまけに、ぼくは入社直前の3月末に運転免許を取得したばかり。ハンドルにしがみついて、真っ暗な雲仙への峠道を必死に走った。
 雲仙岳測候所に無事着いたときは「生きて到着した」と心の底からホッとした。

 災害が始まってから、水無川には土石流監視用のワイヤーロープが張られていた。土石流が流れればワイヤーが切断されてわかる仕組みだ。
 他社の記者と雑談していると、切断の情報が入った。測候所に軽い緊張が走り、すぐに島原前線本部に連絡。少しバタバタした後で、ある記者が腕組みしながら「ということは…」と話し出した。
 「ワイヤーが切れてしまったんだから、これから土石流が起こったかどうかがわかるのは、測候所の地震計だけなんだ。地響きが震動で出るからね」
 測候所にいるぼくがぼんやりしていたら、前線本部に情報は入らない。「責任重大じゃないか」と気を引きしめ、警戒にあたった。

 深夜1時を過ぎてから、「もういいから、島原の前線本部へ下ってこい」という連絡を受けた。高原の雲仙からさらに東に峠道を下り、27日未明、ぼくは初めて島原市に入った。

 その後の2日間、普賢岳を見上げる島原市上木場(かみこば)地区の取材ポイント「定点」で、写真部員のアシスタントを命じられた。夕刊に送る撮影フィルムを「定点」から前線本部に運び、弁当を持ってまた戻るのが日課だった。
 雨ががり、火山灰が洗い流された麓の新緑は輝くようだった。春の有明海はきれいなブルーで、緑の山すそと際立った対比を見せた。
 ぼくの故郷、群馬県には海がない。このとき以来、5月の島原半島は、ぼくのもっとも好きな風景になった。

 早く火砕流が見たいと思った。
 恐怖心はほとんどなかった。1日に数回は起きるという。成長した溶岩ドームが火口からあふれ、溶岩の一部がボロッと崩れて水無川の上流に転がってくる。どの社のカメラマンも望遠レンズを三脚にセットして山を監視していた。
 撮影には、この「定点」が一番いい。水無川が山を抜け、畑や民家がある上木場地区に入る真正面に位置することから、この場所は「正面」とも呼ばれていた。さらに都合がいいことに、川は上木場に入ると大きく曲がり、「定点」を迂回するように流れていく。標高も数十mは違う高台だ。土石流が来る心配はまったくない。

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1991年5月、定点で

  「おっ、来たぞ」
 誰かが火砕流の発生に気付いた。タバコをふかしてのんびり雑談していたカメラマンが、一斉にカメラのもとに走る。白い雲の下から、濃密な灰色のかたまりが巨大化して下ってくる。「けっこう大きいな」とつぶやく声が聞こえる。流れは麓の林の中で止まった。
 しかし、高く上がった火砕流の灰かぐらが、風に流されて輪郭を空ににじませた。カメラを持って全員車の中に避難した。
 
大量の火山灰が降ってきて、小雨に濡れた窓ガラスに張りつく。ワイパーを作動させても、ベタッとして取れない。頭から灰を浴びると、細かい粒子で髪の毛1本1本が引っかかるようになり、くしも通らない。まったく厄介だ。

 カメラマンを車に乗せて、撮影場所を探すこともあったが、しばしば「お前の運転では怖くて乗っていられない」と、ハンドルを取り上げられた。おかげで、本部との往復以外は、ただ乗せてもらって見物するだけになることもあった。
 この日の午後、水無川のそばまで行ったとき、同乗していたカメラマンの表情が変わった。
 カメラマンは「俺は川を撮影するから、お前は上流から目を離すな。上のほうから何か物音が聞こえたらすぐに知らせてくれ。いつでも逃げられる用意をしておけよ」と話し、慎重に撮影を始めた。土石流や火砕流が流れてきたら危険だからだ。

 深夜になって、カメラマンと2人で「赤い火砕流が撮れないか」と、上木場のすぐ北側にある垂木(たるき)台地に登った。細い林道で、あたりは真っ暗。天気がよければ、もう少し先によく見える場所があるらしい。ヘッドライトが照らす山林に、自動車が見えてきた。他社のカメラマンがいる。こういうときは気恥ずかしい。狙いが一緒だということがばれてしまう。彼は頭をかきながら「今日も曇っていてだめそうだよ」と、こちらのカメラマンに話しかけてきた。

 昼間、上木場地区の上流へ行ったことが一度だけある。
 林の中に入り、車1台がぎりぎり通れるだけの道を進んだ。「これではUターンもできないな」と思っていると、運転しているカメラマンが助手席のぼくに顔を向けて言った。
 「なんだか嫌な予感がする。戻ろうか」

 バックのままで100mも下がっただろうか。やっとUターンできる場所があり、車を下流に向けて上木場に戻ることにした。「手ぶらじゃ戻れないな」と、カメラマンがタバコの葉にこびり付いた火山灰を撮影しているとき、また火砕流が起こった。
 今までぼくらのいた場所だ。さっきの林道の奥から舞い上がった灰かぐらはモクモクとたくましく、ぼくらの真上に高く延びていった。見上げながら、「原爆のキノコ雲を下から見たら、こんな形に見えたのだろうか」と考えていた。
 「あのまま進んでいたら、灰まみれだったな」とカメラマンが言い、2人で顔を見合わせて笑った。この当時はまだ火砕流が来たら車の中か下に隠れれば大丈夫だと思っていたのだ。
 しかし、そうしていたら、「灰まみれ」どころではなかっただろう。ぼくら2人が、火砕流の最初の犠牲者になっていたはずだ。

 重い溶岩は当然川沿いに下ってくると思い込んでいた報道陣は、水無川沿いでは慎重に短時間で取材を終え、川よりはるかに高台の「定点」に戻って一息ついた。「定点は安全で、しかも火砕流を真正面から撮れる絶好の場所」と、誰もが考えていた。
 しかし、結果的にそれは火砕流のメカニズムを知らない無謀な思い込みだった。6月3日午後4時過ぎ、「定点」にいた報道関係者は全員が火砕流に呑み込まれてしまったのだ。

 ぼくは「6・3大火砕流」より前、「火砕流」と言うべきときに何度も「火石流(かせきりゅう)」と言い間違えた。「火砕流」はなじみのない火山用語だったので、つい「土石流」と混同してしまうのだ。
 同じ間違いをしている報道関係者は相当いた。言葉だけではなく、現実の火砕流にも、土石流と重ね合わせたイメージを勝手に抱いていた。この誤解が、「高台なら安全」という認識の誤りにつながった気がしてしかたがない。

「火砕流」とは? 

 普賢岳の火砕流は、溶岩が自ら崩落した衝撃で粉々に砕けていき、斜面を流れ下りながら内部の高温・高圧のガスを放出していく現象だ。九州大学島原地震火山観測所長の太田一也教授は、こう説明する。

 「ガスボンベを100本ほど結わえて、火をつけて山から放り投げたようなもんです。崩落しながら、どんどん爆発していくんです」

 火砕流が初めて発生した2日後。5月26日に水無川の最上流で砂防工事をしていた建設会社の作業員が、火砕流に巻き込まれたが、運よく腕に軽い火傷を負っただけですんだ。病院には報道陣が殺到した。そのとき、作業員は「熱くはなかった」と答えている。
 火傷した瞬間、熱さを感じないことはよくある。しかし、その取材に行った橋山義博記者は「あの言葉で『ああ、火砕流は熱くはないのか」と思った。あの新聞記事がみんなの頭にあって、どこかに油断が生まれたんじゃないか」と、今でも悔しがっている。

 火砕流にはさまざまな形態がある。
 たとえば、栓を開けたコーラの口を指で塞ぎ、思い切り振ったとしよう。ビンを真っ直ぐに立てて指を離せば、コーラは高く噴き上がる。しかしコーラはすぐに真下に落ちてくる。ビンを持つ手はびしょ濡れになるだろう。
 同じように、火口から噴出した火山灰や溶岩が、それほど高く上昇せずに高温のまま落下してきたらどうなるか。
 空から降り注ぐ高熱の火山灰で、家々は燃え、緑は焼き払われ、すべての生命は消える。これが一般的な火砕流で、とてつもない大災害となる。

 「6・3大火砕流」の直後、1991年6月7日から1週間続いたフィリピンのピナツボ火山の大噴火は「今世紀最大級」と言われた大規模なもので、噴き上げられた火砕流は火口から半径15km以上に及んだ。これは島原半島全域に匹敵する範囲で、364人が死亡している。
 日本では約30万~9万年前に、阿蘇山が数度にわたり大噴火を起こし、火砕流で九州北部のほぼ全域が燃え上がったことが、地層の炭化した樹木などから確認されている。熱雲は海を渡り、四国西部にも被害を与えたという。この一連の噴火で、阿蘇大カルデラが生まれたのである。

 こうした超大規模火砕流に比べれば、溶岩ドームの一部が崩落したために起こる普賢岳の火砕流は極めて小さいものだ。
 しかし、溶岩は斜面を下りながらどんどんガスを放出し、スピードを増していく。追い風を受ければ、熱風の到達距離はさらに延び、さらに悪いことに地形に関係なく進む。火砕流の本体は重い溶岩塊なので、マスコミの予想通り川に沿って流れたが、熱風は一直線に進んで「定点」を呑み込み、さらに下流の民家を焼いてから拡散した。
 犠牲者は溶岩の下敷きにはならなかったが、全身に大火傷を負い、肺の中まで焦がしてしまった。車は吹き飛ばされ、高熱でよじれ、ガソリンに引火して炎上した。車内に残った人ほど、遺体の損傷はひどかった。

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 惨事から1カ月後の7月3日。毎日新聞はどうして犠牲者を出してしまったのかを検証して報道している。

 記事によると、火砕流が初めて起きた翌日の5月25日、雲仙岳測候所に詰めていた記者から前線本部にファクスが届いた。測候所が発令した「臨時火山情報34号」だった。そこには、前日の「小噴火による溶岩崩落」が実は「小規模な火砕流だった」と書いてあった。
 これが、「火砕流」という言葉が世間に出た最初だった。
 この臨時火山情報の発令直後、測候所の上級官庁の気象庁は「突拍子もないことは起きないと思う。また、山火事も起きていないことから、それほど高温でもないようだ」と、臨時火山情報の中身を事実上修正するような会見をした。
 まもなく雲仙岳測候所も臨時火山情報の原文から、「時速100km内外」で「高速度」となっている部分を「これほどの速度を持っているとは思えない」と削除している。
 火山の専門家なら火砕流の恐ろしさは熟知している。
 そのため、パニックを恐れて訂正したのだが、現実には「火砕流」という言葉はまったく知られておらず、気象庁の言動はむしろ「火砕流はそれほど大したことではない」という印象を報道陣に与えてしまった。

防災と科学と報道

 大量犠牲が起きたもう1つの理由に、立ち入り規制と報道の自由の相剋がある。
 火砕流で作業員が軽い火傷を負った5月26日から、定点のある島原市上木場地区は避難が勧告されていた。国道57号から脇道に入り、真っ直ぐ西に斜面を登っていくと上木場の入口、筒野バス停前の交差点に差しかかる。
 ここには、必ず警察官が立っていた。

 ぼくが初めて上木場に行った5月27日、官に身元を問われた。「毎日新聞です」と答えると、「気を付けて」とすんなり通してくれた。
 ところが、次の日には「名刺を見せて」、さらに「身分証明書を出して」と、時間の経過とともにチェックは厳しくなっていった。
 ぼくは、入社直前の上野駅の火事で、販売店の男性が言った「規制を乗り越えても近付け」というアドバイスを思い出しながら、「取材に行くんです」と言って警官の規制を押し切った。ぼくは普通は行けない場所に行ける「特権」のようなものを感じ、内心「記者になってよかった」と喜んでいた。

 ところが、検証記事によると、太田一也教授は5月29日午前、「報道各社にも筒野バス停より上流には入らせないように」と市災害対策本部に警告していたのだ。
 この連絡はすぐに各社に伝わったが、実際には翌日もバス停から上に行くことはできた。毎日新聞の問い合わせに、市は「立ち入り禁止ではない。十分協力してやってくれという意味で、だめだということではない」と回答している。報道の自由に配慮したのだろう。
 当時の前線デスクは「規制は強制力を持ったものではなく、自粛してほしい、という趣旨」と理解した。

 あるカメラマンは「自分の身の安全基準を、消防団員の位置に置いていた。消防団員は市の災害対策本部を通して安全(危険)に関する情報を持っているからだ」と話している。
 一方、市の災対関係者は「消防団員にはない情報を知っている報道関係者が入っているから大丈夫だという意識があったようだ」と検証取材班に答えた。
 双方が、相手がいるということだけで「大丈夫」だろうと考えてしまっていた。

 犠牲者の中に、3人の外国人がいる。フランスの火山記録家クラフト夫妻と、案内役のアメリカ人火山学者ハリー・グリッケンさんだ。
 クラフト夫妻は耐火服に身を包んで、世界の火山の火口に迫り、自然のダイナミズムを記録してきた。グリッケンさんは東京都立大の講師で、山体崩壊などが専門の火山研究者だ。
 「6・3」から2年後、ぼくは島原市職員の内嶋善之助さんから1枚の写真を見せられた。
 場所は「定点」で、左端に耐火服姿のクラフト夫妻が写っていた。
 内嶋さんは仕事のかたわら演劇活動に打ち込んでおり、強烈なインパクトを受けた普賢岳災害をテーマにシナリオも書いている。写真はクラフト夫妻の資料を集めている間に市内の写真家、橋本恒さんから入手したものだという。内島さんは、その写真が写された時期を知りたがった。
 「うーん」と目を凝らした。そして、驚いた。クラフト夫妻のすぐ横に、ぼくが立っていた。若葉マークが貼られたぼくの車も写っている。クラフト夫妻とこんなすれ違いがあったことに、ぼくはまったく気付いていなかった。
 写真はぼくが島原に応援に行っていた91年5月27、28日の間であることは間違いない。

 火山の専門家も犠牲になったということは、普賢岳の火砕流の熱風は常識を超えるものだったのかもしれない。
 火砕流は大きな災害だが、あまり起こる現象ではない。これまでの研究は過去の堆積物の分析によるものが中心で、火山学者といえども目の前で火砕流を見たことはほとんどなかったのだ。
 「6・3」の前日の6月2日付け毎日新聞朝刊1面は、ビデオ映像を解析した結果、火砕流の時速は約200kmだと報じている。にもかかわらず、その翌日も「定点」にはいつも通りカメラマンが張っていた。午後4時、「正面」とも呼ばれていた「定点」は、文字通り火砕流の熱風を真正面から受けた。
 「6・3」は、火砕流の危険を訴えていたマスコミと火山学者から大量に犠牲を出すという、皮肉な痛ましい悲劇となってしまったのである。

(第2章 了)

雲仙記者青春記 第3章「警戒区域が設定され、1万人の被災者の長い生活が始まっていった」に続く

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