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『雲仙記者青春記』 2020年11月17日から公開を開始します。

記者になったばかりの新米が、突然の大災害に遭遇。1万人を超える避難住民が出ているのに、経験はゼロ。
新人記者が地元に住み込み、右往左往しながら、4年後に災害が終わるまで見届けた記録が、『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(ジャストシステム95年刊、絶版)だ。

1990年11月17日に噴火した長崎県雲仙・普賢岳は、翌年6月3日に大火砕流を起こし、43人が死亡した。このうち、報道関係者は20人に及ぶ。24歳だった筆者(私)は、交代していて、たまたま難を免れた。
自らも当事者となってしまった報道の内幕、長期の災害に立ち向かう市民の姿……。
28歳で書いた文章は今読むと、筆致が若すぎて、痛いくらいだ。しかし、嘘は一つもない。勤務先への忖度もない。

今は放送局に転職し、まもなく54歳になる私だが、この文章の中には、24~28歳の私がそのまま冷凍保存されている。
島原の人たちに、若い私はどれほどかわいがってもらっだろう? 亡くなってしまった恩人も、この文章の中では若々しく生きている。

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あす2020年11月17日は、噴火からちょうど30年。大火砕流30年は、来年の6月3日だ。
『雲仙記者日記』を、ネット上では『雲仙記者青春記』と改題し、全12章をひと月に2回、メモリアルデーの17日と3日に順次公開していくことにしたい。

※ 使用する普賢岳の写真は、畏友・西川清人(故人)さんの撮影。

【第1章】
1991年6月3日午後4時、火砕流が43人を襲った

【第2章】 
新人記者が出合った雲仙・普賢岳

【第3章】 
警戒区域が設定され、1万人の被災者の長い生活が始まっていった

【第4章】
1992年4月1日、島原前線本部がぼくの仕事場兼住居になった

【第5章】 
太田先生の終息発言と、火山学者たち

【第6章】 
1993年4月28日、立ち直りつつある島原を土石流が叩きのめした

【第7章】 
謎のボランティア騒動

【第8章】 
島原で出会ったジャーナリストたち

【第9章】 
1994年4月8日、牟田隊長事件

【第10章】
被災地に生きる

【第11章】 
1995年1月17日、阪神大震災が起きた

【第12章】 
1995年4月30日、故郷

【単行本 あとがき】
1995年6月3日から


番外編
「ヤマが、撮ってみろと言っているようなんだ」
西川清人さんの普賢岳



大火砕流 30年後の”あとがき”


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