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インド瞑想旅が私を変えた 3|世界の瞑想者による戦い

瞑想会場に着いたものの、予約したはずのテント(個室の宿)が建設中で、目を疑った私(第2話)。

多くのテントは屋根しかできていない。私たちがいる間には完成しないと覚悟してしまう状態である。

とはいえ、2週間あまりの間、朝早くから瞑想する生活。できれば会場内で泊まりたいところだ。

結局、Nさんと話し、ドミトリー(大部屋)に予約を変更した上で、何とか宿を確保することにした。

だが、私たちは、世界中の瞑想者による熾烈な戦いに巻き込まれることとなる。それは、カオスと呼ぶのにふさわしい状況だった。 


私が予約していた宿

瞑想会場の宿は、主に次の3種類あるはずだった。

①ドミトリー(大部屋、バス・トイレ共同)
②スタンダードなテント(個室、エアコンなし)
③デラックスなテント(個室、エアコンあり)

①が一番安く、③が一番高い。だが、②も③も建設中なのが今の状況だ。

私は②のテントを二人部屋で予約していた。そのルームメイトがNさんである。

今の私は、経済的にそれほど余裕はない。元々は一番安いドミトリーにするか、迷っていた。

最終的にテントにしたのは、2週間あまりという長い時を瞑想三昧で過ごすのに、少しでも静かな環境が良かったからだ。私なりに奮発したのである。

だが、そのささやかな願いは、あっさり打ち砕かれることになった。

宿が建っていないという切迫した状況を前に、そのことを哀しむ余裕はない。前に進むしかなかったのである。

喧騒の渦の中で

17時頃。式典が終わり、私はNさんと一緒に総合受付へ向かった。歩いて10分ほどのところである。

受付で予約変更を申し出て、移動先のドミトリーを指定してもらう。そこで空いているベッドを探す。

私たちは、そういう手続きを想像していた。

だが、受付がある広場に着くと、世界中から集まった瞑想者が宿を求めて右往左往していて、立錐の余地もない。喧騒の渦という言葉がぴったりだ。

人波をかき分けるようにして受付に向かおうとするが、なかなか辿り着けない。何とか列らしきものに並んでも、次から次へと割り込まれる。

「もう嫌だー」とNさんが叫ぶ。

私は私で、「瞑想者でも、こんなことになるのか」と驚きながら見ていた。

そもそも、受付が機能しているのかも分からない。「ここに並んでいても埒が明かないのではないか」と不安になるほど、動きがないのだ。

そうこうしている間に、日が少しずつ沈んでいく。私は、ずっと気になっていたことがあった。

日本人の敗北

私たちは、12時頃この会場に着いた。以来、スーツケースをバス停の近くに置きっぱなしだったのだ。

ある日本人の教師の方が見てくれてはいたが、暗くなる前に引き取るようにと言われていた。

時計を見ると、まもなく日没の時間である。私は、矢も盾もたまらなくなった。

「スーツケース、取ってくる!」

Nさんにそう言って、走ってバス停に向かった。

到着すると、辺りは街灯も少なく、すでに薄暗い。無事スーツケースを見つけたが、Nさんのはこれで合っているのか、少し自信がない。

困っていると、私を呼ぶ声がする。Y先生だ。

「もう受付はしないで、空いているベッドを直接確保するしかないみたいです。一緒に行きましょう」

と言う。多くの人がベッドを勝手に取ってしまっていて、もはや主催者にはコントロールできない状態のようだ。要は早い者勝ちである。

慌ててスーツケースを引きずりながら戻り、Nさんに伝えると、「そうなの?」と怪訝な顔をしている。正直なところ、私も腑に落ちていない。

「列に並ぶ日本人」が敗北したような、釈然としない気持ちだ。

疑問を抱えながらも、先生たちについて行くと、すでに残りのベッドはあと少ししかなかった。私たちは最後の方だったのである。

それでも、日本人男性に比べると恵まれていた。

確保したはずのベッドが知らぬ間に奪われたり、「ここはインド人の女学生が来るから」と追い出され、30分も離れた棟に移動したりしたという。

彼らのベッド争奪戦は、夜の12時過ぎまで続いた。

過酷な日々のはじまり

私が落ち着いたのは、本来、インド人の学生を泊めるために用意された大部屋である。

同じ大部屋でも、もともとドミトリーとして用意されていた部屋とは、全然違う。

本来のドミトリーは、一段ベッドで、専用の荷物置き場もある。だが、もっと前の日に着いていた人たちに確保され、すでに残りはなかった。

私たちの部屋は、軍隊のような狭い二段ベッドが所狭しと並び、薄暗い。1部屋に100名以上が詰め込まれ、荷物置き場もない。

結局、このタイプの部屋に、ドミトリーを予約した人も、テントを予約した人も、皆まとめて収容されることになった。

少しでも静かな環境を求めて、テントを予約していた私。だが、結局、ドミトリー以上に騒がしい環境で、寝泊まりすることになった。

しかも、そのような部屋で、思いがけず、世界中の人々と共同生活を送ることになったのである。

それは、過酷な日々のはじまりだった。

つづく

写真(敬称略):
三浦達哉(2枚目、4枚目)

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★「新しい自分になりたい」と追い詰められた42歳の私が、瞑想やアーユルヴェーダなど、心と身体と魂の浄化に励んだら、人生が変わっていった話


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