インド瞑想旅が私を変えた 5|闇が光に転じる体験
静かに瞑想三昧の日々を送るつもりが、真逆の環境で世界中の人たちと過ごすことになった私(第4話)
軍隊のような狭苦しい二段ベッドに、100名以上が詰め込まれた、薄暗い部屋。常に喧騒の中での生活。
心静かに過ごすはずの瞑想会場でも、座椅子や場所の争奪戦に巻き込まれた。
だが、瞑想を続ける中で、次第に闇が光に転じる体験をすることになる。
一方、同じ頃、日本では大きな災害や事故が勃発していた。
それに呼応するかのように、この地でも、日本人に次々と災難が降りかかることになる。
瞑想会場で過ごす正月
私が滞在していたのは、ハイデラバードという大きな都市の郊外にある、広大な瞑想会場だ。
周囲には何もない。期間中に敷地の外に出ることは一度もなかった。
到着したのは12月29日。すぐに新しい年がやってきたが、正月感はまるでない。同じ環境で、変化のない日々を過ごしているからだ。
体調や気分により休むことは時々あるが、基本的には、この生活を淡々と2週間ほど続ける。
正月はおろか、日にちの感覚すらなくなる日々。
日常を離れて、長い瞑想を日に何度も行う生活を送ることで、根深いストレスや疲れが取れていく。
神道に例えるなら、自分に降り積もった穢れを祓う時間と言えるのかもしれない。
この時間を過ごすことで、本来の純粋な自分を取り戻すことができる。瞑想も深くなっていく。
すると、今まで気になっていたことが、自然と気にならなくなる。努力することなく、穏やかで無邪気な自分に戻っていくのだ。
その結果、自ずから周りも変わってくる。
私はこの効果を、まずは二段ベッドの部屋で感じることになった。
闇が光に転じる体験
初日にこの部屋に着いた時、私は下のベッドの二人組に片言の英語で挨拶した。だが、一瞬目は合ったものの、反応はない。
以来、二人のベッドの間にある階段を毎日上り下りしているのに、全く交流はなかった。
階段の下に置いたはずの私の靴が、いつの間にか無くなっていることもよくあった。
二人の靴に押し出され、ベッドの下にバラバラになっているのだ。初めの頃は冷たいと感じていた。
ところが、瞑想で深い体験をした後の元日。
ベッドの階段を降りると、私の靴が履きやすい場所に揃えて置いてある。
驚いていると、二人が私の方を見てニコニコ笑っている。私が来るのを待っていたようだ。
「お名前は何て言うの?」
「私たちはマリアとローラ」
「どこから来たの?」
そう話しかけてきてくれた。まるで別人である。
私は嬉しさのあまり、
「ありがとう!あなたたちと話すことができて、とても嬉しい!」
そう何度も言って、ベッドを後にした。
「二人が冷たかったのは、私がこの環境を受け入れていなかったからだ」
私はそう思った。
自分が良い状態なら、人は本来の姿を見せてくれる。頭ではなく、身体全体でそう感じたのだ。
私はこの先も同じような体験をすることになる。
だが、過酷なことも引き続き起こっていた。
災難続きの日本人
その日の夜。友人たちから届いたメッセージを読んで、能登で大地震が起きたことを知った。
この地に来て、まだ4日しか経っていない。
それなのに、日常を離れ、瞑想三昧の生活をする私には、あまりにも遠い国の出来事に感じる。それは、翌日に羽田空港で起きた事故も同じだった。
だが、ここでも日本人に次々と災難が降りかかる。まるで荒ぶる日本に呼応するかのように。
*****
ある日。Nさんがベッドに戻ってきた。急病人が出て、新型コロナの検査をして来たのだという。
Nさんは看護師だ。この後も何度か検査などに駆り出されることになる。
同じ頃、症状が悪化した別の方が、救急車で運ばれた。
さらに、日増しに発熱する日本人が増えていった。先生たちが毎日のように解熱剤を配り歩く。
ここに来ている人たちは、アーユルヴェーダを生活に取り入れ、普段は西洋の薬をあまり飲まないという方が多い。
だが、100名以上が詰め込まれた、狭く過密な部屋に泊まる身としては、そうも言っていられない。
間違えると集団感染の危険がある。すぐに治す必要があるのだ。
それに、飲み水も食べ物も外に出なければ手に入らない。安心して寝込むわけにもいかないのである。
数日後には、別の方が転んで頭を強く打ち、救急車で運ばれた。
さらに、その数日後には、敷地内で交通事故に遭った方が、救急車で運ばれることになる。
「サバイバル」という言葉がぴったりの毎日。
この先も、私は光と闇を代わる代わる体験することになる。
つづく
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★「新しい自分になりたい」と追い詰められた42歳の私が、瞑想やアーユルヴェーダなど、心と身体と魂の浄化に励んだら、人生が変わっていった話
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