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【エッセイ】読むこと・聴くこと

 私はここ9ヶ月くらい文楽や能狂言を観てきたのですが、今日は、最近気がついたことをメモに残してみたいと思います。

 文楽を例にあげてみたいと思います。文楽を観るとき、プログラムを購入すると、たいてい「床本」がついて来ます。床本とは、太夫が語る台本をまとめたものです。

 初心者であることもあってか、私は文楽の上演中、床本を見ながら・繰りながら、時には字幕を追いながら、ストーリーを追うことが多いように思います。
 しかしながら、文楽に関わる人が書いた本を読んだり、インターネットで文楽の情報を集めたりすると、「文楽は聴くもの」という言葉に出会うことがあります。太夫の語りを聞いて下さい、三味線の音を聞いて下さい、もっと人形の動きを見て下さい、ということだと思います。
 実際、劇場で周囲を見回すと、耳で聞いて、(文字ではなく)舞台を目で見て、時には笑い声をあげながら、楽しんでいる人の多いこと!

 私も、そうした気づきに遭遇すると、一旦は反省し、床本を置いて、太夫の語りからストーリーを追う形を取ります。しかし、注意深くないこともあって、ふと別のことを考えてしまい、歯抜けのようになることがあるのです。そして、大まかなストーリーは追えるのですが、肝心要のところを聞き逃したのではないか、見逃したのではないか、と不安な気持ちになるのです。お金がかかっているということもあるでしょうか。何たるせせこましさ!

 そして、ここからが書きたいことのポイントの一つなのですが、私は、仕事の疲れが溜まっているときなど、太夫の声や三味線の音を聞きながら、眠ってしまうことがあります。特に、人形やストーリーの動きが小さい場面でしょうか。難しい本を読み始めた時のように、睡魔に襲われてしまいます。

 「慣れ」の問題もあるでしょうが、人間のタイプの問題もあるように、私は思います。
 私は、子どものときから、映像をみたり、本を読んだり、目で情報を得ることが多かったように思います。あまり、音楽などを聴くタイプではありませんでした。学校の授業で、先生の話も聞くのですが、板書を書き写し、それをもとに復習したり、書き出して記憶(暗記)することが多かったようにも思います。

 これは落語や能狂言を鑑賞するときにもつながります。(そして、美術館で説明書を読むことにもつながります。)もう少し、書きとめられた文字ではなく、その場限りの声や音(美術館なら色彩など)に感性を傾け、鑑賞を楽しむことが出来たらなぁ、と思うのです。識字率が現代よりももっと低かった時代には、人はもっと耳から知識や情報を得ていたのではないかと想像したりもします。

 そして、更にはという話になるのですが、家で事前にあらすじをおさえて行って鑑賞することもあります。しかし、ここは私の個性ですが、私は何より作品のストーリーを追うのが好きで、ストーリーを事前に押さえていると、こうなって、次はああなって、と楽しみが減ってしまうような時があるのです。何たることか!

 今年の10月末で、東京の国立劇場は建て替えのために一時閉場となります。「さよなら公演」と銘打った舞踊や音楽などの特集公演などもあり、私も、10月まで通えるものは通ってみるつもりです。
 その先のことですが、舞台鑑賞なども減るのではないかと思います。
 そんな方向性ですが、今回の気づきを踏まえて、一つ目標が出来ました。文字を追うのではなく、落語や文楽、能狂言などを耳で楽しむことが出来るようになることです。あまり聴くこともないのですが、長めのクラシック音楽なども聴いて楽しめたら嬉しいです。
 この目標がいつ達成出来るか。50歳になるか、60歳になるか分かりませんが、意識して行きたいと思います。

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