見出し画像

ルポ・河上徹太郎の「猟場」 川崎にあった昭和文士の社交場【文化の日スペシャル】

*河上徹太郎の川崎市の「猟場」を現地ルポしてきました。「文化の日」特別企画のつもりです。


戦前の「文学界」同人で、小林秀雄と並ぶ文芸批評の巨星だった河上徹太郎(1902ー1980)は、戦後、川崎市麻生区の片平(白鳥)に住んでいました。

(小林秀雄は知っていても、河上徹太郎を知らない人は多いかもしれませんね。いや、小林秀雄も、もうそんなに有名ではないかもしれません。それでちっとも構いませんが、いずれにせよ、ここでは2人を詳しく紹介するヒマはありません。)


河上徹太郎が住んでいたのは、私がいま住むところのすぐ近くです。

もっとも、河上自身はエッセーなどで「川崎市」や「片平」という言葉はあまり使っていません。

河上は、「都筑郡柿生村」という昔ながらの地名に愛着を示し、『都筑ヶ岡から』といったエッセー集も出しています。

いまも横浜市に都筑区というのがありますが、古代から明治までの武蔵国都筑郡は、いまの川崎市麻生区、横浜市青葉区、都筑区などを含んでいました。

河上は、佐藤春夫の「田園の憂鬱」が好きでした。いまは横浜市青葉区となった旧都筑郡中里村字「鉄(くろがね)」が、その小説の舞台です。

その「鉄」と、川崎市麻生区になった「柿生」を包含する、かつての「都筑郡」の空間を、河上は愛したのでした。

片平もかつて柿生村の一部であり、片平という地名はいまも残っていますが、「柿生」は小田急の駅名として残るだけで、いまは行政区の地名としては消えてしまいました。



河上は、この「都筑郡柿生村」で、狩猟を楽しんでいました。

それについては、以前noteに書いたことがあります。


現横浜市青葉区鉄には、「田園の憂鬱」の文学碑があります。

だから片平の、河上が住み、狩猟を楽しんだあたりにも、文学碑を建てればどうかと私は川崎市に提案しました。

それを書いたときは、河上邸が実際にどこにあったかを知らなかったのですが、その後、片平を散策して、それらしいところを探し当てました。


この河上邸には、昭和の作家や編集者、文化人たちが訪ねて来、多くは宿泊して、このあたりの自然を楽しみました。河上の猟場は、昭和の文人の社交場でもあったのです。

庄野潤三、井伏鱒二、吉田健一、石川淳や、伊藤整の息子たちと猟に興じたことを、河上はエッセーに書いています。


「石川淳も来たことがある。(中略)彼は俺は何もお前さんが小綬鶏を腰へぶら下げた所を見に来たんじゃないぞ、撃ち落とす所を見に来たんだ、と怒鳴った。しかしそれは無理というものである。」(河上「私の猟」)


久保田万太郎は、昭和24年、河上の家に泊まった時の句を発表しています。


「某日、小田急柿生といふ駅にて下車
 河上徹太郎を訪ねんとなり

 七時まだ日の落ちきらず柿若葉」(久保田万太郎「句集流寓抄」)


それは、戦後、1970年代初めくらいまでの話です。渋谷益左右の『麻生区の文学鑑賞』によれば、他に、三好達治、巌谷大四、中里恒子、太宰治、阿部昭、石川桂郎などが訪ねてきていました。



それにしても、現在の片平の様子からは、ほんの50年前まで、このあたりで狩猟をやっていたというのが信じられません。

いまは、小田急多摩線沿線の、閑静な住宅街です。多摩線の1974年の開業にともなう開発で、このあたりの環境が一変したのでしょう。

多摩線(新百合ヶ丘~唐木田)は現在、首都圏の「静かさ・治安が良い沿線」ランキングで、1位になったりしています(2021年、大東建託調査)。


画像1


当時、狩猟期は11月から半年、11月1日が「初猟」でした。


「初猟のことを戦前の人はハツリョウと呼び、戦後派はショリョウと発音する。時期も違った。戦前は十月十五日で、戦後は十一月一日である。」(河上「初猟」)


50年前の今ごろは、待ちかねたように、このあたりに猟銃を携えた人たちが多く集まっていたはずです。日々、銃声が響いていたことでしょう。

河上も、猟期のたびに200発くらい撃つ、しかし自分は少ない方だ、とエッセーに書いています。

主な獲物は小綬鶏(こじゅけい)でした。キジの一種で、もともとはペットとして台湾から輸入されましたが、狩猟用として1919年に東京・神奈川で放鳥された、とwikipedia「小綬鶏」にあります。


「神奈川県柿生村という、小綬鶏の猟場のまん中みたいな所に住んでいる私は、誰にも構わず、好きな時に好きなだけ猟がしていられる」(河上「私の猟」)

「縁側で銃をこめて一歩踏み出すともう猟場である。(中略)自分の猟場を持っているイギリスの貴族みたいな贅沢さである。」(河上「多摩の丘から)


たまに人がいるので気をつけて撃っている、とも書いていましたが、どんな環境だったのでしょうか。

下の写真は、小田急多摩線「五月台」駅の近くにある、白鳥神社です。河上家の氏神でもありました。


「私の氏神はすぐ半町程上の丘の上にあるが、数百年たった松や杉に囲まれ、その名は白鳥神社という。」(河上「都築ヶ丘の風物」)


画像2


河上の家は、白鳥神社から、片平川の方に、少し下ったところにありました。

片平川と並行する街道(現・尻手黒川道路)から、河上の家があったところを通り、白鳥神社に通じる細道があります。それは、白鳥神社の参道です。


画像3


その細道の周囲は、昼なお暗い感じの竹林で、河上が鉄砲を撃っていた頃のなごりを、いまも感じさせます。


画像4


この小道、そして自宅から見える秋の風景を、河上はこう書いています。


「下の街道からうちまで、雑木林の中の小径を、濡れた落葉を踏みながら登る(中略)うちから眺めると、近景には私の村と隣の村を仕切る低い丘一帯に、今踏んだのと同じ枯葉がまだ枝についていて、この辺精一杯の「紅葉」になっている。薄の白い穂がそれを縁取り、いつもながら寒々しい武蔵野の晩秋である。晴れた日には、遠景に丹沢山塊の紺碧がその上幅一寸に聳えている。首をかしげたその最も秀でた頂きを蛭ヶ嶽という。その首の根っこに白く富士山が盛り上がっている。」(河上徹太郎「私の自画像」)


しかし、いまはその小道に、銃猟禁止の表示がありました。現在、川崎市全域が禁猟区です。


画像5


ちなみに、河上は自分の家の近くに「吾妻」という地名があり、ここが古事記の「吾妻」と関連があってもおかしくない、と書いていました。


「ここいらの小字を吾妻と聞かされると、私はすぐ大和武尊と結びつけるのである。そういえば尊の東征路が相模原からこの辺を通ったとしても不思議はないのである。」(河上「都筑ヶ丘の風物」)        


白鳥神社の祭神が日本武尊なので、上の記述になったのかもしれません。

古事記では、東国平定を終えたヤマトタケルが、武蔵と相模の境で、亡くなった妻(オトタチバナヒメ)を慕って「ああ我が妻よ」と言う。だから、東国を「あづま(吾妻)」と言うようになった、というエピソードです。

それは足柄山のこととされますが、この片平にも、足柄山(現在も狩猟区がある)と似たところがあったでしょう。

片平の「吾妻」という地名は、現在の行政区から消えていますが、「白鳥吾妻公園」という小さな公園の名前に、わずかに残っていました。


画像6


狩猟の倫理の問題


柿生で、いつから狩猟ができなくなったのか、その経緯や、河上の反応については、資料がありませんでした。

少なくとも1972年に刊行した本(『自然のなかの私』)では、狩猟をしていることが書かれています。おそらく、その1972年から、小田急多摩線が開業した1974年のあいだに、禁猟となったのではないでしょうか。これについては、調べがつきしだい、また書きたいと思います。


狩猟の問題は、動物・環境保護問題とともに、銃刀規制など公安的な問題もからむので、なかなか複雑だと思います。

いずれにせよ、はっきりしているのは、以下の引用で述べられているように、この間に日本の狩猟者が激減し、とくに若者の狩猟者がいなくなったことです。

「地域の過疎・高齢化、趣味の多様化による若者たちの狩猟離れ、諸外国に比べても異常なほどに強化されてきた銃規制などにより、狩猟者の減少は著しく、狩猟圧は大きく低下した。この40年間で狩猟者数は全国で64%も激減し、年齢構成をみれば60才以上が6割を超える。これは近いうちに絶滅することが必定の『個体群』といっても過言ではない。」(山中正実「ケモノたちの大逆襲の時代の選択肢」『ワイルドライフ・フォーラム』2014、今里滋「わが国における狩猟・獣害対策の歴史と課題」からの引用)


もう1つの問題、狩猟の倫理に関して、付け加えておきます。

食料を得るためではなく、害獣を除く目的でもなく、スポーツとして野鳥を殺すことは、倫理的に許されるのでしょうか。

河上徹太郎が柿生で狩猟をしていたころから、それに対する非難はありました。だから、河上も、いろいろ反論しています。

河上は、それが残酷であるのを一応認めた上で、自分の美学からさまざまなルール(止まっている鳥は撃たない、など)を決めていました。

そもそも柿生のあたりは、昔から「スポーツとしての狩猟」の場所で、古くは源頼朝が鷹狩りをした伝承もあります。(「鷹狩り」とは、鷹を狩るのではなく、訓練された鷹を使って、キジなどを狩らせる、つまり鷹を猟犬のように使って野鳥を獲る武士のスポーツです)

それでも、今では、当時以上の抵抗があるのではないでしょうか。私自身が野鳥好きですから、河上の論理にすんなり納得できるわけではありません。

一方、何十万年も狩猟で生き延びてきた人類に、「狩猟本能」が残っているのは確かだと思います。

私もシューティングゲームの大ファンですし、片平に隣接する稲城市には、有名なサバゲーの屋外フィールドがあります。

それに、例えば、狩猟がダメなら、釣りはどうなのか、といった問題もあるでしょう。

この問題についても、河上の論理を参照しながら、いつか改めて考えてみたいと思います。


<おまけ>


YouTubeで見つけた「小林秀雄と河上徹太郎の最期の対談」。


2人は同い年(1902年生まれ)。この時点で、60年来の友人でした。酒が入って、べらんめえ調でからむ小林に対し、真面目に返す河上が印象的です。

小林は酒癖が悪く、すぐからむことで知られていました。対照的に、酒を飲んでも乱れない河上を、「完璧な奴」だと、川口松太郎も褒めていました。

「(河上は)いくら飲んでも己を失う事なく酒の上で乱に及ぶ事なぞないばかりか酒が入るといよいよ完全さを発揮する。」(河上『自然のなかの私』跋文 川口松太郎「完璧な奴」)

それでも、年齢のせいか、この対談では、後半は河上に疲れが見えます。

「酒癖」以外でも、レトリックに長けた小林の饒舌を、河上がガッチリと受けとめて論理で返す、といった応酬で、2人の特徴がよく出ています。

1時間ほどの対談ですが、最後になるにつれて、「これで今生の別れかな」「俺を理解してるのはお前だけだ」といった、長年の友情がにじむ言葉に、しみじみしてきます。

小林は、河上に向かって、

「お前は本当の批評家だ。お前に比べれば俺はただの乱暴者だ」

と言い、河上を感激させます。

しかし、小林はまた、

「でも、俺の文章は鰻屋の女将も読んでいるが、お前のは読まれていない。なぜだと思うか? 難しいからだ」

と、何度もからみます。

親友の河上を、もっと世の中に認めさせたかった、という小林の思いが伝わってきます。

しかし、河上が先に帰った後、小林は、

「河上は年を取ったな。辛いな。あれは来年、死ぬな」

と言い、「辛いな、辛いな」と繰り返します。

不確かですが、この対談は1979年のものだそうで、そうであれば、実際に河上は翌1980年、78歳で亡くなりました。小林は1983年に亡くなりました。



(片平の写真はいずれも10月28日撮影)


<参考>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?