見出し画像

政治左翼と文化左翼 アベガーに堕した日本の左翼を「区別」しよう

アベガーとか、国葬反対とか、で過激化する人たちは「左翼」と呼ばれるし、私もそう呼ぶけど、あれは「本当の左翼」ではないんだよなあ、と心の中ではいつも思っている。

(念のために言えば、安倍晋三批判や国葬批判そのものは悪くない。必要以上にそれを言い立てている人、という意味だが、それがどういう人たちかは分かってもらえるだろう)

昔の左翼はもっとましだった。真面目に労働運動をやっていたのだ。


昔の左翼と今の左翼の違いは、「政治左翼」と「文化左翼」という言葉で区別されている。本当の左翼は「政治左翼」であって、「文化左翼」はインチキ左翼だ。

今の左翼は、70代の老人左翼も含めて、1960年代以降の「文化左翼」がほとんどなのである。

この「政治左翼」と「文化左翼」の違いを論じたのは、アメリカの代表的哲学者だったリチャード・ローティだ。つまり、この問題は、日本だけの問題ではなく、先進国に共通である。


ローティがそれを論じた「Achieving Our Country」(1998)という本は、『アメリカ未完のプロジェクト 20世紀アメリカにおける左翼思想』(晃洋書房 2000)という題で翻訳本が出ている。

だが、この本は残念ながら日本で話題にならなかった。アメリカにおけるほどローティが日本で有名でなかったこともあるし、以下に述べるように、「大学の左翼」を批判している本書は、まさに「大学左翼」(左翼系大学教授やその影響下にあるマスコミ)に牛耳られた日本の書評界では無視されても仕方がなかった。

それに、もともとは講演録なので原書ではまだわかりやすいが、翻訳の方は、訳文が硬くて読みにくい本になっている(それでも、仕方ないから、以下に引用する)。

ローティは2007年に亡くなったが、その議論は、トランプの登場を予言したとして最近も話題になった。「文化左翼」の蔓延こそが、リベラルへの人々の失望を招いたと思えるからだ。

日本で「政治左翼」「文化左翼」という言葉が通じないのは困るので、以下、この本の議論の概略を紹介しておきたい。


「文化左翼 cultural left」とは、マルクスとフロイトを合体させたというマルクーゼ、フロムなどのフランクフルト学派から、ポストモダン派、フーコーとかデリダとか、カルチュラル・スタディーズとかの、アレだ。

ローティは、それを「大学左翼」とも言う。実社会から生まれたというより、主に大学人が広めた左翼思想だからだ。マスコミ人もほとんど大卒なので、その影響をもろに受けている。(以下、太字は本文からの引用)


大学の左翼人は、新しい法律の提案に向けられるべきエネルギーを、国家の必要としているものとはかけ離れた話題の議論に費やしている。(p15)

大学の左翼は、アメリカに提案すべき計画を持っておらず、改革の必要性について合意を形成することによって完成される国家の未来像を持っていない。(p15)


彼らには愛国心がない。愛国心がないから、国をよくしたいとも思っていない。国防にも反対する。


アメリカ左翼が国家に誇りを持てないままでいるかぎり、アメリカには政治左翼はなく、文化左翼しか存在しないことになるだろう。(p41)


これは日本も同じだ。日本の左翼が愛国心を持たないかぎり、本当の左翼になれない。

政治左翼は経済問題に注力するが、文化左翼はそれ以外に注目する。


旧左翼の上からのイニシアティブが、貧困と失業によって辱められた人々を援助しようとしていたのに対して、60年代後の左翼の上からのイニシアティブは、経済的事情とは異なる理由から辱められている人々を援助するようになった。(p86)


文化左翼は、貧困や失業などの公共的でマクロな問題より、もっと私的な領域でのミクロな抑圧に関心を持つ。映画の中の人種差別、家庭での性差別、会社でのゲイ差別、学校でのイジメ、セクハラ、パワハラ、あらゆる「何とかハラ」の類だ。

ローティも同意するように、そうした問題が重要でないわけではない。しかし、それらの問題と、より公共的な問題を混同すべきではない。サディズムとは何かを論じる前に、失業や金融政策を論じるべきではないか。

たぶん、イジメや差別は、人間が品種改良されないかぎり、究極的には、完全に解決しないだろう。

それらを少しずつでも解決するために前進するのはいい。

しかし、その問題と、現にいま失業してカネに困っている人がたくさんいる問題とで、優先順位を間違えるべきではない、というのが、ローティの主張だ。そのとおりではなかろうか。

安倍晋三氏の国葬を支持する人に若い人が多いのは、アベノミクスで就職率が上がったことを覚えているからだという。それを上の世代は嘲笑するが、若い人のほうが、問題の優先順位をわかっていると思う。


文化左翼は、「人民による革命」に幻想を持っているので、国家権力や体制を嫌悪する。それが、彼らが永遠に愛国心を持てない理由でもある。


文化左翼は、いまだに「人民」という天使の力によって救出されるのを夢みている。その力に対応する悪魔的力が「権力」「体制」と呼ばれる力である 。(p109)


ミクロな抑圧、イジメや差別や「生きがたさ」がなくなることはないので、それを究極的には政治権力のせいだという文化左翼は、永遠に権力や体制を非難していられる。

しかし、左翼のやるべきなのは、非難ではなく、現実を変えることだ(似たようなことは、確かマルクスさんも言っていた)。権力や体制をどう変えるべきか具体的に考え、必要あればその中に入って、それを現実に変えていくことである。

ローティが言うように、左翼は、右翼と違い、過去や伝統社会にパラダイスを措定せず、現在の社会は「未完成」であると考える。改良を繰り返してより良い未来を目指す立場だ。


左翼は、市場経済の枠内の中で1つ1つ改良していく仕事に戻るべきである。
(p112)

いつの日か、1つ1つの改良の累積が革命的変化をもたらしていることがわかるだろう。(p113)


日本の左翼も、ローティの言うとおり、60年代の革命思想の流行と、文化左翼の蔓延の中で貶められてきた、改良主義的な政治左翼に立ち戻るべきだ。

たぶん、そう考えている人は多いと思う。

それがわからないのは、「文化左翼」しか左翼を知らない、過激派老人と左翼マスコミだけなのである。



<参考>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?