落ちぶれたら、相手にされない ーー「ウクライナ」とブルースから学ぶ人生
法哲学者(東大名誉教授)の井上達夫が、ウクライナ戦争について、「戦う意思を示さない国は、他の国も助けようと思わない」という真理を語っていた。
それは、昨日のnoteに書きました。
ウクライナは、自国のために命を賭けて戦う意思を示したから、他国も、ウクライナを救おうという気になった。
もしウクライナ人にそういう愛国心がなければ、他国はウクライナを見捨てただろう、と。
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今回の戦争でこういうことを言うのは、井上だけでなく、欧米でも言われているようです。
「天は、自ら助くる者を助く Heaven helps those who help themselves.」
の哲理ですね。
井上の話を聞きながら、確かにそれは、今回のウクライナ戦争に限らず、人生全般に通じることだなあ、と思ったのでした。
ただ、私が井上の話を聞いて、最初に思い浮かべたのは、日本でも明治以来有名なこのサミュエル・スマイルズの言葉ではなく、ブルースの名曲でした。
Nobody Knows You When You Are Down and Out
「お前が落ちぶれたら、世間はお前を相手にしない」
という1920年代のヒット曲ですね。その後も、エリック・クラプトンなどによって歌い継がれました。
この曲については、以下の山本剛さんのnoteの記事が詳しいです。
ジョン・レノンも、Nobody Loves Youと歌詞を変えたバージョンを作っていますね。
私は、この曲を、高校の音楽の授業で学びました(いい先生だったのです)。
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このブルースの名曲で歌われているのは、
「カネがなくなれば、人は離れていく」
つまり、「銭の切れ目が縁の切れ目」ですね。
しかし、人の落ちぶれ方はさまざまで、貧乏になることもあれば、仕事で失敗したり、悪評で社会的に転落したり、地位から失脚したり、いろいろある。
「落ちぶれたら、相手にされなくなる」
という経験は、私の人生の中でも、何度もありました。
私が失敗したり、失脚したりすると、昨日までは笑顔で接してくれていた人が、次の日から自分を無視するようなる。
友達が離れていく、世間に相手にされなくなる、「透明人間」にされる。そういう辛さは、経験しないとわかりません。(そして、自分が経験したようなことを、自分が他人にしてしまったこともあるでしょう)
そういう経験をするたびに、私の頭の中では、この Nobody Knows You が流れます。
「落ちぶれたら、相手にされなくなる。世間はそういうものだ」と。
それは、諦念とともに、ある種の勇気も、もたらすのですね。だから、ヒットして、歌い継がれる古典になった。
これが人生だ。誰もが経験する試練だ。だから、これを乗り越えよう、と。
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井上達夫がウクライナ戦争について言った、
「戦う意思がないと、相手にされない」
と、
「カネがないと、相手にされない」
では、意味が違うようですが、本質的な部分で同じだと思えます。
闘志もカネも、人を外に向かって「輝かせる」もの、と言えるでしょう。人は、その「輝き」に惹かれるようです。
だから、カネがなくても、生きる闘志を見せれば、人は近づいてくる。(人生は好転する)
不遇だからと、暗い顔をしていては、ますます世間から相手にされなくなる。(ますます不幸になる)
こういうことは、私が偉そうに言うまでもない、みんな知っている、人生やビジネスの真理でしょう。
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そういう意味で、「闘志」と「カネ」は互換性(?)がある、と。
それで思ったのは、日本の将来です。
日本は、国民に愛国心がない代わりに、「戦力」をカネで買ってきた。
なんだかんだ言って、日本が世界から「相手にされたきた」「一目置かれてきた」のは、カネがあったからです。
東南アジアで日本の旅行者がチヤホヤされたのも、カネを持っていると思われたからです。
でも、エコノミストによると、日本はこれからどんどん貧しくなる。野口悠紀雄によれば、一人当たりGDPで韓国に追い抜かれるのは時間の問題で、そのあと、マレーシアやインドネシアに抜かれるという。
そうなると、日本はどうなるんでしょうね。
闘志もなく、カネもなくなったら。
「落ちぶれると、相手にされなくなる」
というのは、日本の未来のように思えてくるんですね。
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