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小沢一郎「政権交代」主義の終わり 公明・共産が「付いてくる」問題

小沢一郎が、泉・立憲民主党代表の政権交代への消極姿勢を批判した。


立憲民主党の小沢一郎衆議院議員は、泉代表が先に今後5年で政権交代を目指す考えを示したことについて、次の衆議院選挙で目指すべきだとして批判しました。(NHKニュース 11月7日)


1990年代以来、小沢一郎の「政権交代」主義は、政治に強い「方向感」を与えてきた。

私がマスコミにいたときも、「政権交代」は、つねに日本の政治が目指すべきもの、と意識されていた。

われわれの世代は、「自民党の一党独裁」を、日本の後進性の象徴として、1980年代のジャパン・バッシングのときにバカにされたのを覚えている。そのときに、鮮やかに処方箋を書いたように見えたのが小沢一郎だった。


だが、小沢の「政権交代」は、もう説得力を失ったように思う。

この30年あまりを振り返って、そう思わざるを得ないではないか。小沢の言うことを聞いて、よかったことがない。

それは、たんに民主党政権の「悪夢」のことだけを言っているのではない。


私は、日本の「政権交代」をむなしくしているのは、公明党と共産党の存在だと思う。

つまり、政権交代しても、公明党か共産党のどっちかが「付いてくる」。

自民党には公明党が付いてきて、立民には共産が付いてくる。

それによって、たとえば「改憲」が永久にできない仕組みになっている。


この問題は、以前も書いたことがある。公明党は右のキンタマ、共産党は左のキンタマ、と。


公明党も、共産党も、存在の権利があるし、その随一の組織力で選挙に強いのは、実力である。文句は言えない。

しかし、単独で政権をとることがありえないその2党のせいで、政権交代で「政治が変わる」と思えない事態を招いている。

選挙のたびに、この2党が、与党・野党双方の「キャスティングボート」を握る。

この2党のために、日本政治の「実現可能域」が狭くなっている。政権交代によって期待される政治のダイナミズムが著しく制限されるのだ。

公明・共産が悪いというより、なにか日本の政治の構造的問題である。


小沢が泉に言いたいのは、選挙は「数」なのだから、共産党としっかり共闘しろ、ということだろう。

しかし、共産に借りをつくると、政権交代しても政治が変わらない、政権交代の意味がない、と思わせていることに、小沢は気づいているだろうか。


「公明・共産」が過剰代表され、それによって日本の政治が「民意」を忠実に反映できないようになっている。

ということに、気づいている政治学者は多いと思うし、私もプライベートでは聞いたことがある。

だが、彼らは、それをなかなか公に言わない。公明・共産がメディアで強い影響力をもっていることもあり、一種のタブーになっているのではないか。


この「公明・共産」問題が、問題のすべてと言いたいわけではない。

だが、小沢の生物学的寿命もそろそろ尽きるのだから、「政権交代主義」を清算するためにも、その議論は避けてとおれないと思う。



<参考>


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