「なんでも反対」党があってもいい 野党の2つの形
今回の選挙で、世代交代がある程度進み、左傾マスコミは面目を失い、「現実的」野党再編へ一歩を進めた、と喜んだのも束の間。
躍進した維新の会の顔ぶれや、立憲民主党の党首選に出そうな顔ぶれを見ていると、「これでいいのか」の感が深まってくる。
みんな、政治家というより、ビジネスマンか役人の顔をしている・・・。
しかし、流れは止まりそうにない。
国民民主党は、立憲民主党に「現実路線」への転換を求めている。共産党その他の「非現実的」野党は、いずれ「現実野党の仲間」から追放されそうだ。
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私は「政権交代」支持者であり、そのためには保守2大政党へ収斂していくのが望ましいと思っている。「高市新党」と「玉木新党」、というイメージを前に書いた。
しかし、その2大政党だけがあればそれでいいのか、と言えば、それも違う。
自民党のタカ派とハト派が分離して、2大政党化するのは、政権交代のためには都合がいい。しかし、それでは、自民党一党体制とどう違うのか、という疑問も湧く。
2大政党での政権交代が常態化すれば、腐敗が減り、政策で競争しあう効果が期待できるのは確かだと思う。
しかし、それが「本当に」我々が求めている政治だろうか?
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明治時代の初期には、「民権派」と「民衆派」という2つの野党があった。
一緒にして「自由民権運動」と呼ぶことがあるが、この2つは質的に違う、と稲田雅洋(東京外語大名誉教授、日本近代史)が論じている(「困民党の論理と行動」)。
ともに薩長藩閥専制政府に対抗したが、以下のように性格分けできる。
<民権派>近代化に賛成。新聞や政党で対抗。憲法草案
<民衆派>近代化に反対。一揆で対抗。秩父事件(武装蜂起)
たとえば、徴兵制について、民権派は国家のために必要だと賛成したが、民衆派は「兵隊に行くのは恐ろしい」と反対した。
義務教育について、民権派は「教育は大切だ」と賛成したが、民衆派は「百姓だけやっていて何が悪い。負担がふえるから嫌だ」と反対した。
最も典型的なのは土地所有をめぐる対立であり、近代的私有財産制を肯定する「民権派」と、耕作者の土地への愛着を優先すべきと考える「民衆派」は、実際に「豪農民権家」と「困民党(民衆派)」という形で武力衝突する。
(以上は稲田の議論を単純化したもの。実際は両者は混じりあっていた)
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「民権派」は、いわば「現実的」な野党だ。近代国家や資本主義を肯定し、「政策」で与党と対抗する。
「民衆派」は、「なんでも反対」の野党に見える。国家のことよりも、自分たちの生活がつつがなく継続することを為政者に求める。
「民権派」は、政権交代に備え、自らが政権を担う覚悟がある。
「民衆派」は、そんなこと考えない。ただ国家に、自分たちの暮らしを邪魔して欲しくない、と思うだけだ。
「民権派」は、あくまで国家体制の範囲内、政治の場で合法的に戦う。
「民衆派」は、いざとなれば「抵抗権」を発動し、非合法的戦いも厭わない。(ちなみに、ルソーなどは紹介されていたが、社会主義思想、マルクス主義が入ってくる前の時代である)
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「民権派」が「政策の戦い」を戦うとすれば、「民衆派」は「正義の戦い」を戦う。
いつの時代でも、民衆は、自分たちのために、正義の戦いを戦ってくれる「ヒーロー」を待望した。
今だって、政治家にそうしたヒーロー像を求めてもおかしくない。というか、我々が真に求めているのは、そういう政治家である。
憲法が出来、普通選挙が実現した現在は、明治の初めとは違う。民主主義のタテマエでは、我々民衆も為政者だ。「なんでも反対」はおかしい、となる。
そうは言っても、「現実的」野党ばかりでは、物足りなくはないか。
現実を無視しても、民衆の望みを権力にぶつける覚悟のある政治家が欲しくはないか。
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現代の「民衆派」、少なくともその候補者は、共産党、れいわ新撰組、社民党、あたりなのかもしれない。
共産党は2議席減らしたが、れいわは2議席増やした。つまり、この「民衆派」枠は、変化がないことになる。
公明党はどうなのだろう・・・。
立憲民主党には、「民権派」と「民衆派」が混じっていた。もっとも、朝日新聞や毎日新聞の代弁をするのが「民衆派」ではない。労組の代弁だけをするのも違う。同党の「民衆派」は原点を見失っており、いずれ「現実派」に「粛清」される運命だろう。
そうなれば、残る「民衆派」(共産、れいわ、社民、その他)は、10%くらいの議席か(ちゃんとは計算してないが)。
文字通りに「なんでも反対」がいいと思っているわけではないが、たとえば、資本主義に対して、天皇制に対して、日米同盟に対して、そのくらいの「反対派」はいてもいい。
というか、そのくらいの「非現実的」勢力は、いざという時の「民衆派」として、いてほしいと思うのだ。
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