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国葬問題:ジョージア大使の警世と「国家の品格」

駐日ジョージア大使、ティムラズ・レジャバ氏のツイートがバズっている。

国葬をめぐってメディアや日本の一部のオフィシャルからあれこれと発言が出ていることを残念に思います。それどころか、故人に対する目に余る言動に心を締め付けられております。 たったひとりでも国外からの来賓があるならば、国民が一丸となって対応することが日本の懐ではないのでしょうか。

すでに10万以上の「いいね」を集め、ニュースにもなった。


私も大使にまったく同感だ。

今月、日本は来賓を迎える立場だ。反対派は、問題の追及は国葬の後にやればいい。そして選挙で与党を負かせばいいのだ。

しかし、このツイートに対しても「ジョージア大使はネトウヨ」などの罵声とともに、理屈で反論しようとする左派が絶えない。

いや、理屈ではないんだ。それは「品格」の問題なんだ、となぜ分からないのか。

「品格」などというと、保守のモラルだと思われるかもしれない。

しかし、「品格」で第一に思い出されるのは、マッカーシズムの最中、赤狩りの過熱を止めた、有名なジョセフ・ウェルチ弁護士の言葉だ。

1954年の聴聞会で、ある若者の「アカ(commie 共産主義者)」疑惑を執拗に責め立てるマッカーシー上院議員に対して、ウェルチは怒りを込めて言った。

「この若者の未来を奪うのはやめましょうよ、上院議員。もう十分でしょう。あなたには品格(ディーセンシー)はないのですか?」

("Let us not assassinate this lad further, senator. You have done enough. Have you no sense of decency?")

このウェルチの言葉が全米で報じられ、マッカーシーは一気に人気を失う。イデオロギーを超えて、「品格(ディーセンシー)」という言葉が国民に響いたからだ。

これが赤狩りの幕引きのきっかけになったのは有名な話だ。この出来事と、「品格はないのですか?」という言葉は、米上院のホームページにも載っている。


政治問題を追及するのはいい。しかし、追及だけすればいいというものではない。「品格」を忘れてはならない。上院がそれをホームページに載せるのも、マッカーシズムの教訓として、政治家の心得として、ウェルチの言葉を心に刻むためだ。

ウェルチ発言以来、「品格」という言葉は、国や社会が間違った方向に過熱した際、繰り返し思い出される。

トム・ウルフの「虚栄のかがり火」は、ウォール街のエリートトレーダーを主人公にした小説だが、2000年に映画化された時、ウォール街の堕落した倫理に対して、モーガン・フリーマン扮する裁判官がやはり「品格を忘れるな」と警告する。もちろん、ウェルチの逸話を踏まえている。

アメリカの拝金主義は日本にも伝播して、2000年代初頭のトレーディングブームを引き起こしたが、その時に人々の心を捉えてミリオンセラーになったのが藤原正彦の『国家の品格』だ。

ディーセンシーは「良識」とも訳される。「品格」であれ、「良識」であれ、それは理屈や思想ではなく、人々が共通に持っているコモンセンス(基本的な倫理観)なのである。

統一教会問題や国葬問題で過熱するメディアや野党議員を見て、

「あなた方に品格はないのですか?」

というのがジョージア大使の言いたいことだろうし、大使の言葉に共感する国民の思いだろう。

マッカーシズムというのは「国家の弾圧」ではなかった。マッカーシーという反共の闘士が、政府・軍・エスタブリッシュメントと戦っている、という体だった。反権力を気取っていたのだ。彼に「アカ」と名指しされた者は社会的に制裁された。

やたら人を「ネトウヨ」とか「壺」とか呼ぶ反アベの闘士たちも、そろそろ自分たちの振る舞いが、人をやたら「アカ」呼ばわりしたマッカーシズムに似てきていることに気づいてほしい。

かつて右翼・反共主義者の暴走を止めた「品格を忘れるな」という警告を、いま左派メディアや「リベラル」が受けていることに気づいてほしい。

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