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鳥越俊太郎の「非戦」ーー正義より平和を、の思想

鳥越俊太郎の名前を久しぶりに見て、懐かしくなった。

鳥越は、ゼレンスキーの国会演説に、猛反対している。

「どんなに美しい言葉を使っても所詮紛争の当事者だ。」

「国民は許さない」

などと、ツイートした。

みんな忘れている、というか、そもそも知らないかもしれないがーーというのも、この鳥越のツイートを取り上げる記事やコメントに言及がないからだがーー鳥越は一応「国際派ジャーナリスト」だ。

毎日新聞では外信部にいて、中東特派員もやっている。

鳥越は、今度の戦争で、当然マスコミからお座敷がかかると期待していたが、さっぱり声がかからないので、しびれを切らして「大声」をあげたのかもしれない。

鳥越サン、でも、そりゃ仕方ないよ。あんたはもうバリバリの後期高齢者、82歳だからね。

村上春樹が「年寄りが勝手に始めた戦争」と言って、上念司に「プーチンはあなたより年下ですが」と突っ込まれていたが、鳥越はその村上春樹(73歳)より、さらに9歳年上だ。ちなみにプーチンは69歳。ゼレンスキーは44歳。

日本人の平均寿命を超えている、82歳の鳥越は、「ジャーナリスト」を名乗る現役の中では、田原総一朗(87歳)につぐくらいの「長老」だ。

あ、渡辺恒雄(95歳)って大物がいるけどね、って、お前ら引退しなさすぎだろう。

それはともかく、「所詮紛争の当事者」「国民が許さない」という言い方に、しみじみと懐かしさを感じた。

「戦後民主主義」やなあ、と。

今度の鳥越発言には批判が多い。「中身がない」「ウクライナ戦争の現実を知って発言しているのか」など。

それはそうだが、「戦後民主主義」って、そういうものなんですよ。

戦後民主主義を定義したような、1964年の丸山真男の有名な言葉がある。

「ぼくは、大日本帝国の『実在』よりも、戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」

鳥越とかは、こういう思想にバッチリ影響を受けた世代です。

バカにされてもいい、虚仮にされてもいい、というような、「カッコ悪いがカッコいい」みたいな、独特の美意識、倫理観を持った思想です。

「戦後民主主義」という思想は、「虚妄」であり、「虚仮の一念」なのだ。それでいーのだ、という天才バカボン主義なのだー。

それは、「正義より平和を」というモットーでも、言い表される。

戦後日本では、「正義」は一貫して人気がない。最近も「正義」は、「正義中毒」なんて、悪口の一部で使われる。

「正義」は「美しい言葉」で、一見カッコいいが、それに騙されてはいけない、と、戦後民主主義者は、脊髄反射的に思うわけです。

「正義」なんて、所詮、戦争への道だ、と。それより、カッコ悪くても、「平和」がいい、と。

これを、法哲学者の長尾龍一は「諦観的平和主義」と言った。

井上達夫が、名著「共生の作法」で、その立場を以下のように要約している。

この立場によれば、正義は闘争を解決する理念であるどころか、むしろ正義こそ闘争の原因であり、また妥協と互譲による闘争の解決を困難にするものなのである。
諦観的平和主義者に言わせるならば、二度の世界対戦を経、今また人類の存続を脅かす核戦争の危機を前にしている我々は、今こそ、正義の理念の主観的支配から脱却し、平和の理念に帰依しなければならない
「正義より平和を」という標語、あるいは「最も正しい戦争よりも、最も不正な平和を私は選ぶ」というキケロの有名な格言によって定式化されるこの立場は、法的安定性と正義を対立的に捉え(中略)根強く支持されている。(「共生の作法」p5)

この立場は、井上が言うように、キケロのようにレトリックとして使う場合は別として、「首尾一貫して準拠することの不可能な立場」だ。

「『正義より平和を』は、現状がいかに不正に感じられようと、実力によってそれを変更することをいかなる主体(個人および国家)にも許さない立場を意味するであろう。」

以下、井上の精緻な議論は省略する。

「虚妄」を信じる戦後民主主義者は、そんな精緻な論理で理論武装しているわけではないのだから。

この「平和主義」は、「非戦」という言葉でも言い表される。

「反戦」ではなく、「非戦」。

これも、この世代の戦後民主主義者から、よく聞く言葉だ。

私も、朝日や毎日の幹部から、昔、よく聞いた。

鳥越も、言いたいことは「非戦」なのだろうと思う。

とはいえ、私は「非戦」とは何か、理解したことがない。

理解はできないが、朝日や毎日の論調の背景に流れる、丸山真男式に言えば「通奏低音」であることは、どなたも何となく理解できるのではないか。

軍事とか安全保障とか国益とか、もちろん改憲論議とか、とにかく戦争に「つながる」一切を、拒絶するような思想らしい。

「つながる」という言葉をよく使うから、これは左翼の「つながる論」と呼ばれている。

(真面目に言えば、それらは戦争にも「つながる」かもしれないが、平和にもつながるのであり、平和につながるよう努力することこそが政治の務めなのだが)

それは、非常に特殊で極端な思想だと思うが、持って悪い思想とまでは思わない。

「敗北を抱きしめた」とジョン・ダワーに言われた、敗戦国・日本に特有の思想で、国際的には通用しないが、信仰の自由はある。(それはたぶん、憲法9条を「抱きしめて」いるうちに醸成された思想だ)

しかし、井上が30年前に論証したように、「正義より平和を」「非戦」は、現実的には「どっちもどっち」という価値相対主義にしか行き着かない。

「どっちもどっち」から少しでも前進しようとすると、何らかの「正義」、何らかの「戦い」にコミットせざるを得ず、「諦観的平和主義」と「非戦」は、たちまち論理の破綻を起こすからだ。

それでも、その「諦観的平和主義」という「相対主義」を貫ぬくとすれば、それは結局、一切の批判を受け付けない、現実から目を背けた「絶対主義」にならざるを得ない。井上はそう証明してみせた。

鳥越に限らず、テリー伊藤や橋下徹など、いま批判されているような「ウクライナ戦争」に関するマスコミ人の論評は、要するに、「戦後民主主義」は価値相対主義に行き着く(そして、結局それは1つの絶対主義である)という井上達夫の哲学的証明が、30年して、現実にも証明された形だと思うのだ。

最後に付け加えておけば、鳥越という人は、善人だとしても、ずるいところがあると思う。

自分はアウトサイダーで、大学卒業まで7年かかった、とか自慢げに語っているのを都知事選のときに見たが(ということは「活動」されてたのでしょうね)、それでもちゃっかり大学を卒業して、毎日新聞に就職している。

アウトサイダーなら、卒業しないんだよ。

その間の学費はどうしたのかというと、鳥越は九州の「小財閥」鳥越製粉の御曹司らしい。それはそれで結構なことだが、そういうのはアウトサイダーとは言わない。

2016年の都知事選の時も、宇都宮健治が降りて野党統一候補という神輿が整ってから、初めて正式に手をあげた。

いつも、渡る橋の安全を確かめて、「大負け」しないよう計算している感じがある。

まあ、その計算がいつも甘く、選挙では、大負けしたわけだけど。

今度の発言も、批判を受けるのは承知の上だと思う。もちろん目立ちたいことはあるだろうが、上記の「非戦」の思いが、「お仲間」に伝わればいい、そして、淫行疑惑で途絶えた原稿や講演の依頼などが、そっち系から舞い込んで来ればいい、とか思ってるかもしれない。知らんけど。

まあ、いつまでもお元気で。

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