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四季詩集(6)

四季詩集とは

 詩誌「四季」の同人の作品を収録した詩集です。「四季」は昭和8年創刊の詩誌で、萩原朔太郎、室生犀星、井伏鱒二、中原中也、伊東静雄、立原道造らが同人として参加し、風立ちぬで知られる堀辰雄が編集に携わっていました。

四季詩集概要

タイトル:四季詩集
著者:丸山薫 編
出版社:山雅房 昭和16年(1941年)
価格:3円50銭
発行部数:限定800部
参加詩人:
井伏鱒二、乾直恵、内木豊子、大木実、木村宙平、阪本越郎、神保光太郎、杉山平一、竹村俊郎、竹中郁、田中冬二、立原道造、高森文夫、津村信夫、塚山勇三、萩原朔太郎、福原清、丸山薫、眞壁仁、槇田帆呂路郎、三好達治、室生犀星、村中測太郎、薬師寺衛 (50音順)

津村信夫『詩人の出発』

牛馬は懶惰に久しく疲れ眠り 果実は甘くうれている 娘の子ら しげく歩を外に移して まさしく 空に桜はひらいた

このあたり 川岸の眺めの ひとしきり奏でる旋律のなかに 且つての木綿着の少年は何処に佇んでいるのだろう

 春先に故郷を訪れた詩人の回想のようです。鳥雀のさえずりや、変わらない人の営みや自然の中に、在りし日の自分の姿を思い浮かべることは、往々にしてあることでしょう。「且つての木綿着の少年」は自分自身を指しているとすると、今現在の自分は何処にいるのかという自問がされているようです。それは物質的なことではなく、精神的なことでしょう。
 何か重大な決心をした時に、満開の桜が咲いていたとすれば、まるで自分を祝福しているかのように、肯定的な存在として映るでしょう。その決心が、詩人として生きるということだったのかもしれません。しかし、桜に親密さを見出す(あるいは見出すしかない)のは、ある意味では、人との間に何らかの隔たりを感じているのかもしれません。

哀しみを趁うものの愚かさを 何処の家の母親がさとさなかったか 又 小さな燈のもとで 世の一つの異例を 久しく嘆げかなかったか

川岸の春は 再び桜が散り 古い家の屋根に散りしいた

あの少年は出発した 何処へ? 既に傷恨をとどめたまま

 明るく前向きに生きることを善しとする人からすれば、哀しみを詠う詩人という存在は異端かもしれません。詩人である自らの存在を卑下するような表現は、決心を理解されない哀しみ故でしょうか。親密さを持っていた桜が散り、自分は何に祝福されていたのかという、つかみどころがない虚しさが漂っています。感情と季節の変遷が併せて表現されているようです。

塚山勇三『円形について』

心のふるさと 海よ
そこに 僕は少年の日を送り
幸福の円形はそこにあった
ふるさとはいつふりかえっても懐しいが
それら失われた円形について
それほど 僕は心老いていない
新しい円形のために
いま 僕は弧を描いている
その弧空の中に
星は数多く光っている

 思えば幸福の形とは、時間と共に変わっていくものでしょう。「幸福とは何か」ということをよくよく考えることはありません。大抵は何かを失って初めて、それが自分の幸福に寄与していたことを知ります。それは家族であったり、過ぎていった日常でもあります。しかし、現在に腰を据えて過去を振り返ることは、若者には似つかわしくないのかもしれません。失われていった幸福を補填するように、可能性としての何かを若さ故の未来に見出していくとしたら、幸福の形は様々な様相を呈していることでしょう。

萩原朔太郎『馬車の中で』

馬車の中で
私はすやすやと眠ってしまった。
きれいな婦人よ
私をゆり起こしてくださるな。
明るい街燈の巷をはしり
すずしい緑蔭の田舎をすぎ
いつしか海の匂いも行手にちかくそよいでいる。
ああ蹄の音もかつかつとして
私はうつつを追う。
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒にくるまで
私をゆり起こしてくださるな。

 言わずと知れた日本近代詩の父ですね。日常の一場面が直接的に切り取られていて、馬車の中でうとうとする緩やかな時間の流れが表現されています。目を閉じて、香りと音から景色を思い浮かべると、まどろみの中でそれらが行き交います。視認していないとしても、現実であるかのようにそれらを感じているのは豊かな想像力と感性からでしょう。都塵を避けて静かな場所に来ると、ただ蹄の音が響いています。そこには、少しずつ現実に引き戻される寂しさも感じられます。

福原清『秋の日向』

旗日のように賑やかに
人が通る、人が行く。

秋の日和のあたたかく、
日向に匂う金木犀。

楽しい約束があるかのように
娘らがゆく、子供らがゆく。

誰かが来るのを待つかのように
私は眺める ―― 手をつかね。

私は眺める ―― 手をつかね。
待つ人とてもないけれど。

 ほぼ七五調で書かれていて、軽やかなテンポがあります。それは行き交う人々の賑やかさや、金木犀の香りの心地良さを表現しているのでしょう。しかし、待つ人もなくそれを眺める寂しさが感じられます。日陰から日向を眺めているかのような、羨望心を抱くような印象です。それは時代を経ても変わらない、孤独を抱えた者の心理のようにも思います。街中を行き交う賑やかな人々を眺めると、ふと寂しさに苛まれることもあるものです。明るい印象の中にも、どこか陰を抱えた青年のような詩です。

丸山薫『未来へ』

父が語った。
御覧。この絵の中を
橇が疾く走っているのを。
狼の群が追い駆けているのを。
馭者は必死にトナカイの背に鞭をあて
旅人は荷物のかげから振り向いて
休みなく銃を狙っているのを。
いま銃口から火が紅く閃いたのを。

 走る橇は時間の流れ、狼は後悔を表現しています。明日を目指すために後悔を一つずつ撃ち果たしていくと、やがて路の行く手に輝いた街が現れるのだと、父親が子供に語りかけています。後悔を引き連れて明日を迎えるのも、後悔を撃ち果たすのも、苦難であることは想像に容易いですが、それでも橇は走り続け、朝が来ることを意識させられます。時間の流れの中で何を成すべきなのか、考えることを説かれているようです。

御覧。
丘の背がもう白みかけている。

終わりに

 『詩人の出発』『秋の日向』のように、何か陰を抱えたような詩が印象的でした。それは現代詩でも珍しいことではありませんが、詩の根底が何であるかということは、詩人の作風に大きな影響を与えます。裏を返せば、詩を読み解くと作者の心情に触れることができるのでしょう。それが自分と近ければ近いほど、詩はある種の慰めのように寄り添うものであると感じさせられます。


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