見出し画像

成田氏の「集団自決」発言の背後にあるもの:「閉塞」と「破壊」

「口にしちゃいけないって言われていることは、だいたい正しい」、これは成田悠輔氏のツイッターの自己紹介欄はこの一言だけ書かれている。

その成田が発して「高齢者は集団自決すれば良い」発言がNYTに取り上げられ多くの批判が再度巻き起こった。見た感じ多くの批判は「集団自決」という言葉が持つ歴史的意味(第二次世界大戦時の沖縄における集団自決)に構わずその言葉を使った成田氏の言論やエール大学助教授でありながらそのような暴力的な言葉無責任に放ったことなどが批判の主な論点である。

もちろんそれは妥当な批判ではある、しかし自分はこの一連の「事件」をよりマクロに受け取った。というより、そうするべきであると思う。そして、これをただ道徳観に欠けた成田の個人的問題と個人的責任として考えるのは些か短絡的な考えだと思う。

成田悠輔、ひろゆき、ホリエモン、メンタリストDaiGoや古市憲寿(橋下徹も個人的にはこの界隈に入ると思う)などのインフルエンサーは極端・過激な言動で近年ネット番組などを中心に人気を博している。若者や中年に多くのファンを抱える彼らは同時に多数の「炎上言動」によって批判の的になってきた。それでもなぜか、彼らは常に画面の前に居続ける。これは〇〇陰謀か?とでも思いたくなるが、その答えは非常に簡単。視聴者にうけるからだ。

視聴者は彼らの何を好むのか?端的に言えば、人々が現況の日本社会に感じる閉塞、無希望、迷妄、怒り、悲しみが彼らのそのような言動の根底にあると自分は思う。

日本社会における成田氏(やひろゆき等)と一般人の構図を見れば、前者が社会通念、道徳や責任と一般的に言われる社会的な「縛り」を擬似的に脱しった極端・過激な言論を展開し、後者がそこから得られる快感と満足感を消費する。ある種のスリル体験でもありながら、不満の代弁者でもある。成田などの言動は、一般的には「アウト」である。友達や家族に「老人全員集団自決すれば日本は明るくなる」なんて死んでも言えないだろう。しかし、同時に、今の日本社会の現状において、若者達は決して自分の居場所を見つけられない。特に政治や社会において、若者はもはや「空気」である。

それと同じように、ひろゆきの「論破」なども同じである。多くの不文律によって秩序立てられた生きづらい日本社会に対して溜まりに溜まった負の感情の吐け口として機能している。

この関係性の肝は、社会通念上の礼儀、道徳や責任を背負う自分達が決して言えないことを、「スカッと」言ってくれるが、その言論が導く結果を何も追わなくて良い身軽さ(炎上したところで、それは自分ではない)。そこにある。

その結果、過激な言動を繰り返すインフルエンサーと密かにそれを支持し、消費し続ける一般人という関係性が生まれる。

ある意味で自分はこの界隈が、日本の若者から40前半世代ぐらいにうけているのも理解できるな。「停滞」を前にした無力感と自暴自棄にはこういうポピュリスト的な主張や行動が響いてしまう。ポピュリズムは閉塞と停滞から生まれる。それは歴史からもある程度読み取れるだろう。

社会が閉塞感に満ちた時、人々は変革を望む。しかし、その変革が全然もたらされない時、自暴自棄的感情に満ちた人々は過激な言動や行動を繰り返すポピュリストを支持し、自分達の現状を変えてくれるだろうという希望を抱く。日本社会において、そのような閉塞感を抱いているのは10から40代前後の若者・中年未満層である。

高度経済成長を歴史として学び、バブルの「バ」の字も知らないこれらの世代は、生まれたその時から、日本社会の慢性的衰弱の中で生きてきた。そんな中で何も変わろうとしない社会を前にして、彼ら・彼女らは徐々にこの社会への帰属感と存在意義を見失い迷妄する。

そで光って見えるのが「〇〇をぶっ壊す」などといった過激な論調と発言を繰り返すポピュリストやインフルエンサーである。成田の発言と「〇〇をぶっ壊す」系はある意味同じである。その根底に存在するのは、自分にはどうにもできない現状に対する絶望を変えるべく、全てを極端に、暴力的に破壊しようとする衝動とそれがもたらすスリルな味わいである。

「停滞」と「閉塞」の打開の対義的存在として現れた「スリル」と「破壊」

それが社会的閉塞を打開する方法としては一番愚かで、危険で、暴力的であることは否めないが。

読んでくださいましてありがとうございます! もし「面白かった!」や「為になったよ!」と感じたら、少しでもサポートして頂けると幸いです。 他のクリエーターのサポートや今後の活動費に使わせて頂きます。何卒よろしくお願いします。