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「努力をせずに働く」は、「好きなこと/得意なことで食べていく」とは意味合いが異なるのかもしれない

2020年下半期の目標として、「仕事で自分が感じたことを文章に残す」というテーマを個人的には掲げており、ひさびさにポエム的なnoteを更新してみたいと思う。

天才プログラマーの人が記したブログが、ここ最近読まれている。

えとみほさんが触れていたように、この件に関しては私も全く同じことを感じた。

特にソフトウェアエンジニアの行動様式、都度の判断に普段から接している身としては、高度経済成長以降のビジネスサイドで従来当たり前とされていた「努力」の捉え方を踏襲することが難しくなっている。そのため、こうした「努力=善」ではない成長の意味合いを見出すことに、私自身も日々思考を巡らせている。

そして、「努力しないこと」って何なのだろうかと自分に問いかけてみたのがnote執筆のキッカケである。私も論理的に自らの現状から逆算して今の立場、経験を積めたタイプでないと自らを捉えており、このブログに書いてある「論理的思考の放棄」を会得するための要素を、少し考えてみることにした。


「好きなことを仕事にする」の大きなワナ

フリーランスの謳い文句として「好きなことを仕事にする」というフレーズは有名かもしれない。

でも、「好きなこと」を取り巻く環境として、「自分同様に、他にも好きな人がいる」という前提が存在する。

たとえば、「サッカーを好きな人」は世の中にゴマンといるわけで、その人たちの中から「サッカーについて最も好きな10人」に入ることは容易ではない。

・自分が好きな分野におけるプロを取り巻く需要(マーケット性)
・強豪ひしめく環境で突き抜けられるセンス

の2つが伴っていないと、「好きなこと」や「得意であること」で食べていこうとしても、むしろ苦しみや悲劇を生み出す場合が多く、成功を収めることは難しいのかもしれない。

この「好きなことを仕事に」は、ベイジの枌谷さんがブログで綴っていただいた内容が記憶に残っており、興味がある人が是非に目を通してもらいたい。(記載のある映画、『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』は私も「好きなこと」の意義を整理する際によく思い浮かべる・・・)


「得意である(と思い込んでいる)こと」のワナ

そしてもう一つ、自分自身を捉える上で厄介なのが「得意である(と思い込んでいる)こと」だと思う。

小学生の卒業文集の将来の夢で「サッカー選手になりたい」と書く人は少なくない。でも、実際にプロになれる選手(Jリーガーになれる選手)は、サッカー経験のある1,000人に1人とも言われている。

これは私の一つの仮説ではあるが、数多くの小学生が将来の夢として「サッカー選手になること」を掲げている理由は、「自分と競る同世代の母数」と「同世代の中での自分の明確な序列」を正確に知り得ないからであると思っている。

私自身の例となってしまうが、自分は小学生時代にプロ選手を輩出した実績のあるクラブチームに所属していた過去があり、そこで先発11人のレギュラーに入れなかったことから、「プロサッカー選手になること」は到底実現しない夢であると、12歳ながらに悟ってしまった経緯がある。

地元の強豪チームであったとはいえ、その環境で圧倒的な存在になれなかった事実には向き合う他なく、プロになるための絶望的な「差分」を感じてしまったことを、今でも鮮明に覚えている。

しかし、こうした明確な差分を自分自身で捉え直す機会があれば良いのかもしれないが、錯覚を促すワナとして、「中途半端な実績」を元に、自身の実力を過信してしまう場合が、意外と厄介だったりする。

私が塾講師時代に相対した生徒(中学3年生)の例として、プロ輩出校のセレクション(選抜テスト)に受からなかったものの、とある高校からサッカー推薦を受けたことから、「もう勉強しなくても良いですよね」と宣言され、塾に辞めることを検討していた生徒との話がある。

確かに生徒当人は、通っていた中学校ではサッカーが上手い部類に入っていたように思えたが、私自身の経験を踏まえても、その生徒がプロになれる見込みが高い逸材には到底感じられなかった。

だからこそ、当時は私自身も「プロになれる可能性は非常に低いし、まずは勉強するしかないね」と、ざっくりとした返答しか出来なかったが、今となって見れば高校生年代の母数(第2種登録選手の母数)と選抜テスト等の実績から当人の実力を推測し、プロになれる確率を冷静に提示し、勉学や他の学びを活かしたキャリア形成の必要性を説ければ良かったのかもしれない。


「自らを客観的に捉えること」について

この「好きなこと」と「得意である(と思い込んでいる)こと」に共通して引き起こしがちな問題が、「自分自身を客観的に直視しない」という振る舞いだ。

自身の「立ち位置」について客観的にフィードバックを受けつつも、その自分の現状に直視せず、目指すべき目標との差分を埋めるためのプロセス/ToDoの構築を怠る人である場合、当人の成長可能性は非常に限られたものとなってしまう。

例を挙げるとすれば、多くのサッカー選手が取り組んでいる練習後のケアや、練習外時間の過ごし方、自身の成長に必要な環境を選ぶことに取り組まず、のうのうと日々を過ごしてしまうことが、これに当たる。

こうしたケースはビジネスの現場でも数多く存在し、営業成績の向上しない従業員が「自らの業務への取り組み」を全く顧みず、悪質な環境や、自分勝手な振る舞いを繰り返す上司を全ての責任の所在とみなし、自身は何一つ行動を変えず、改善を放棄してしまうケースは少なくない。

確かに一流のプロからフィードバックを受けられない日々を過ごすことは非常にストレスではあるが、多くの職場における自身の上司は、必ずしもマネジメント能力の高い優れたビジネスパーソンという訳ではないだろう。

前にnoteでも触れた内容ではあるが、基本的には「自身の成長」のために必要な要素を分解し、然るべき取り組みを積み重ねられるかどうか次第で、成長可能性は大きく左右されるように思える。


チャンスの女神には「後ろ髪」がない

自身の能力や現在を捉え、然るべきプロセス/ToDoに落とし込んでいくことは、成長曲線を高度に描くためには欠かせない。

しかし、そうした「客観性」を担保するために必要なパターンとして、自分1人で頭をこねくり回して思考を巡らせるのではなく、意外にも他人との接点や機会から、成長のヒントやキッカケを得られる場合は少なくない

つまり、「人生における重要な出会いに気づけること」は「自身を客観的に理解してくれて、その可能性を見出してくれる人の存在に気づけること」と同義であるように思える。

ローマ神話に伝えられる幸運の女神・フォルトゥナには前髪しかないというエピソードがあり、「チャンスの女神には後ろ髪がない」という話を知っている人は多いかもしれない。

冒頭のアイキャッチの話になってしまうが、中学生時代に国語の偏差値が他科目と比べて圧倒的に低かった成績表を私自身の全てであると思い込んでいたら、現在のようにnoteの活用を促して組織を活性化させたり本の出版機会をいただけたりという機会とは無縁だったかもしれない

歳を重ねるに連れて経験したアウトプットや壁打ちの内容を鑑みて、「センスのある領域」や「プロフェッショナル性」を見出してくれた人たちがいなければ、今の私は確実にいないのだ。

そして、このnoteを書きたいと思った理由は、そうした自身を客観的に見直すことを忘れ、周辺環境や他人の振る舞いばかりに気を取られ、「チャンスの前髪」をあっさりと見送っている人の多さにモヤモヤしたからなのかもしれない。

最初のブログの話に戻るが、「論理的思考の放棄」というのは、もしかするとこれまでこのnoteで綴ってきた「論理的」とも思えるギャップ管理や打ち手の遂行を自然と出来ている状態を指すのかもしれないと、今となっては強く感じている。

「論理性を放棄して思考と施策遂行を続けられている状態」は、第三者の指摘と共に存在が確認され、その指摘を以ってして、自らがフロー状態に導かれている様を自覚するのかもしれない

自身の成長を促進させたい、もしくは自身の可能性を切り開きたいのであれば、日々自分自身を捉え直すことを怠らず、「自分の特徴を理解して機会を与えてくれる人」との一期一会を大切に出来るかが、重要なキーであるように思える。

まとまりのない文章となってしまったが、今後同様に「好きなこと/得意なことで食べていく」というフレーズに出会った際には、ここに書いてある内容をこれからも思い出せるようになりたい。

(終)


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