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鳩サブレとタイムカプセル

少し前の話。

その日は相変わらず体調がわるく、午前中で帰宅させてもらった。仕事はつまっていたが後輩にお願いせざるを得なかった。後輩は笑顔で引き受けてくれた。深々礼をして、車に乗った。最近はこんなことばかりだ。

家にもどり、手と尿道口を消毒して、カテーテルを挿入して排尿する自己導尿を、20分かけておえると、ばたりと居間のクッションにたおれふした。気絶するみたいに。はっと目覚めた時、だいぶ寝てしまった気がしたが、まだ15分くらいだった。

喉がかわいて流しで水を飲んだ時、知り合いからいただいていた鳩サブレが目についた。

ちいさい頃、お盆や正月になると、隣県に住んでいた母方の祖父が家にあそびにくるのが常だった。

私ときょうだいは、来訪をいつも楽しみにしていた。おみやげにかならずおもちゃを買ってきてくれるからだ。その時、おもちゃとともにおみやげに持ってくるのが鳩サブレだった。

ある年はコードのついたリモコンで動く戦車。ある年はジャンボジェットの模型。ある年はプロペラのまわるヘリコプター。それらにはかならず鳩サブレがついていた。私たちは鳩サブレをかじりながら、車みたいなおおきいタイヤのあるヘリコプターを、プロペラをぶんぶんまわしながら、畳の上をはしらせた。

母方の祖父は元々、私の家族が住む市の隣町で理容室を営んでいた。何人か理容師も雇い、地元ではちょっとした名家に近い家だったらしい。

だが母が父と出会う前、その理容室も自宅もすべて手放した。私が生まれる直前からは、隣県の旅館で住み込みの雑用係をしていた。亡くなったのは私が小学五年の大晦日だった。最後の仕事をおえ、一杯やってから温泉に浸かり、そのまま心不全をおこした。もうすぐ除夜の鐘がなるという時間、叔母、きょうだい、いとことともに、隣県へ向かう父母のタクシーを見送った。

実家の仏間の鴨居の上には、父方の祖父母、母の祖母、つまり私にとっては曾祖母の写真がならんでいる。そこに母の父母の写真はない。そこまでしかならべられない、とでもいうように。

私は母方の祖母、つまり母の母の名を知らない。顔も知らない。

写真一枚見せてもらったこともないし、幼い頃の話も聞かせてもらったこともない。本当に感心するくらい、母の母のことをなにも知らない。

でもなぜか母の祖母、つまり曾祖母の名は知っている。上に書いたように写真もある。温厚そのものの、ふくよかな表情だ。母が高校の時、弁当に必ず焼いてくれた卵焼きの味が今でも忘れられない、と、語ってくれたこともある。

だが母はそれ以上、 自分を育ててくれた家族のことを語ったことはない。たぶん、死ぬまで話すつもりはないのだろう。私もたずねたことはない。聞くつもりもない。

ヘリコプターのおもちゃは後になり、きょうだいとともに鳩サブレの缶をタイムカプセルにして、他のおもちゃやノートとともに、実家の庭に埋めた。

私は鳩サブレを一枚取り、袋をやぶってしっぽから食べた。むかしとおなじように。

あのタイムカプセルを掘り出してみないか。

あの頃から変わらない鳩サブレの甘みをかじりながら、きょうだいにそうメールしてみようか。ふとそんな考えがうかんだ。姪っ子甥っ子に、ヘリコプターをあげたい。もしかしたら母がいちばんよろこぶかもしれない。なんとなくそんな気もする。

からだが少しだけ、楽になった。

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