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短編小説「更生」


 地平へと隠れようとする太陽を、月が執拗な説得をもって、滞在を引き伸ばそうと画策する3月中旬の夕刻。馬小屋とまでは称することはできないが、類似するほどには汚らしい一室にて、愚息ぐそくは産声をあげた。〝汚らわしい一室〟というのは、一般的な産婦人科としての評価ではなく、人が居住を構える普通のアパートの一室としての評価である。



 もし、産声をあげたばかりの愚息にものを見ることができたのなら、一体何を思ったのだろうか。この部屋の一辺にはベランダに出るための窓が一つある。日に焼けたためかすすけた色合いを見せる厚手のカーテンにより、窓から外の様子はわからない。そのカーテンが既に汚らわしい。万年床ならぬ万年幕とでも称したらよいだろうか。カーテンが引かれ、日差しの柔らかな暖かさを部屋の一室に届けた記憶など、この部屋を借りている夫婦には皆無であった。そのため、冬の時分には窓に纏わりつく結露がカーテンへ触れ、カーテンの袖に斑点模様のカビを群生させていた。




 この部屋が汚らわしい印象を与えるのは、なにもカーテンだけではない。色々なものが雑多なのである。窓とは別の壁には、一面スチールラックが設置されており、中にはダンボールが隙間なく敷き詰められていた。ダンボールの中身は全て本や書類であった。誰にも読まれた形跡のない新品の本もあれば、愚息の母の走り書きを身に宿したコピー用紙が大半であった。そして、このコピー用紙の神こそが、この部屋の汚らしさの根幹を担っていた。紙は梅雨の湿度を程よく吸収し、よれて曲がる。更に雑に積み重なった他の紙からの圧力を受け、奇妙なへたり方を見せていた。



 
 中にはまるでダンボールから這い出る意志を持っているかのように、縁にもたれかかるものもあった。それらは四季や時間帯に関係なく灯されている電球に焼かれ、薄く黄色味がかっていた。その色合いは、長年使い込まれた人の肌によく似ていた。老人の皮を干しているようだと、表現した方がしっくりくる。




 衛生的且つ、心にぞくりと影を落とさせる汚らわしいこの部屋の中央に、夫婦と愚息はいた。

 



 「私がこの子に願うのは、この子が誰からも好かれる子となってほしい……かな」と、母親である彼女は産まれたばかりの愚息に向かって呟いた。彼女の目の下に見えるクマが産みの苦しみの壮絶さを物語っている。彼女の言葉は、指に触れる愚息に注いではいたが、どこか遠くの神聖なるものに対しての祈りの言葉のようでもあった。「きっとそうなるよ、だって君の子だもの。そして父親でもある僕はこの子に対して願うのは……。もしお母さんの願いが叶わず、誰からも好かれなかったとしても、〝家には帰ってくるなよ!〟かな」旦那の切実な願いを聞いて、横にいる妻は大いに笑った。




 翌朝、男性は妻の愚息と呼べる原稿を大切に鞄に入れ、勤め先である出版社へ出勤した。無名の短編小説家である妻は、男性の勤務する出版社で4度目ともなる自費出版を行うのである。




 (これ以上、自費買取の本が増えたら生活が本当にできなくなる。どうか少しでもいいのから、世間を賑わせてくれ)そんな内心からから、男性は出勤途中に妻の原稿が入っている鞄を何度も優しく撫でた。これからこの原稿を幾度となく校正し、ある程度の見てくれを整えて製本することが男性が行うべき急務である。




 そんな男性の自給自足の様な業務は、社内でもある程度有名であった。男性のそんな様子を見守る同僚達は、(校正より妻の更生を促した方が楽だろうに……)と、影で囁くが一向に本人には伝えられないでいる。



 



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