短編小説「空色の線」
筆に十分な水を含ませ、パレットに出した水色のアクリル絵の具と絡ませる。使い込まれた様子のないパレットは、着色していた色が移る心配もない。そうして完成した空色の絵の具。傾斜のつけられたキャンバスの、僅かな凹凸上を空色の筆先が左から右へ撫でる。キャンバスの左辺から右辺へ横断する線は、それだけで十分すぎるほど雄弁であった。その成果に、筆を持つ少年は満足そうな表情を浮かべる。
しかし、暫くするとキャンバスが吸収しきれなかった空色の線は、下方に豊満な膨らみを蓄えた。少年は空色の線が変容する様子を見ると、無意識にパレットを持つ右手に力が入った。パレットを貫く親指の腰を深く曲げ、爪を一回、二回と凸凹の一切ない面に押し付けた。
この空色の線を見ていると、少年は妹のことを思い出してしまった。少年にとって歳の離れた彼女は宝物である。しかし、少年に思い出させる彼女の姿は、どれも我慢を強いられているような表情であった。涙袋を引き伸ばすように目を開き、蓄えた涙を溢さぬように辛抱する妹。今の一瞬を耐えようと辛抱する妹に、どうしても空色の線を重ねてしまう。
溢れた。兆候のサインはなかった。しかし、図ったように空色の線から三つの雫が、キャンバスを這うように落ちていった。雫が静かに落ちる姿を見ながら、少年は奥歯を噛み締めた。「まだ三人もいるのか、結果はとても残念じゃが、君は本当に幸せ者だったという考え方もできる」少年は振り返り、いつのまにか背後に立っていた声の主である老人を睨みつけた。
老人は、右手に持つ酒瓶をかたむけ、少年の左手に持つ筆の毛よりも細い白髪を風に靡かせながら、さも愉快そうに笑っていた。少年は再度キャンバスに顔を向け、這われていく雫を筆で掬うように押し上げた。しかし、すぐにその行動と結果が結びつかない現実が展開され、少年の心をより深く傷つけた。少年の筆は、キャンバスに先ほどまで浸けていた空色を飾りつけることなく、また雫の動きを止めることも叶ってはいなかった。三つの雫は依然として落ちていく。
清涼なる風が吹くが、少年の心には焦燥の影を募らせるばかりである。少年と老人は素足であるが、地面の芽吹く柔らかな芝を直に感じることができ、心地良く感じている。地平線と空の境界線が美しく、2人の包囲するように結ぶ。空に浮かぶ黄金比を顕著に内包した雲。雲が重なり合い、作り出された陰影すら美しい。目に映る全てのものが、少年の心にあの日の過ちを問いただしてくる。
「次はいつですか?」少年は目に涙を溜めながらパレットと筆、そしてキャンバスを老人に返しながら聞いた。「また一年後にくる」「いつになったら雫は垂れなくなるんですか?」少年は10回目となる今回、ようやく老人に対して胸に秘めていた質問をすることができた。
「君の行った過ちに対して、悲しむ人がいなくなったとき、初めて一つの線が完成するじゃろう。しかし、残念だが君が過ちを犯したのはあまりにも若すぎた。あの三つの線は君の家族の胸中じゃ。溢れる涙を止められない胸中をしっかりと受け止めよ」そう話し、老人は左手に少年からもらった道具を抱え、右手に持つ酒瓶を口につけ一気に飲み干した。そして、酔いに身を任せるように快活に笑うと、ゆっくりと空と大地の色に馴染むように消えてしまった。
少年は絶望のあまりいつものように絶叫した。それ以外の感情の発散のさせ方は、この天国のような地獄には一切存在しない。しかし、一つだけ救いだと言いきれるものもある。この世界には少年が生きていた頃、過ちを犯すきっかけとなった青いマフラーが存在しない点である。少年が首にくくりつけたあのマフラーが。