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短編小説「銭湯」


 週末の朝早く銭湯へ行くことは、自分にとって何よりのご褒美である。私が足しげく通う銭湯は、温泉街のはずれにひっそりと隠れる様に佇んでいる。しかし、屋内浴場の広さと露天にある檜風呂の造りが非常に素晴らしい。また、温泉街のはずれだからといって、源泉を取ってないわけではない。脱衣所の壁に貼られた手作りの張り紙には、「泉質は硫酸塩泉」と書いてあり、続けて「名湯と名高い伊香保温泉の泉質と非常に近いものである」と書いてある文字はどこか誇らしげでもある。群馬県は未踏であったが、この銭湯に浸かることにより何ともいえない親しみを感じていた。




 この銭湯の露天は景色こそふるわないが、湯に浸かることに重きを置く私みたいな客にとっては、あまりに些細なことである。裏を返せば、景色やマッサージだのと銭湯に余計な付加を望む輩はこの銭湯を好まない。それが私のような人間からしてみれば、実に都合が良い。筋の通った本質を好む、私のような人間。この銭湯にはそんな人間が集まる。




 しかし、だからなのだろう、私があの日から銭湯へ行くことが叶わなくなり、今なお私の心を強く蝕むのである。(私のような人間は来てはいけないのだ)といった、心に薄墨のような影を内包するようになり、自然と足は銭湯へ向かなくなったのである。今日は、私の突然の心情に変化をもたらした事件を君に話したい。いや告白しなければならない。そしてどうか、私という人間を知ったあとでも、同僚として付き合うことを切に願うばかりである。



 その日、私はさきの銭湯にて一時間ほどの湯浴みを終えた。そして脱衣所に戻ると、まだ時刻が午前十時に達していないことに気づいた。その気づきと体の清々しさが相まり、これから始まる週末をどのように過ごそうかと少しばかり浮かれていた。




 「何で俺は入れねえんだよ!ババア!」脱衣所から出ると、玄関の近くで小柄な若い男性が叫んでいるのが見えた。髪色は金髪に染め上げ、露出した腕にはシルバーアクセサリーが幾つもめられていた。そして、私は若い男性の表情が微かに赤みを帯びていることに気がついた。(なるほど、きっと飲酒をしていたのか)私はそう思うと同時に、その若い男性を対応している、年老いた老婆が気の毒に思えた。




 私は意味もなく叫ぶ若い男性に対し、言い表せられない嫌悪感を抱いた。目の前で展開されたその状況は、野犬に追いかけ回される非力な子どもを見ているように感じられたのだ。(何かあってからでは遅い。もしもの時のため私がすぐに助けられる位置にいなくてはいけない)私はそう決心すると、2人が言い争っている玄関へいき下駄箱から靴を取った。そして、わざと靴が履けないフリをしてしゃがみ込むことにした。幸いにも若い男性は老婆に視線を注視しており、私に関心が向くことはなかった。




 「申し訳ございません」「だから、申し訳ございません、じゃねえんだよ。前から俺は入っていただろ?なんで今日から入っちゃいけねえんだよ?」「ですから、他のお客様のご迷惑となりますので……」「迷惑なんか今までかけたことねえよ!そもそも、なんでこれが迷惑になるんだよ!」若い男性の声は既に怒号と化していた。そしてその怒号と共に腕の袖を勢いよくまくった。(まずい!)私は老婆が殴られると思い、即座に若い男性の背後から飛びかかった。若い男性は急に背中から感じる圧力に驚いたのか、バランスを崩して、床に倒れ込んだ。




 ———「いいことをしたんじゃないですか?」私の話をここまで聞いていた同僚の女性は、不安そうな表情を浮かべながら優しく同情してくれた。「いいえ、私が間違ってたんです」私は同僚が話を最後まで聞かず、結論を出したことに対し、少しばかり怒りを覚えた。理由は(まるで、あの時の私と同じだ)と、そう思えてならなかったからである。




 「若い男の子はお酒を飲んでなかったのです」私はこれからの展開を少々とばし、結論を同僚に伝えた。「え?でもおばあさんと揉めていたんですよね?」同僚の驚きの声は、私たちがいる職員室に少しばかり響いた。「先生、静かに……。揉めていた理由は他にあったんです。若い男の子は腕に〝タトゥー〟をしていたんです。そのことに言及され怒り、あの場で見せようと思い、腕を捲ったんです」私は当時のことを思い出し、無意識に苦々しい表情を作った。気持ちだけがあの時、あの瞬間にタイムスリップしたのを感じたからである。




 「でも、それはそれで悪気があったわけじゃないですし、またその銭湯には行けるんじゃないですか?」私に向け同僚が抱いた疑問を聞き、私は驚きを隠せなかった。(この人は私の話をちゃんと聞いていなかったのではないだろうか?)いや、そんなはずはない。きっと私のつなない日本語がいけないのだ。私は同僚に対し、自分の口から語るにはあまりにも辛い告白をすることにした。




 「銭湯にはいけません。私のしてしまった行いは『外国人が誤解し、銭湯客にタックル』と、小さなニュースになりました。この国では、タトゥーがある人は銭湯に行くことが叶わないのは知っています。私は今現在、この身に〝デジタルタトゥー〟を宿してしまったのです……」私の告白を受け、英語科目を一緒に担当している同僚は驚きの表情をつくり私を凝視した。(無理もない)同僚の対応により、私は自分の犯した罪の重さを再確認させられた。彼女も漸く理解したのだろう。〝郷に入っては郷に従え〟この国の築いてきたルールが、私の行いが正しいことを証明していることを。

 


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