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新しい机、私の行方【タイ移住日記2024/4/25-28】

新しい机でモヤモヤとした気分を晴らすために書いている。大学院のレポートもやらなければならないのに、全く手を付けられていない。妻が急遽入院、そして引っ越しが重なったために、バタバタとし、そしていろいろなものにお金がかかってしまっており、家計が火の車となっている。いろいろなことがあり、体も心も疲れ切ってしまっている。SNS上では気丈に振舞うが、ここではそんなことができない。書くことで心を整えるジャーナリングというものだろう。私のこの日記はこれまでも暗いリズムを写してきた。仕事をしているのに、お金が入ってこない。毎日何かしら作業して働いているのに。

書くことで一部お金になっていたが、最近依頼がぱったりと無くなってしまった。代わりの仕事を任せられたがいつのまにか契約の話は流れにながれ、触れられていない。業務委託という言葉の怪しさである。人からは注意されていたのだけれども、毎月決まった給料ではないことの不安定性だ。私の精神同様に浮き沈みが激しい。私が今やっていることは間違いだったのか。

教育機関で働くも低い給料。それは世の常だが、それにしても低い。前の日記でも同じことを書いている。

毎日「わたしの船」に乗り、帰ってくるとベッドに倒れ込むぐらいまで働いているのだが、いろんな出来事のせいで漁獲量は少なく、一気に波が来てすべてをさらってしまった。「船」だけが残った。

書くことで生活していけないか。でも書く仕事は世の中にたくさんあれど、副業だのなんだのと自称でやっていけてしまう世界なのであり得ないほど見返りが少ない。依頼してくれている企業は相場の何倍かくれていたが、依頼がなくなてはゼロに何を掛けてもゼロなのだ。犬だってお手すればそれだけのおやつがもらえるのに。人間は鼻くそ程度しか見返りがない。世の企業は書いている人を何だと思っているのか。

最近では生成AIで何でもできるんでしょ、だからそれ上手く使えばすぐに書けるじゃんと思っている発注者はクラウドワークスなんか見ていると多いのだろうなと感じる。その文字数書くのにどれだけ時間がかかっているのか。リサーチに時間がかかることを多分知らないのだろう。もうなんだんだ。

そんなことを考えながら私は大学院で書くことを学んでいる。でもそこで答えが見つかるのだろうか。私は文末の語尾が指摘されただけで終わったことに書くことのしょーもなさを知ってしまった。プロにそれだけ指摘されたのならもうプロなんて信じたくなくなる。アマチュアの世界でお金が回っていればみんな豊かに書き、楽しみ、ある程度の暮らせるだけの金を得て生きていけるだろうに。

妻がいるから私は死ぬことを一生踏みとどまれるが、そうでなければ世のあほらしさに、そして自分のやっていることのバカバカしさに憂い、勇気ある一歩を踏み出してしまうことができるのだろう。

頑張った対価をこれまで得たことがない。前職も「世の中のせいで」ボーナスや成績評価を無きものにしていたし、今もがんばったからといって何かがあるわけでもない。がんばりなんて無意味なのだ。どれだけ踏ん張って生きていても狂った指導者に爆弾を落とされたらその一生が無駄になる。世の中はどれだけ無慈悲なのだ。私はそういったことに抗うために、弱小言語の日本語で、世界で使われているわけではないサービスで細々と日記を書き、こうして世の中の報われなさ、小さき者の声を叫ぶようにして書いている。世の中クソだ、とダイレクトにしか書けない。美術的な、おしゃれな言い回しもできない。1500字書いたご褒美なんてないだろうが、同じような思いを持ち共感してくれる人がいてくれるだけで、生きていてよかったのだ、と思うのだろう。それでもお金が必要なのだ、生きるために抗っていかなければならないのだ。世の金持ちはなぜ金持ちなんだろうか。心を持ち、力のある金持ちはいないだろうか。たぶん世の本当の金持ちは自分のことを本当に金持ちだと思っていないだろうし、本当に力を持つ者も、自分がそうだとは思っていないだろう。

お金がなくても、引っ越し作業を手伝ってくれたお兄さんに私はサービス料とは別に100バーツを手渡し、おいしいお昼ご飯でも食べてね、今日はありがとうと言い、荷物を新居に運び入れ、片付け、新しい机でモノを書く。お金とは何なのだろうか。どうやって自由に生きていけるんだろうか。そっと手を差し伸べるように契約書を出してくれるのだろうか。働くことに意味なんてあるのだろうか。書くことに意味なんてあるのだろうか。机の頑丈さを信じて、もたれながら私の行方を案じる。目の前には常に暴風雨のように乱れたランプの影がある。


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