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ピエト・モンドリアンとは|抽象絵画を「赤・青・黄」で極めた本物の画家

さて、早速前の記事を紹介をするのも恐縮なんだが、以前、カンディンスキーという画家の話をたっぷりと書きました。

「もしかしたら本当の意味でのアートはカンディンスキーから始まったのかもしれない」という話です。抽象絵画は、今やほとんど見なくなってしまった絶滅危惧種の1つでしょう。それはもしかしたら分かりやすい作品が求められるからかもしれない。たしかに抽象絵画は「何を描きたいのか」が、めちゃ分かりにくい。これはもう言い切っていいと思う。

でもキャッチーさと引き換えに、観ている人の内面を探れるジャンルなんだと思う。抽象的であればあるほど、鑑賞者は考える余地が生まれるはずなんですよね。例えば「犬」という作品名で「犬」を描いても「うん。そうだね。犬だね。わん」としか思えないでしょう。しかし白紙に横線を一本引いて「犬」とタイトルをつけると「え? なんで? どこが犬?」と考えてしまう。それが抽象絵画の素晴らしさだ。

そんな抽象絵画というジャンルを確立したのは、先述したカンディンスキーだと思っている。そしてカンディンスキーの抽象表現と対をなす作品で、このジャンルを深めたのがピエト・モンドリアンだ。

この赤・青・黄の配列を見たことがある人は多いだろう。先日、記事でも書いた佐藤可士和も、SMAPの広告でモンドリアンのオマージュをしていた。

佐藤可士和にインスパイアを与えたとおり、モンドリアンの絵を観た多くの人が「これって絵画?デザインじゃないの?」と思うはず。しかし彼は画家であり、その創作物は商品でなく作品なんです。

では、なぜモンドリアンは整列した絵画を描いたのか。今回はモンドリアンの生涯について一緒にみていこう。光があれば影がある。情熱があれば冷静がある。そしてカンディンスキーがいればモンドリアンがいる。そんな対象的な抽象絵画の世界を見つめてみたい。

ピエト・モンドリアンの生涯 〜モンドリアン10代の西洋美術はまさに激動~

ピエト・モンドリアンは1872年オランダ・アメルスフォーフトに誕生する。父親はデッサンの先生で、叔父はハーグ派(詳しくは後述)を師匠にもつ職業画家。モンドリアンは幼少期から叔父に郊外の田舎町に連れていってもらっては風景画を描くようになった。

こう書くと「こやつ、なんて優雅な少年時代なんだ」と思うかもしれない。しかしけっこう家庭環境は複雑で、母は病気がちで父は熱心なキリシタンだったので、家事などはすべて8歳の長女がしていたそうだ。

そんななかで、モンドリアンは絵に触れながら10代を過ごす。以下の絵は彼が18歳の頃に描いた絵だ。

ピエト・モンドリアン「House on the gein」

10代の彼はとにかく風景画を熱心に描いていた。彼が10代を過ごした1880年代というのはヨーロッパの画壇が揺れまくっていた時期です。

もう何回もこのマガジンで書いてますが、それまで数百年間、西洋美術を支配してきたのは「アカデミー」だ。しかし1800年代に入って、伝統的な技法が段々と見直されてくるんですね。これはアングルとドラクロワのライバル関係を見るのが一番わかりやすいのでぜひ。

つまり「ルネサンス期の落ち着いた写実主義に倣え!」というアカデミーの支配から「好きなもんを好きに表現させてくれや」というロマン主義に変わりはじめていた。

ドミニク・アングル「ホメロス礼賛」

こんな感じのラファエロちっくなアカデミーの絵から……

ウィリアム・ターナー「奴隷船」

このように、あえて抽象化することで画家の精神状態を濃く反映したり、鑑賞者の感性に訴えかけるような絵に変わっていくわけです。

ただそれでもアカデミー主宰の展示会「サロン」によって画家の評価が決まる、という常識ををまだ打ち崩せない。しかもアカデミーはいまだにラファエロチックな絵を評価していた。

そこで1874年には印象派たちが「もう自分で勝手に展示会やっちゃうもんね!」と、印象派展を開催する。

クロード・モネ「印象・日の出」

すると、1879年にはそれまでまったくサロンから評価されなかった印象派のひとり・ルノワールがアカデミーから認められるようになる。で、1880年代後半くらいからセザンヌやゴーギャンといった後期印象派の画家が、印象派の絵画をさらに進化させるわけです。

前置き長くてすんません。まだ全然モンドリアン出てきてないのにもう1500字書いとる。でもこの流れはやっぱ抽象絵画のスゴさを語るうえでおさえておきたい。モンドリアンは10代から絵を描いているが、上の作品の通り、アカデミックではなく、印象派寄りの表現主義な人だったんです。

このときに彼は「ハーグ派」というグループにも影響を受けた。ハーグ派、とはオランダのハーグで隆盛した派閥でゴッホも属していたものだ。以下の絵がハーグ派時代のゴッホの絵。とても彼の作品とは思えない色彩のくすみでしょう。

フィンセント・ファン・ゴッホ「屋根、ハーグのアトリエからの眺め」

ハーグ派は基本的に風景画を描くが、ビビッドな色彩ではなく、あえてくすみをかける。それはハーグの街の雰囲気までを描写したからです。モンドリアンは同郷の彼らから影響を受けている。何度もスクロールをさせてしまい申し訳ないが、やっぱり彼の風景画もちょっと靄がかかっているのが、よく分かるはずです。

モンドリアンの生涯 〜「自分だけの表現」を模索する20年間~

さて、そんなモンドリアンは20歳、1892年にアムステルダム美術学校に入学。ここでハーグ派だけでなく、印象派や後期印象派から技法を学んでいくんですね。ちなみに大学では教員免許も取得します。しっかりちゃっかりしている。

ピエト・モンドリアン「用水路と橋と山羊」1894年

特に彼が影響を受けたのはゴッホ、スーラなどの後期印象派たちだった。

ピエト・モンドリアン「Truncated View of the Broekzijder Mill on the Gein, Wings Facing West」1902年

後期印象派の面々ってのは、本当にみんなキャラクターが強いんですが、モンドリアンは彼らの良いとこ取りで自らの独創性を作り上げていく。

ハーグ派の技法を軸に、ゴッホからは激しい色彩を、ゴーギャンからはフォービズムを、スーラからは点描を、セザンヌからは幾何学的な技法を、作品に取り入れていったわけです。

このときのモンドリアンは、つまり自分のオリジナリティを模索していたんですね。それは決して「何が大衆にウケるか」ではなく「どうしたら自分の心をちゃんと作品に落とし込めるんだろう」という動機でした。

ピエト・モンドリアン「風車」1905年

モンドリアンは風景画で1906年にウィリンク・ファン・コレン賞を受賞。オランダでも風景画家として認められるようになってくる。しかし彼にとってまだ自分の内面を表現するには至っておらず、1907年あたりから画風を変え始める。

ピエト・モンドリアン「夏の夜Ⅰ」

ピエト・モンドリアン「赤い木」

両方とも1907年の作品です。上の「夏の夜」は、空が渦巻いているところなど、完全に「ゴッホLOVE」が伝わる表現だ。しかし「赤い木」になると抽象度が高まり、しかも後々に彼の代名詞になる「赤・青・黄」の原色を使い始めてます。このころに彼は母を失い、大きな衝撃を受けるんですね。それで「神智学」というスピリチュアルなオカルト的考えにハマりはじめています。

神智学とは「自分の内面と向き合うことで、外の自然を見つめるより、大きな影響を得られる」という考えだ。精神的にはむっちゃ病みそうな思想ですけど「俺の心の中をキャンバスに落とし込みたい」と20年も模索しているモンドリアンにとっては必要だったんですね。

これが彼の作品に大きな影響を及ぼすわけです。つまり自然を写実的に描くことを辞めたのだ。大きな賞まで得た彼ですが、名声を一切捨てて、新しい表現を始めたわけです。

ピエト・モンドリアンの生涯〜

こうして前衛的な表現の第一歩を踏み出したモンドリアンは当時、前衛画家が集まっていたパリに引っ越す。39歳のころだった。

そのころにパリで流行っていたのが、ピカソが始めて、ブラックが引き継ぐことになる「キュビスム」だ。もともとはセザンヌが起源で「1つのものを幾何学的いろんな角度から描いたらどうなるんやろ」と考えた。

ポール・セザンヌ「ラム酒の瓶のある静物」

で、これをピカソが発達させたもので、当時のパリではすでにブラックに引き継がれている最中だったんです。

パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」

ジョルジュ・ブラック「バイオリンと燭台」

で、モンドリアンはこのキュビスムの凄さにヒく。「おいおいやっぱパリやべえな」とイーゼルが倒れるくらい鼻息を荒くした。対象を単純なキューブ(立方体)にすることで、感性に訴えかける表現にしたことに驚くわけですね。それで、1911年あたりから彼の作品も変わっていく。

ピエト・モンドリアン「炊飯器と静物」1911年

ピエト・モンドリアン「炊飯器と静物」1912年

1年で完全に抽象絵画化したのがわかるでしょう。どんだけ影響受けたんだ、というのがちょっとおもしろい。その後、1914年にオランダに戻り、母国で抽象絵画をやっていた仲間と意気投合。そのなかで彼はある境地に達する。

「描く対象の形を変えるのではなく、対象すら無くしてしまったらどうなるだろう」。

そこで、彼は完全に図形だけを描くようになったんですね。この表現は当時としてあまりに鮮烈すぎた。それまで絵画といえば「描く対象」ありきのものだったんです。

ピエト・モンドリアン「絵画Ⅲ 楕円のコンポジション」

ピエト・モンドリアン「黒と白のコンポジション」

モンドリアンは1917年から「デ・ステイル」という前衛的芸術雑誌で作品を発表。ここで「新造形主義」という名で、モンドリアンは今後の自身の作品を小冊子で定義づけた。要約すると以下の要素がモンドリアンの目指す「陣造形主義」となる。

モンドリアンの新造形主義とは

・垂直線と水平線によって図柄をデッサンするもの
・線によってかたちづくられるグリッドがあるもの
・赤、青、黄の三色を基本に、白、黒、および灰色を補助的に使うもの
・神智学にもとづいて写実的でなく自己の内面性を見出すためのもの
・合理性の高い、秩序と調和の取れた表現を目指したもの

この新造形主義によって、1917年以降のモンドリアンが目指す抽象絵画の世界観が決定することになるわけです。この「赤・青・黄」の表現は「印象派チックな風景画」→「抽象化された風景画」→「キュビスム」→「対象物のない図形の連続」と、人の内面世界を描くために長年葛藤し続けたモンドリアンの境地だった。究極まで絵画を抽象化し、しかも色彩に制限をかけることで余計な”示唆”をすべて排除する方向性を定めたんですね。

しかし最初はモンドリアンも「いきなり原色を使ったら鑑賞者がびっくりするかもしれん」と淡色で描いている。

ピエト・モンドリアン「色面3のコンポジションNo. 3」

ピエト・モンドリアン「色彩のコンポジションA」

しかし1919年以降になると、原色を積極的に取り入れるようになる。

ピエト・モンドリアン「格子のコンポジション8 – 暗色のチェッカー盤コンポジション」

モンドリアンは幾何学にすることで、極めて合理的な絵画を描いた。これはあくまで作者の意図を極限まで見せたくなかったからなんですね。そのぶん鑑賞者の感性が問われることになるんです。

だからモンドリアンの絵の解釈はめっちゃムズい。ただ正解なんてない。上の「格子のコンポジション8」でいうと「北東に青ブロックが4つ固まっているから、風水的には未来の不安を描いているのかもしれない」でも正解だし「マインスイーパーかよ」でもいい。この絵を観て何を感じ取るかは鑑賞者の心に左右されるわけである。

そして1920年、今私たちが「モンドリアンといえばこれ」と思う作風が確立する。平行線と垂直線で区切られた格子の一部が原色の赤・青・黄で塗られているのが特徴だ。

ピエト・モンドリアン「大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション」

ちなみにこのスタイルはモンドリアンが宣言して確立したものの、デ・ステイルのメンバーがそれぞれで作っているのも特徴です。

デオ・ヴァン・ドゥースブルフ「Composition VII」

バルト・ファン・デル・レック 「コンポジション」

しかし「デ・ステイル」の創始者であるドゥースブルフの作品に関しては平行・垂直だけでなく、対角線を引いているものがあり、モンドリアンは後年彼と喧嘩別れしている。あくまで合理的に、余計なものを加えないスタイルこそがモンドリアンの目指すゴールだったんですね。

モンドリアンの新造形主義で面白いのは、同じモチーフのなかでもちょっとずつ改良されていることだ。「着色するスペースを減らす」「線の間隔を短くして3D感を出す」「キャンバスをひし形にする」「黒線に色を付ける」など、同じフォーマットのなかで少しずつ変わっていく。そしてそこには確実に彼の内面が反映されている。

ピエト・モンドリアン「2本の線と青のひし型」

ピエト・モンドリアン「4つの黄線で構成されたトローチ・コンポジション」

そんななか1938年には第二次世界大戦が勃発し、パリにいたモンドリアンはニューヨークに移住、亡くなる1944年までを過ごした。晩年期はアメリカのきらびやかな街に魅せられる。遺作となったのは「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」。この作品では過去にないほど着色が激しく、この後にデザイン学校などでも教材となった。

ピエト・モンドリアン「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」

2021年6月6日まで新宿・SOMPO美術館で23年ぶりの「モンドリアン展」が開催中

カンディンスキーが抽象絵画の創始者だとしたら、モンドリアンはその意義を極限まで高めた画家かもしれない。

というのも、そもそも抽象絵画を描く理由としては鑑賞者に自由な捉え方を提示することで、人の心の内面を表すというものです。

ワシリー・カンディンスキー「コンポジション8」

そういった意味ではカンディンスキーの作品は、抽象画ではあるものの、まだ捉え方を判断しやすいのかもしれない。しかしモンドリアンの絵画はあえて合理的かつ無機質に描くことで、解釈の幅を極限まで広げたといってもいいでしょう。

だからカンディンスキーは「熱い抽象画」と呼ばれる一方でモンドリアンは「冷たい抽象画家」と呼ばれるわけですね。ちなみに彼は「冷たい」と呼ばれることをちょっと気にしていて、3Dっぽく見せたりしています。かわいい。

ちなみにこの表現はダダイズム、シュルレアリスムにも引き継がれることになる。抽象絵画の功績はこの後の歴史に関しても重要だった。

さて、そんなモンドリアンは今年で生誕150周年ということで新宿・SOMPO美術館で日本では23年ぶりとなる「モンドリアン展」が開催されています。早速行ってきました。

この展示会ではモンドリアンのハーグ派時代から「赤・青・黄のコンポジション」時代までの作品だけでなく、デ・ステイルメンバーの絵画、また造形にいたるまで、65点の作品でモンドリアンの人生を紹介していた。

作品は撮影NGだったので紹介できないが、時系列順に並んでいるので「彼がなぜコンポジションを描くことになったのか」までがよく分かるのが魅力ですね。

この展示のサブタイトルは「純粋な絵画を求めて」だ。カンディンスキーの回でも紹介したが「どこからが絵画でどこからが商業デザインなのだろう」という命題を理解するためにもモンドリアンの作品はヒントになるはずだ。

モンドリアン展はこれを逃したら、次いつになるのか分からないです。なんてったって23年ぶりですから。モチーフがないからこそ、何か大きなことを感じる機会にもなると思いますので、まだの方はぜひ週末にでも遊びに行ってみてください。

あ、そういえば帰り道に偶然ブックオフを見つけたんですが「完全にモンドリアンやん」と思った(そんなわけねぇだろ)。

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