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トキワ荘とは|天才漫画家が一緒に暮らした伝説のアパートについて

日本マンガの基盤は、東京都豊島区椎名町のあるアパートで作られた。それがトキワ荘だ。手塚治虫が居住を始めてから、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、水野英子、寺田ヒロオなど、とんでもないメンツが手塚に憧れて入居。切磋琢磨しながら、作品を作っていた。

トキワ荘はまさに「マンガ家の梁山泊」としていち時代を築いた聖地中の聖地である。

日本のマンガカルチャーはまさにこの場所で生まれた。こんなスターたちが、この一箇所に集まってマンガを描いていたのは信じられない。レアル・マドリードばりのミラクルだ。

今回はそんな1950〜60年代マンガの大舞台・トキワ荘のマンガ家たちについて、じっくりと見ていこう。

手塚治虫がトキワ荘に移るまで

手塚治虫は、トキワ荘に居住する前から、すでに地元の大阪では有名マンガ家だった。

彼は1946年に「マアチャンの日記帳」でデビューした。私も持っているが、今のマンガとは違い、まだ少し原始的な雰囲気がある。

しかし大きな評価を得るきっかけとなったのが、1947年に出版した「新宝島」だ。戦後から令和に続くマンガ表現は、まさにこの作品から生まれた。

当時のマンガといえば、雑誌では1作品4ページほどであり、ストーリーを見せるというより、絵の表現を楽しむもの。しかし「新宝島」は200ページにわたる長編であり、当時としては凝ったストーリーが特徴だっま。

いま読むと、正直おどろきはないかもしれない。しかしそれはコロンブスの卵だ。「新宝島」がマンガのレベルを押し上げたから、今のマンガがおもしろいのだ。

当時、読者としてこの作品に衝撃を覚え、影響を受けた人物は数えきれないほどいる。特に以下のクリエイターたちは、自伝で「新宝島」の衝撃を語っている。

・宮崎駿 スタジオジブリ
・横尾忠則 画家
・和田誠 イラスト
・つげ義春 漫画家
・さいとう・たかを 漫画家
・中沢啓治

もちろんこの他にも、たくさんのクリエイターが影響を受けただろう。なかには新宝島を読んで漫画家を志した者までいた。そのなかに藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎などもいたわけである。

手塚治虫はその後も次々に作品を執筆。「ロストワールド」「ジャングル大帝」「アトム大使」などを描き、ストーリーマンガを自分のものにしていく。

このころは大阪で描いていたが、だんだん東京の仕事が増えて、新宿の八百屋に下宿する。しかし編集者の押しかけに八百屋側が耐えきれなくなり、苦情が出るようになった。そりゃそうだ。とんだ営業妨害である。

当時の手塚治虫は学童社の「漫画少年」という雑誌で「ジャングル大帝」を連載していた。学童社の編集者である加藤謙一が、1953年に息子が住むアパートとしてトキワ荘を紹介する。それが入居のきっかけになったわけだ。続いて同年の大晦日に寺田ヒロオ1954年に藤子不二雄が入居した。

手塚治虫の退去後も若い才能が集まる

寺田はめちゃめちゃ野心家だった。「若いマンガ家に入居してもらって切磋琢磨できる場所を作りたい」と考えていたわけだ。そこに学童社も共感し、ある一定のレベルをクリアしたマンガ家を次々に入居させることになる。つまり「トキワ荘に入れるマンガ家=才能がある新人」という構図があった。

1955年には後年、アニメ監督にもなる鈴木伸一、1956年には森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、そして2年後には唯一の女性・水野英子と、よこたとくおが入った。

ただし手塚治虫がトキワ荘で描いていたのは1954年10月までなので、実質的にこれらのマンガ家たちは同居していたわけではない。

またこの他にも長谷邦夫、つげ義春などのマンガ家がよく遊びにきており、トキワ荘は「マンガ荘」ともいわれるようになる。

ちなみに漫画家だけではなく、一時期は赤塚不二夫の父親が入居していたし、ある部屋には一般の若い夫婦がいた。ちなみにこの夫婦の名前が「ふじこ」と「ふじお」だったらしい。

トキワ荘にマンガ家が入り浸っていたのは、実質1962年までだ。その後は1982年に取り壊しが決まった。しかし2020年、東京五輪に間に合わせる形で「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」が開館。

コロナ禍ではあるが、我慢できずに私も遊びにいった。これがすごい再現度の高さで、かなりリアルなのでおすすめだ。

トキワ荘時代の作品を見てみよう

ではトキワ荘で描かれた作品を紹介していこう。ただしあらかじめ断っておくが、当時は藤子不二雄も赤塚不二夫も石ノ森章太郎も新人だ。みなさんが知っているような作品は、まだ描かれていないぞ。

リボンの騎士

今では当たり前になった「戦闘系少女マンガ」の走りである。また両性具有ものとしての側面も持ち、ヒーローとヒロインを1つにまとめたことでも傑作として知られる。いま読んでみると「萌え要素」がすごい。

手塚は上京前、宝塚市で漫画を描いていた時期があり、この作品では宝塚歌劇団の影響を受けたとされている。

くらやみの天使

くらやみの天使は赤塚不二夫、水野英子、石ノ森章太郎の合作となっている。当時、この3人は同時にトキワ荘で生活しており、U・マイア名義でこの作品を出した。

上のコマを見ていただければ分かる通り、3人の表現が詰まっている傑作だ。石ノ森章太郎のSF水野英子の初期少女漫画のグロテスク性、そしてひみつのアッコちゃんに代表される赤塚不二夫のファンタジー性などが融合している、貴重なマンガだ。

白黒物語

トキワ荘の古参であり、リーダー的存在であったテラさんこと寺田ヒロオのデビュー作である。主人公のシロちゃんとその影法師のクロちゃんが人助けをしていく話で、なんとなくコンセプトがジョジョっぽい。

寺田ヒロオはトキワ荘の仲間を集めて「新漫画党」を立ち上げたことでも有名だ。「とにかく面白いマンガをみんなで作ろう!」という印のもと、トキワ荘の面々やその周りの漫画家たちが集まって、会合をしていたそうだ。聞いているだけでワクワクする集まりである。

先述した「くらやみの天使」のような合作が生まれたのも、この新漫画党のおかげだと言える。トキワ荘のなかでも年上で、社会人経験があるテラさん。彼がいなければ、藤子不二雄も赤塚不二夫も石ノ森章太郎も世に出なかったかもしれない。

みんなトキワ荘を出て5年以内に日本を代表する漫画家に

トキワ荘で生まれた作品に「おそ松くん」「ドラえもん」「サイボーグ009」などを期待した方もいただろう。しかし、残念ながらこれらの代表作はトキワ荘では描かれなかった。なんせ彼らは入居当時ほとんど駆け出しのマンガ家なのだ。そりゃそうである。

赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎などの面々はトキワ荘を退去してから、代表作を生むことになる。彼らがトキワ荘退去の5年以内に描いた、豪華すぎるラインナップを見てみよう。

藤子・F・不二雄 & 藤子不二雄A
・おばけのQ太郎
・パーマン
・忍者ハットリくん
・怪物くん

赤塚不二夫
・おそ松くん
・ひみつのアッコちゃん

石ノ森章太郎
・サイボーグ009

これらの作品はすべてトキワ荘で基本を学んだ後にリリースされた作品だ。半世紀以上経つ今でも、誰もが知るマンガなのがすごい。

また、その後はご存知の通り「ドラえもん」「天才バカボン」「仮面ライダー」などの傑作を生むことになる。彼らはトキワ荘で下積みをしてから、日本のマンガカルチャー、そしてアニメカルチャーを作っていくのである。

寝ずにマンガを描いた手塚治虫の姿

トキワ荘は日本のカルチャーにあり得ないほど大きな影響を与えた場所だ。その偉大さに、映画やアニメなどでトキワ荘の生活自体が作品化されている。

なかでも藤子不二雄A自身が描いた自伝的マンガ「マンガ道」では、本人がリアルな生活を描いている。作中にはあらゆる名シーンがあるが、特に藤子不二雄Aは以下のセリフを自分で「名言」とした。

「天才が努力してるんだから おれたちはその何倍も 努力しないと追いつかないなあ!」

手塚治虫は当時、日本で唯一ストーリーマンガを描けた逸材だった。あらゆる漫画雑誌が手塚治虫に仕事を依頼した結果、1954年当時でも8、9本の漫画を同時連載していたそうだ。藤子不二雄Aは「手塚先生が寝てる姿を見たことがない」という。

トキワ荘に入居したマンガ家たちは、全員が手塚治虫のファンである。そんな偉大な先輩がこれだけがんばっているのだ。その背中には誰よりも説得力がある。これは奮起せざるを得ない。目の前で、イチローが誰よりもバットを振っているのだ。「マメが痛い」なんて言ってる場合ではない。

トキワ荘はそれに加えて、自分と同じような境遇にいるマンガ家が、同じ屋根の下で描いているという状況があった。将棋の奨励会みたいなものだ。みんな燃えに燃えていたのである。

トキワ荘は、まだマンガの世間的な評価が低い時代に、カルチャーとしての礎が作られた場所だ。そんな彼らの情熱を知ったうえで、ぜひ作品を読み返してみてはいかがだろう。ドラえもんもバカボンも島村ジョーも、いつもより魅力的に見えてくるに違いない。

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