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ジョルジュ・スーラとは|点描画の創始者が駆け抜けた31年の人生をたっぷり紹介

「点描画」というジャンルをご存知だろうか。名前の通り、真っ白なキャンバスにピッピッピッピッて点状に絵の具を塗ることで描く絵画のことである。

名前だけで「ハンパじゃなく気が遠くなる作業」ということはわかるだろう。常人がやる表現じゃない。もし隣で血眼になって一心不乱に点描画やってる奴がいたら「おい大丈夫か。病んでんのか」つって、いったんコーンポタージュ飲ます。確実にメンタルを損ねているもの。こんなやつは。

そんな点描画を19世紀に開発したのが、ジョルジュ・スーラだ。スーラって、なんかまっすぐな線を引きそうな名前だが、点描画ばっかり描いた画家である。

ただ、おもしろいのはスーラはまったくメンタルを損ねていない。彼はきっちりと目的があったうえで、点描画にたどり着くのだ。

今回はそんなジョルジュ・スーラについて、31年の人生を深掘りながら、彼が何に影響を受けて、どうして点描にたどり着いたのかを楽しく見ていこうではないか。


ジョルジュ・スーラの生涯 〜激ヤバ無口一家で育ち真面目な人格に〜

スーラの肖像画

スーラは1859年12月2日にパリで生まれる。本名はジョルジュ・ピエールだ。ちなみにゴッホが1853年、ムンクが1863年誕生。このあたりと同じ時期の画家と覚えていただけるとよいと思う。

スーラのお父さんの職業は執達吏。今でいう裁判所勤務で、差し押さえとかする人だった。給料もボロクソにいい。しかも不動産投資で成功したお金持ちだったんですね。つまりスーラは、もうめっちゃボンボンなのだ。

ただ、この父親がだいぶヤベェやつで、結婚して子どもいるのに孤独を愛する男で超無口。休日になると、家族を置いて1人で山奥の別荘にこもっていたそう。幼きスーラは火曜日にしか父親に会えなかったという。いや、コレ逆に不倫してたらまだうなづける。マジやばいのは別荘で友達の庭師とずっと花を育ててたっていう……。もうどうやって結婚するに至ったんかを教えてほしいレベルの激ヤバ官僚だった。

で、そんなスーラは週に1回、お母さんと兄姉とパリ9区、10区のマゼンタ大通りにお出かけするのが習慣だった。きれいな公園とかでのんびりしてたんですね。

で、その通りにあったのが「彫刻図画私立学校」。この学校を運営していたのが、彫刻家のジャスティン・ルキエンさん。ここでスーラは絵を学び始めるわけだ。

今のマゼンタ大通り

スーラは幼いころから、父親譲りの超無口で、超真面目な性格だったという。これでオカンが松野明美やったら奇跡的なバランスで普通の子になるかもしれん。でもオカンもオカンで静かな人だったそうで、いよいよ「なんで結婚できたんこの2人」ってのが気になるが、とにかくスーラは"なるべくして内向的で無口"になったのだ。

そんなスーラは19歳で順当に「エコール・ド・パリ(日本でいうと東京藝大的な学校)」に入り、本格的なデッサンを学ぶことになる。

この期間で彼の技術力はめっちゃ伸びた、といわれる。なんてったって先生はドイツの画家、アンリ・ラマン。彼自身、新古典主義の巨匠・アングルから教えを受けた、ガッチガチの理論派先生だ。

アンリ・ラマン

ラマンは超速ピアノ奏法で有名なフランツ・リストの肖像画とか描いていた人です。スーラはそんなカッチリ系の教育。つまり感性で突っ走る!というより「ちゃんと遠近法を意識して、正確なデッサンをして……」みたいな感覚を養っていくわけだ。うん。これは真面目なスーラに合ってただろう。

しかしスーラは兵役のため、1年で学校を辞めざるを得なかった。ただこの1年で理論を知り、デッサンが飛躍的に上手くなったということは、やはり「地頭がものすごく良い人」だったのだろう。

ジョルジュ・スーラの生涯 〜兵役を終えてから「色彩」に目覚める

ジョルジュ・スーラ

そんなスーラは兵役を終えた後に、アトリエを構える。学校の同級生だったアマン・ジャンと同居し、画家としての活動を始めるわけだ。

ちなみに、彼は超絶イケメンだった。上の「なにかしらの催眠術にかかってる風おとぼけフェイス」の写真も、やっぱかっこいいですよね。ファッションも今でいう「派手すぎず、かといって量産型すぎず」っていう、なんかもう合コンでいちばんモテるやつだった。内向的なので行かなかっただろうが。

そして1883年 、23歳で「アマン・ジャンの肖像」を描く。これが彼が初めて世に出した作品だ。この作品はコンテ・クレヨンで描いているので、黒一色であるが、とんでもなく写実レベルが高い。「とても新人が描いたものとは思えん」と批評家が唸りまくったそうだ。

ジョルジュ・スーラ「アマン・ジャンの肖像」

特筆すべきは「光の当たり方」。白黒の二色ゆえに光がものすごく映える。このころにスーラはドラクロワの絵を研究していたらしい。ドラクロワの絵といえば「色彩表現の豊かさ」。色を極限まで近づけたリアリティが特徴である。

この時期にスーラは完全に色合いの表現に目覚めるんですね。ずーっと「きっちりした絵」を習ってきたからこその「理論的な絵」をベースにして、自分なりの表現を探し始めるわけである。

ジョルジュ・スーラの生涯 〜筆触分割からの点描の発明

そんなスーラはこの翌年、24歳になると「芝生の上の服」や「村はずれ」という作品を描いている。

ジョルジュ・スーラ「芝生の上の服」
ジョルジュ・スーラ「村はずれ」

これおもしろいのは、ほっとんど同じ時期なのに画風や画材が違うことだ。誰にでもある迷走期です。アレだから、ピカソなんて最後まで迷走してたんだから。

スーラがこの時期に表現を模索しようとしていることがよくわかる2枚だろう。ただ、共通点もある。それが「筆触分割」を使っていることだ。

筆触分割とは

クロード・モネ「散歩、日傘をさす女性」

筆触分割は画法の1つだ。スーラが試していた時期より、50年くらい前に見つかった色彩理論をもとにしている。科学者のミシェル=ウジェール・シュブルールさんが「えっ、なにこれ。なんかすげえの発見したんだけど」って見つけて、それをドラクロワが試した。

筆触分割とは、例えば「青と黄色を隣り合わせに描くと、なんか緑に見える」みたいに、独立した2色をうまいこと配置することで新たな色彩を錯覚させる手法だ。人間の網膜は隣り合わせになってる色を勝手に混ぜちゃう働きがあるんですね。

対にある2色を並べることで互いの色を強調する

この手法はスーラの10年くらい前にモネをはじめとする印象派でめちゃんこ流行る。印象派の前は色を作るとき「赤と青を混ぜて紫をつくる」みたいな感じで混色していた。美術の時間とか、みんなそうだったよな。パレットの上で色を混ぜてコーディネートしていたと思う。

でも色は重ねれば重ねるほど黒に近づいていくわけだ。どうしても暗ーくなっちゃうんですよね。印象派はそもそも「外に出て、明るい自然な姿をなるべくそのまま絵にしよう」っていう運動だ。だから色を重ねちゃうとまずいんです。もう「ぜんぶ曇天」みたいな。ペンネーム・雨男みたいになっちゃうんですよね。

それで1870年くらいから、筆触分割による色の見せ方が流行ってくるわけだ。色を混ぜずに細かく隣に配置することで、明るいまま色を作れるのである。だから印象派の絵はどれも絵の具がハッキリとペタッて感じで塗られてるわけです。印象派は「黒禁止な!」って仲間内で約束してたくらい光の見せ方に固執した集団だ。

このころのスーラの絵も筆触分割をしようとしているのが分かる。彼は静物画とか風景画とか描いていたため、暗くならないように混色を避けているんです。彼が兵役明けにドラクロワの色彩を研究していたのも、このためである。

筆触分割を極めたら「点描」になった

で、そんなスーラは25歳で名作「アニエールの水浴」を1年かけて描く。高さ2メートル、幅3メートルのデカめの絵画だ。

ジョルジュ・スーラ「アニエールの水浴」

いやもうほんと、画質が限界きてて恐縮の極みです。もうちょい画質のいい画像でアップにしてほしい。これ、ほんとエグい。芝生も黄緑で塗ってるわけじゃなく、緻密に緻密に緑と黄色を筆先でちょんちょんちょんって"置いてる"のである。

これがスーラが点描画を用いた目的だ。筆触分割をリアルにリアルに、と突き詰めていった結果、「点」の粒度まで進化したんですね。

また、見てわかる通り、構図がほんとに整頓されていて美しい。スーラは他の印象派の画家と違って「筆触分割を用いつつも、構図はあくまで昔ながらの新古典主義」だったわけだ。これがスーラのポイントである。めちゃめちゃデッサンして下書きしまくって「どこにどの色をどれくらい置くか」をあらかじめ決めたうえで、描くっていう超理論派なんですよ。真面目なんです。親譲りの。

しかし理論化されたことで、それまではなんとな〜くやってた筆触分割は「やり方」が明確になるんですよね。スーラによって教科書化されたわけだ。

ジョルジュ・スーラの生涯 〜アンデパンダン展の開催へ〜

で、24歳のスーラは自信たっぷりに、この作品を国が運営する公的な展覧会・サロンに持ち込む。ただサロンはこの出品を拒否するんですよ。というのも「いや、これなに? 新しすぎんこれ? なにこれ、どう評価したらいいん?」みたいな感じだったのだ。

あの……年末のM-1でランジャタイが出てきた感じですよ。「いやコレ……。すごいけどコレ……。わからんから、とりあえず拒否しとこ」って、保守的だったんですよね。サロンはずーっと保守派です。

で、スーラはそんな姿勢に幻滅。「ねぇわ。今までサロンっぽい理論的な絵描いてきたけど、さすがにジジイ過ぎてついていけねぇわ」と、サロンからの離脱を決める。

この時期にポール・シニャックがスーラの作品を見て「めっちゃええですやん」と感動。点描主義としてスーラと同じ道を歩むようになる。点描画はスーラとシニャックがキーマンだ。

スーラが描いたシニャック

二人を含めた新進気鋭の画家たちはサロンを諦め「じゃあ自分たちで展示会やろう」つって、1884年にアンデパンダン展を立ち上げた。ちなみに会長はシニャックだ。

この流れは10年前の1774年に印象派がやったことと同じだ。当時の印象派も、サロンで自分たちの風景画が評価されないのをきっかけに「印象派展」を立ち上げた。

ただ印象派展はあくまで「印象派に属する人の展示会」という、限られたコミュニティでのイベントだったわけです。

一方でアンデパンダン展の何がすごいかって「無審査・無報酬」なんです。簡単にいうと「誰でも持ち込んだら展示するよ。賞とかないけどね〜」ってやつです。今でいうとPixivみたいなね。これが当時は、もう超画期的だった。

ここで芸術の門戸が広〜くなるんですよ。いや、SNSが普及しきった今では「誰でも出品できて、誰でも評価を受けられる」ってのは、もう当たり前だ。でも当時はマジで画家の発表の場は「サロン」くらい。いったんそれくらい美術の門戸が閉ざされていたわけだ。

実際、このアンデパンダン展から、のちにあらゆる画家が見つかっている。アンリ・ルソーとか、郵便局員ですからね。その辺のおっちゃんの作品がすんごい評価されるという、最高の時代が到来したわけだ。

ちなみにアンデパンダン展は今でも開催されています。日本でも1947年からは毎年やっているデカめのお祭りでござんす。

ジョルジュ・スーラの生涯 〜「グランド・ジャット島の日曜日の午後」と新印象派〜

スーラはアンデパンダン開催と同年、代表作の「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を描いた。これも横3メートル、縦2メートルの大きな絵画だ。

ジョルジュ・スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」

この翌年にスーラは20歳くらい年上の印象派の画家、カミーユ・ピサロと出会う。「おい、スーラっての。きみの点描ヤベェな。うちらの印象派に出展しない?」とピサロに誘われたスーラは、第8回印象派展にこの作品を出品した。ちなみにシニャックも出品した。

ピサロは大人だ。ものすごく俯瞰して物事を見ているんです。同じ筆触分割でも、モネやルノワールと、スーラの違いがわかっていたわけだ。

前者は「表現したい」という感覚のまま色触分割をしていたが、スーラは計算され尽くした配色で理論的にやっていたことに気づくんですね。

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」

それでピサロは前者を「ロマン主義的印象主義」、スーラを「科学的印象主義」と呼んだ。ちなみにこの第8回印象派展にモネやルノワールといった前者のみなさんは出ていない。彼らはまだパンク魂燃えてますから、ぶっちゃけスーラの表現には反対だったんですよね。そもそも印象派は理論的な作品へのカウンターカルチャーだったので……これはまぁ仕方がない。

で、1986年にフェリックス・フェネオンという美術評論家がスーラの表現に「新印象派」と名付けた。ここから、現代までずーっと、スーラの表現は「新印象派」といわれるようになる。

ゴッホにも影響を与えた第8回印象派展

みんな大好きゴッホ先生

ちなみに第8回印象派展にはゴッホも来ている。彼はスーラやシニャックの作品にすごく感銘を受けたそうだ。もともとゴッホは暗い絵が好きだったが、実際この後から、すごく画面が明るくなるのがおもしろい。

スーラとはあんまり交流がなかったが、シニャックとゴッホは仲良くなり、ゴッホが耳切り事件を起こした後にお見舞いに行っている。

またゴッホが病んで引きこもってるとき医師と一緒に扉のカギを壊してまで会いに行き「ゴッホ、めっちゃ上達してるやん!」と褒めちぎったらしい。

それでゴッホも元気を取り戻したというから、素敵なエピソードだ。

ジョルジュ・スーラの生涯 〜風景画からの脱出と早すぎた死〜

その後、スーラはだんだんと風景画ではなく、室内の絵を描いていく。新印象派としての点描画を完全に確立してモチーフを広げていくわけだ。

特に1889年から1890年は多くの作品を発表している。「多くの」といっても8点だが、点描で年間8点描くってのは、マジでハンパない。しかも前述した通り、スーラは着色する前に徹底してデッサンをおこない「ここにはこの色」ってのを決めるタイプの画家だ。ジャブをたくさん打つんじゃなくて、馬鹿でかいメリケンサックつけてアッパー決めるタイプの画家である。

ジョルジュ・スーラ「プチ・フォート・フィリップ」
ジョルジュ・スーラ「化粧をする若い女性」
ジョルジュ・スーラ「ジャユ踊り」

ちなみに2枚目の「化粧をする若い女性」のモデルは奥さんのマドレーヌ・ノブロックだ。今みると、なんか「堕落した白雪姫」みたいだが、あの理論派のスーラがベタ惚れするくらいだったから美人だったのだろう。ちなみに向かって左上の花瓶のところには、もともと彼女を覗き込むスーラの顔が描かれていたらしい。超恥ずいよねこのエピソード。

この時期、29歳のスーラには赤ちゃんが生まれる。スーラは「素晴らしい子が生まれた!」つって感動のあまり、自分の本名を逆にした「ピエール・ジョルジュ」と名付けた。もう発想が完全にサイコ。言い忘れていたが、スーラはかなりナルシストでもあるのだ。

そんなスーラは1890年から「サーカス」という絵に着手した。

ジョルジュ・スーラ「サーカス」

この時代はサーカスがイギリスで始まり、ヨーロッパに広まった時期であり、実際1880年ころからサーカスの絵はめちゃめちゃ流行り始める。ロマン主義的印象主義のルノワールやドガ、ポスター絵画のロートレックなどが、よくサーカスの絵を描いた。

この「サーカス」という作品は、いま「スーラの最高傑作」といわれることも多い。というのも、やりたいことがめちゃめちゃ分かりやすいんですね。先ほどの色相環を見ていただくとわかりやすいが、黄色と青は対の位置にいる。つまり互いを強調する色なんですよね。

ふちを青く塗り、演者や客席は鮮やかなオレンジで縁取られている。馬などは真っ白に描かれており、色彩が見事なバランスで調和している。

これがスーラの目指した色触分割の到達点だったのかもしれない。しかし、実はこの作品は左側が未完となっている。というのも、この作品の創作中にスーラは亡くなってしまうのだ。享年31歳、まさにこれから新印象派の旗手として、どんな表現を見せてくれるのか……というタイミングでの死だった。死因ははっきりしていないが病死だと言われている。毒林檎じゃなくてホントによかった。

冷静なスーラが持っていた内なる情熱

ジョルジュ・スーラ「ポール・アン・ベッサンの外港」

ということで、今回は新印象派のジョルジュ・スーラについて紹介した。ちなみにスーラの無口は度を超えていて画家の友だちは、彼が亡くなった後に妻と子どもがいたことを知ったそうだ。内向的でシャイゆえに、秘密主義者だったんですね。

スーラがとてもクールな人だったって聞いて「っぽいなぁ」って思ったのは私だけじゃないだろう。小さいころから理論的な勉強を続けてきた。最後まで色彩を科学として捉え、理論的に絵を描いてきた。インテリメガネがむっちゃ似合う感じの画家なんですよね。モネとかはどっちかというと右脳型の天才タイプだと思うんですが、スーラはすんごい理系だ。

そんな彼のエピソードでちょっと意外なのが「アンデパンダン展を開催した」っていうことだろう。なんとなく、スーラだったらサロンから拒否されたとき「じゃあサロンに認められる絵を描こう」と高速で切り替えそうな気がする。そんな冷静さを持っていそう。

それでも彼は「サロンダメだわ。見切りつけよう」と感じた。彼には「内なる情熱」があったんですね。これが西洋美術史を大きくアップデートするきっかけになったに違いない。

スーラは同時代のモネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャンなどに比べると、日本での知名度は意外と低い。低いけど、色触分割やアンデパンダン展と、とんでもない発明をした人だ。

もし時間があったら、そんな彼の点描をじっくり見てほしい。その「点」の一つひとつに、なんだか「魂」のようなものを感じるに違いない。

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