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パブロ・ピカソの一生をプレイバック! 世界一作品を作った男の91年

「世界一たくさんの絵を描いた画家」があのピカソであることは意外と知られていない。本名は「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」。念仏か。

ピカソといえば「ゲルニカ」に代表されるキュビズムが有名だ。あの「顔も身体もあべこべになってる」描き方である。しかし彼はもちろん、普通に上手い写実デッサンも描ける。また幻想的な作品も作ってきた。とにかく最後の最後まで好奇心旺盛でさまざまな技法を試した結果、彼は約14万7,800点もの作品を作ったわけだ。

今回はそんなピカソの描きまくった92年の生涯を、作風の移り変わりとともに、プレイバックしていこう。

ピカソの生涯〜神童すぎる幼少期から20歳まで

ピカソは1881年に、スペインで爆誕した。生まれた瞬間は息をしておらず、葉巻を鼻から流して、なんとか呼吸させたらしい。どんな療法? 荒武者産婦人科でよかった。

お父さんは画家で美術の先生。そんな環境下でピカソは流れるように絵を描き始め、小学生のころは既に神童として評判だった。

パブロ・ピカソ「ル・ピカドール」

これが9歳の絵。微かに遠近法を習得し始めており、既に天才として知られていた。そして13歳の頃には大人顔負け、というか画家顔負けのデッサンを描いている。

パブロ・ピカソ「艶めかしい表現をした石膏」

異常に上手い。興味なかったのか、台座だけフニフニしてるのが、子どもっぽくて可愛い。しかしこれ13歳の絵だ。このレベルまで達した結果、父親が絵を辞めた。息子に託し、画材をすべて手渡したという。

その後、14歳でバルセロナに移住し、美術学校の試験を受ける。1カ月の猶予がある入試の課題を1週間以内に描き上げ、しかも成績トップで華々しく入学する。この頃の師匠は父親で、とにかく父親は過去の画家たちの模写をさせた。なので、ピカソは1895年にいろんなタッチで、写実画を描いている。

美術学校に入ったピカソはメキメキ成長し、16歳で描いた「科学と慈愛」がスペインの全国展で佳作に入賞。地元の展覧会では金賞を獲得する。

パブロ・ピカソ「科学と慈愛」

その勢いのまま、アカデミーに入学するものの「まーた古典学ぶんかい! それ小学生のとき聞いたわ」と中退。出た。シュルレアリストあるあるの「古典に飽きて中退現象」。ルネ・マグリットもサルバドール・ダリもパウル・クレーもみんな同じ理由で中退している。中退万歳!

学校を辞めたピカソは独学で絵を学び始める。このころはベラスケスの絵をよく描いていたそうだ。そして18歳、バルセロナで初の個展を開催。規模は小さかったが、ピカソの絵には注目が集まり、地元紙でも取り上げられた。

このころのピカソは既にカフェで様々な芸術家と交流を持っており、なかでも画家のカルロス・カサヘマスは超仲良し。一緒に芸術の都・パリのモンマルトルに行って共同生活を送ることになる。

カサヘマスはモデルのジェルメーヌに恋をするが、失恋してしまう。そしてそのショックで拳銃でジェルメーヌを撃ち、自分のコメカミを撃って死んでしまった。ピカソは目の前で友人が自死したことにショックを受け、1901年の20歳から「青の時代」といわれる悲しみに満ちた作品ばかりを作るようになる。

ピカソの生涯 〜青から薔薇色に移り変わる20歳から25歳まで

カサヘマスを失ってからの3年間、ピカソの絵は真っ青になった。だから「青の時代」と呼ばれる。

パブロ・ピカソ「死せるカサヘマス」

青の時代、最初に描いた作品がこちらだ。明らかに10代の頃の写実的なタッチとは違う。ピカソの絵は悲しみを帯びた抽象的な表現に変わった。弾丸に貫かれたコメカミが痛々しい。

パブロ・ピカソ「浴槽(青い部屋)」

こちらも青の時代を代表する作品だ。壁に飾ってあるのはポスター画家として有名なロートレック。この絵も絵画というよりはポスターのような、曖昧な筆致で描かれている。

またこの他にも「自画像」や「海辺の母子像」、などの悲哀に満ちた青い絵を次々に描いている。

パブロ・ピカソ「自画像」

パブロ・ピカソ「海辺の母子像」

また盲人や売春婦といった社会的に弱い立場にある人をモチーフとしたのも特徴だ。そして、まるで生気がなく、やたら腕や手が長い。幽霊のようにも見えてくる。

パブロ・ピカソ「盲人の食事」

パブロ・ピカソ「うずくまる女性と子供」

そして青の時代は「ラ・ヴィ 人生」という作品で終末を迎える。この作品にはカサヘマスとその愛人、そして母子像という、青の時代を代表するモチーフが描かれた。

パブロ・ピカソ「ラ・ヴィ 人生」

しかし青の時代はずーっと部屋にこもったまま絵を描いていたわけではない。個展や2人展を開催していた。特に1904年、23歳の頃にパリのモンマルトルに「洗濯船」というアトリエを構えた。この洗濯船はゆくゆくまるでトキワ荘のように大物芸術家が集まるようになる。

この洗濯船では素敵な出会いがあった。それがフェルナンド・オリヴィエだ。ピカソはオリヴィエと出会い同棲を始める。オリヴィエはピカソの精神安定剤だった。

とにかくメンヘラモード全開だったピカソの心を落ち着け、絵に集中できるようにアシストしたのだ。ダリでいうガラのような存在であり、ミューズだった。

するとピカソの気分も回復し、1904年からは青の時代を卒業し、一転「バラ色の時代」といわれる3年間が訪れた。青の時代が嘘のようにあったかい色を使うようになる。恋ってすごい。

パブロ・ピカソ「玉乗りの曲芸師」

パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」

パブロ・ピカソ「2人の兄弟」

ピカソの生涯 〜キュビズムの発明〜

そんな幸せ全開のなか、ピカソは原始的なアフリカ彫刻に出会う。こんな感じの彫刻だ。

これらの彫刻を見たピカソは「なんちゅう生命力を感じるんだ。すんげえ自由。俺これ描きたい!」と興奮した。これらの作品はいったん人の顔や身体の構造を分解して、また新たにくっ付けている、と捉えたわけだ。正月の福笑いみたいな感じである。

またちょうどそのとき、ライバルだったアンリ・マティスがアルジェリアの美術をヒントに「青い裸婦」を描いていた。

アンリ・マティス「青い裸婦」

これに「くっそ!俺もアフリカンアートやりてえ!」と思って描いたのが大傑作「アヴィニョンの娘たち」だ。

パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」

この作品はまさにアフリカンアートをヒントに描かれた。いったん何もかもバラバラに分解して、くっ付けた。その結果、明らかに不思議な人体構造になっている。体は後ろを向いているが顔は前にあったり、目や鼻の位置がおかしかったりする。

この作品はマジで評判が悪かった。限られた仲良しの画家にだけ見せると、みんな「やっべ。ピカソ、才能枯れたわ」と言ったらしい。あまりに酷評されすぎてピカソがマジで首吊るのではないかと心配された。

しかしピカソはめげなかった。この作品をもとにして、1909年、28歳になったピカソは弟子のジョルジュ・ブラックと「キュビスム」に取り掛かる。彼最大の発明だと言っていい。

キュビスムとは見ている立体の世界をいろんな断面から切って、貼り合わせたように描いた絵をいう。

パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」

パブロ・ピカソ「アンブロワーズ・ヴァラールの肖像」

つまり1つのものを正面から見るだけでなく、ピカソはあらゆる角度から同じモチーフを描いたのだ。なおこのときの作品を「分析的キュビスム」といい、最終的には「総合的キュビスム」というコラージュまで進化することになった。

そしてこの時期のパリでは第一次世界大戦を受けてダダイズムが出始めたころであり、アンドレ・ブルトンやギョーム・アポリネールなどの変態アーティストたちはこぞってピカソのキュビズムに熱中した。

実際、キュビスムと名付けたのもアポリネールである。つまりピカソはこのキュビスムというまったく新しい武器を持って、のちにシュルレアリストになるアーティストたちと交遊を始めていたわけだ。

ピカソの生涯 〜新古典主義からシュルレアリスム、そして晩年〜

しかしダダイストの仲間たちが徴兵されるなか、いったんキュビスムから離れる。このときに当時の恋人・オルガと結婚。また息子のパウロも生まれた。

ピカソはアフリカ美術ならではの太くて短い手足と古典絵画を組み合わせた新古典主義アートを描き始める。

パブロ・ピカソ「海辺を走る2人の女」

パブロ・ピカソ「母と子」

しかし生活は順風満帆なだけでなくオルカとの関係が悪くなることもあり、ピカソはこの頃から暴力的表現や過度なエロティシズムに作風を展開させる。

そして、1936年にアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発する。このときにピカソもシュルレアリストの1人に数えられた。

しかしピカソの作品には、我が強く出過ぎていて、シュルレアリスムの思想とはまったく違うものだったのは確かだ。

パブロ・ピカソ「三人の踊り子」

パブロ・ピカソ「磔刑」

ピカソはこのころ奥さんのオルカとの仲がこじれていて、むちゃくちゃ自意識が出ている。しかしシュルレアリストたちはピカソを歓迎した。

そんなときに第二次世界大戦の火種となるナチスドイツの侵攻が始まり、ピカソの母国スペインのゲルニカが空爆にあった。そこで描かれたのがピカソの代表作である「ゲルニカ」だ。

パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

ゲルニカはもちろんナチスへの反抗だった。この作品にはこれまでのピカソのキュビスムやシュルレアリスムなどの背景が詰まっている。

ピカソはこのゲルニカの後、ほとんど絵画を描かず、文学や彫刻などに集中した。

パブロ・ピカソ「ギター」

パブロ・ピカソ「バブーン」

これらの彫刻作品は、これまでの彫刻の常識を変えた。たとえば「ギター」は針金やら金属を組み合わせた。この作品は多面的であることから「三次元のキュビスム」と評価された。

そしてピカソは1973年に亡くなる。最期の数年は何かを予感したかのように、自画像を描いた。

パブロ・ピカソ「最後の自画像」

この「最後の自画像」が、世界で最も作品を作ったアーティストの最後の一枚だ。誰よりも早熟で、天才的なデッサンを描いた男は、最後に誰よりも原始的な自画像を描いたのである。

ピカソは誰よりも冒険家だった

如何だっただろうか。非常に駆け足で申し訳ないが、これが世界一絵を描いた男の生涯である。こうして作品の移り変わりを見ると、ピカソほどの冒険家はいないんじゃないかと思う。

誰よりも子どもで、好奇心旺盛で、しかも物怖じしない。だから次々に新しい領域に足を踏み出せるわけだ。

ピカソは数々の名言を残している。それはまさに彼の人生を表したような言葉だ。

冒険こそが、わたしの存在理由である。
いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。
子供は誰でも芸術家だ。
問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。
できると思えばできる、できないと思えばできない。
これは、ゆるぎない絶対的な法則である。

ピカソの絵を観ると、何かを始めたいような気持ちになる。なんでもできそうな気がしてくるのは、私だけじゃないだろう。

子どもの頃からの経験がバックグラウンドになっているからこそ、これほどまでに傑作を描けた。しかし、子どものような純粋な心でキャンバスに向かっていたことのほうがよっぽど重要なのである。

そんな目線で、あらためてピカソの絵を見ていただきたい。「まだ私、なんか色々できるかも!」と思って、明日は違う道で出勤してみようかな、なんて思ったり……とにかく前向きになれるのでおすすめだ。

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