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印象派とは? 風景画の歴史を変えた運動・代表的な画家たちを簡単に解説!

「印象派」というとマネ、モネ、ルノアールなどなどの儚げで繊細な水彩画が特徴だ。その画風から印象派には勝手に柔和なイメージがついて回る。

印象派はこう……「日曜の午前中、揺れるカーテンの隙間から差す朝日、淡色のティーカップとスプーンが擦れる音」みたいなね。どこか可憐で優雅かつロココのようにケバケバしくない。そんな攻守最強感があってセンスいいよね。

いやしかし歴史的に印象派を見てみよう。メンタルはパンク全開で、もうほぼブルーハーツだぞ、と。カウンターカルチャーだったのは事実だ。

今回はそんな印象派のパンクさについて書く。背景を知ればきっと作品が違うように見えてくる。「睡蓮」の水底には切れたナイフが沈んでるのである。

西洋美術を長らく支配してきたアカデミズムとは

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そもそも「アカデミズム」の存在を知らなくては、印象派の功績は語れない。アカデミズムとは簡単にいうと「わしら芸大の古典主義スタンスが至高やで。新しいスタイルとか評価せんぞ!」という風潮。1600年代にルイ14世が設立した「王立芸術アカデミー」がスタイルの主軸になった。

ここでアカデミズム批判をするつもりはない。前提として学校はめっちゃ大事な場所である(馬鹿みたい)。これはもうはっきり言っておきたい。アカデミズムがあったから数々の芸術家が生まれた。

だってそれまで画家になるためには基本的に徒弟制ですから。いやもうホント一門文化で落語家みたいな世界だった。しかし学校ができたことで、一気に芸術家の卵が増えたし、専門的な技術を学べたのである。

吉本の学校「NCS」をイメージしてもらいたい。NCSがなかったら、たぶんこんなに山ほど芸人いないでしょう。さんまとか弟子2万人くらいに膨れ上がるでしょう。

アカデミズムは「食える画家」を作る場所

ただ、アカデミズムのスタンスはがっつり偏っていた。まず「ミケランジェロこそ至高で最高!!」という古典主義思想だった。

またそこから派生して宗教画や人物画(王家)は「まじ尊い。もっと描くのだ!」と奨励したが風景画や静物画は「おい汚ねえもん描くなよ。視力落ちるわ」と否定しまくった。

この背景には「食える画家になること」というテーマがある。つまり当時の画家のパトロンは王家か教会だったわけだ。そのパトロンに好かれる絵を描かなければ食えないからこそ、宗教画や人物画ばかりを描かせた。

ちなみに王家や教会にウケる絵、の背景としてプロパガンダ(芸術の政治利用)が超重要になる。当時から美術と政治はものすごく距離が近く、いい宣伝材料だったわけだ。今でいうブランディング戦略です。

1500年代の西洋画家といえばめちゃくちゃアーティストなイメージがあるかもしれない。しかしアカデミズムはきっちり学校であり、今で言う代々木アニメーション学院的な感じである。アーティストというよりは、クリエイターばっかり輩出してきた時代だった。

アカデミズムに本格的なオーバースローで一石をぶん投げた印象派

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そんなアカデミズム支配の歴史はすんごい長い。実に400年くらい続く。いやさすがに飽きるやろ。5世代くらい同じ作風を見せられてきたわけだ。

そしてその終わりを告げるきっかけになったのが「印象派」の面々だった。もう完全に跳ねっ返りの集まりである。

アカデミズム全盛の時代において風景画や静物画はまず議論の対象にすらならなかった。作品展に出品しても評価されず、基本的に画壇から嫌われ「は? なんであいつ空と海ばっかり描いてんの?前世、鳥か魚なんか?」みたいな扱いでサロンでも即落選だった。

そんな状態に腹立っていたのがモネやルノアールなどである。彼らはもともとアカデミズム出身だったが「んだよ!誇張した嘘みたいな絵ばっかり描きやがってよ! 日常の風景のほうがリアルだろうが」とガチギレだった。ギブソンのレスポールにオーバードライブをかましてベリーハードのピックでジャアアアアンとかき鳴らしたわけだ。

するとセザンヌなどの他の画家も呼応。最終的にマネ(この人もアカデミズム出身)が先輩として組織をリードして、全員で一斉にサロンに出品した。

アカデミズムはもちろん彼らの作品をすべて落とした。しかしこの年の落選数の数は明らかに異常だったという。印象派たちは、ガチで結託してアカデミズム支配下であるサロンに戦いを挑んだのだ。

敗れた印象派たちは、特に指導者・マネのヌード画が落とされたのに憤慨し「もう自分たちでイベント開こうや」と「第一回印象派展」と題して勝手に展示会を主催した。

ちなみに印象派という名前はモネの「印象・日の出」という作品に由来する。

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この展示会は大不評で、評論家から「印象(笑)。たしかに実像がない、ふわっとした絵だわ(笑)。これまだ途中でしょ(笑)」と批判されることになる。

ただ民衆は違った! アカデミズムの変わらない絵の様式に飽き飽きしていて、印象派の斬新な表現に一気に引き込まれたのだった。

印象派は第二回、第三回と「印象派展」を開催していく。当時は印象派はまさに一枚岩で「黒使うん禁止な!」とか「みんな風景描くことな!」とかルールを決めていた。印象派展はそこそこ画壇からも認知され始める。

指導者であるマネはみんなから「先輩〜印象派展に出品してくださいよ〜」と、お願いされていたものの「いや黒いるやろ」と結局1度も出なかった。

ただマネが印象派展に出品しなかった理由には(黒を使い続けたのもそうだが)、もっと大きな野望が関わっていたのだ。それが「サロンでアカデミズムをぶち倒すこと」。マネはヌード画が落とされた後もサロンに戦いを挑み続けたわけだ。あえてアウェーでアカデミズムをボコボコにすることに画壇の転覆を夢見たわけだ。

そして「スペインの歌手」で見事サロン第2位を取ることになる。見てその作品。めっっっちゃ黒使っとるから。

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サロンが神話的でない写実的でかつ静物を描いた「スペインの歌手」を評価した背景には、やはり民衆の関心がリアルな絵に寄っていたこともあるだろう。しかしマネは見事栄光を成し遂げたのだ。ここ、もう少年マンガでしょ。

そしてモネやルノアールに「サロンで勝たな。内輪で盛り上がってても画壇は変わらんぞ」と言った。

この快挙から10年くらい経ってから、印象派はちょっとギクシャクし始める。というかみんなサロンにタイマンを挑み始めるようになる。結局、印象派展は8回開催されたが、全部に出品した内弁慶はピサロだけだった。

印象派から西洋美術はガラッと変わる

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印象派たちは基本的に画壇での評価を受けなかったので、ほぼみんな貧乏なまま死んでいった。ただモネ、ルノアール、内弁慶ことピサロなどはちゃんとサロンでも評価された。彼らのパンクな精神はついにサロンを変えたのだ。ブルーハーツがついに武道館に立ったのである。

ちなみに印象派が活躍している最中に「なんやねん印象派ってよ!仲良しこよしやりやがってからに!」と脱・印象派を掲げたのがゴーギャンやゴッホ、スーラといった後期印象派の面々だ。これジャンプだったら確実に続編が出る。ナルトからボルトに移行する感じで永遠に話が続くやつだ。

2020年に印象派みたいな運動が起きたらおもしろそうだ

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とにかく印象派が400年くらい続いたアカデミズム支配に終止符を打ったわけだ。もちろん、アカデミズム全盛の時代にも静物画や風景画を描いた画家はいた。しかし彼らは「ま、私は私で好きなもん描いとこ〜♪」と画壇転覆までは考えていない。集団で一揆を仕掛けたのは印象派が最初だった。作品が多様化して売れ出すのはマジでこの後からだ。

ちなみにアカデミズムはその後「古っ!」と一喝されるようになり、姿を消した。ただ面白いのはここ50年くらいで「前衛? 何考えとるかわからんからちゃんと描けよ」と言われ始め、今ではまたきちんとしたデッサンが求められているということだ。時代は繰り返すものである。

今はもう個々の時代なので、こうした集団での絵画ブームは起きないだろう。

ただマネのようなカリスマが現れて運動が起こったら……とか考えたりする。例えば、白しか使わない「白色派」みたいな運動が起こったら、またおもしろいことになりそうだな、なんて。

それはそれで「個々人の色が求められている時代」に対するパンクじゃないか。モチーフ、豆腐と牛乳くらいしかないけど。

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