果たして宮崎駿は本当にロリコンなのだろうか
「ジブリのアニメーションはやはり別格だ」。放映されるたびにそう思う。
特に深夜アニメをはじめ、作画枚数を押さえた「リミテッド・アニメ」がスタンダードになってからは「フル・アニメ」ならではの滑らかな映像美に魅せられます。「ハウルの動く城」を観て改めて思った。色彩もデザインもストーリーも、ちょっと別格だった。何回見ても感動します。
こんなに有名なのに「ジブリの批判をする人」は、超少ないですよね。猛烈なアンチっていないと思うんです。しかし宮崎駿もいきなりスターダムにのし上がったわけではない。アニメ監督として仕事を始めたころの彼は「ロリコン」と呼ばれた時期もあった。
なんならいまだに1980年代前半のアニメ作品を観ていた人にとって、宮崎駿はナボコフよりもロリータ・コンプレックスが似合う男かもしれない。
ではなぜ宮崎駿は「ロリコンの伝道師」といわれるようになったのか。というか果たしてロリコンなんでしょうか。今回は、2021年のいまではもうあまり知られていない「ジブリはロリコン」と言われる理由について熱く語らせてほしい。
「カリオストロの城」という世界的に認められた作品
宮崎駿が初めてアニメ映画監督を務めた作品、そして日本に「ロリコン」というカルチャーを根付かせたきっかけになったのは「ルパン三世 カリオストロの城」だ。今でも年に1回は金曜ロードショーで放送される国民的アニメですよね。
「いや、ヤツはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」という銭形のセリフはもう永遠の流行語大賞。なんならルパンよりかっこいい。クールすぎて、逆にちょっと腹立つレベルの名言だ。
また崖の斜面……というかもはや壁を走る序盤のカーチェイスは、あのスピルバーグが「映画史上最も完璧なカーチェイス」と評している。ここでの次元の名言、爆弾をがっつり食らってからの「面白くなってきやがった」という台詞もかっこいいシーンだ。もう次元とルパンは修羅場をくぐりすぎて危険を感じるセンサーがぶっ壊れてるんですよね。並みのピンチはピンチじゃなくてエンタメなんですよ。
宮崎駿はこの作品に5億を使って、4カ月半で作り上げたそうだ。この仕事の速さはかなりえぐい。宮崎駿は後にも先にも「この仕事が最もきつかった」と振り返っている。初アニメ監督ということでだいぶ力が入っていたんでしょう。
宮崎駿が「カリオストロの城」で巻き起こした”ロリコン・スキャンダル”
しかし公開当時、この作品は大爆死だったことをご存じだろうか。5億つかって興行収入は6億1,000万円。ルパンの映画作品でいうと前作より少なく、宮崎駿はこの後5年ほどアニメ映画を干されている。
なぜ干されたのか、というと「コアなオタク向けに作りすぎたから」だ。宮崎駿はこの作品で峰不二子という永遠のヒロインを排して、クラリスという16歳の少女をメインヒロインに据えた。
設定としてクラリスはカリオストロ伯爵というオッサンに無理やり結婚を迫られているかわいそ過ぎる娘だ。その娘をルパンが救うのがメインの流れである。そのなかでルパンが結婚式に乱入して発するセリフに「妬かない妬かないロリコン伯爵、火傷するぞー!」というものがあるんですね。
ここではっきりと「ロリコン」という単語を使ってるんですよ。ただ1979年公開当時、ロリコンという単語はまだまだ市民権を得ていないんですよね。
そもそもロリコンが今の言葉の用法で使われたのは、1972年刊行の澁澤龍彦「少女コレクション序説」から始まったとされていて、1970年には少女のヌード写真集ブームという、めちゃめちゃアブないムーブメントがあった。
それで1975年に始まったコミックマーケット(コミケ)の、しかも限られたディープなコミュニティのなかだけで使われていた専門用語なんです。そんな用語を宮崎駿は全国公開の映画で使ったわけですね。しかもクラリスは16歳であり、クラリスは約10~15歳年上のルパンを「おじさま」と呼び、ラストにはキスを迫るシーンすらある。リアル虎舞竜ですよ。
そんなクラリスというキャラは、のちにジブリの代表取締役社長になる鈴木敏夫が編集をしていた「アニメージュ」で取り上げられて、大人気になるんです。1982、3年の「好きなキャラランキング」では堂々の1位。コミケなどで「ヤバい同人誌」が売られ始めるんですね。
これは「シベール」といわれる同人誌の1種で、もはや世間に見せられな過ぎて、真っ黒な装丁で売られる。ロリコンは完全にアングラカルチャーの1種になっていくわけです。
シベールの表紙
その後、1980年代からロリコン作品はブームになる。コミケではシベールのサークルが長蛇の列になり、深夜アニメでもくりぃむレモン系の番組をはじめ、一種のカルチャーができるんですね。「宮崎駿はロリコンだ」というイメージはクラリスから定着した。
宮崎駿が重視しているジブリの「写実性」
「カリオストロの城」以降も、ジブリ作品には10代の女性が必要不可欠になる。この設定も「宮崎駿ロリコン説」に拍車をかけた。
1984 3 「風の谷のナウシカ」
1986 8 「天空の城ラピュタ」
1988 4 「となりのトトロ」「火垂るの墓」
1989 7 「魔女の宅急便」
1991 7 「おもひでぽろぽろ」
1992 7 「紅の豚」
1993 5 「海がきこえる」
1994 7 「平成狸合戦ぽんぽこ」
1997 7 「もののけ姫」
1999 7 「ホーホケキョとなりの山田くん」
2001 7 「千と千尋の神隠し」
2004 11 「ハウルの動く城」
2006 7 「ゲド戦記」
2008 7 「崖の上のポニョ」
2010 7 「借りぐらしのアリエッティ」
2011 7 「コクリコ坂から」
2013 7 「風立ちぬ」
2013 11 「かぐや姫の物語」
2014 7 「思い出のマーニー」
とまぁほとんどの作品で少女が出てくるわけなんです。このことからも「宮崎駿はやはりロリコンなんじゃないか」という声が上ったわけだ。ジブリはオッサンの性癖が反映されているんじゃなかろうか、と。
ナウシカのDVDのオーディオコメンタリーでは、当時スタッフでのちにエヴァをつくる庵野秀明がナウシカの胸の揺れについて熱弁しており「女性キャラの胸を揺らす」という表現をしたのは宮崎駿が初めてではないか、と真面目に語っている。
ちょっと脱線するけど、宮崎駿の真骨頂はこうした「写実主義」な気がする。ジブリってSFでファンタジックなストーリーに心躍るものだ。なぜ没入できるか、というと細部の描写のリアリティがあるからなんですよね。
「耳をすませば」では宮崎駿が作画に関与せず近藤喜文が手がけている。そこで近藤が「誰もいない場所で、主人公の雫がしゃがみ込む際にスカートを押さえる描写」を見て、宮崎駿はめっちゃがっかりした、と。この描写で雫は「考えて行動する自意識過剰の子になってしまった」というわけなんです。
本来、月島雫というキャラクターは快活でパワフルなキャラクターであり、誰も見ていない場所でなら下着のことを気にせずに、感覚的に座っちゃうような子なんですよね。
このエピソードを見ても、宮崎駿が考える「リアルさ」が分かるに違いないです。とことんキャラクターを組み上げて人間性を構築していますよね。
10代の女子の複雑性がジブリをおもしろくしている
そんなリアルさを描く宮崎駿にとって「10代半ばの女子」というキャラクターは描いていて面白かったのではないか、と思う。というのも10代の女子って、人類で最も複雑な精神状態な気もするんですよね。
彼女らって同年代の男子より、何倍も人生哲学を考えていますよね。男子は基本的にずーっとアホですけど、女子はコミュニティのなかで周りの目を意識したり、冒険したくなったり、おしとやかになってみたりと、忙しい。ある意味で不安定で危うい存在だ。いわゆる「少女性」というやつですね。
例えばトトロのさつきはトウモロコシにかぶりつく野生児っぽい顔もあれば、メイがいない不安で涙をする一面もあり、さらに走る車に飛び出して止める度胸もある。
ナウシカは王蟲に立ち向かう勇敢な顔と、母性の両方を持っているし、シータは清楚な王女の顔もあれば、行動的な面も持ち合わせている。この女性の複雑なキャラクターをめちゃめちゃリアルに描けるからジブリ作品っておもしろいと思うんです。
ラピュタもナウシカも男子だけで描くと、単純な冒険活劇化しちゃうはず。パズーだけでムスカ倒すと、もうバトルアニメだ。筋肉量の話になるもの。そうじゃなくて、きちんと慈愛や人間性、哲学までを描くことが大事。そのために宮崎駿には”ロリキャラ”は必要なんだと思う。
宮崎駿は確実に「少女愛」を持っていると思います。ただロリコンではないと思うんですよね。セクシャルな欲求というより、精神性的な意味での少女愛だと思う。
ただ、鈴木敏夫自身がインタビューで「宮崎駿はかなりスケベだ」と言っているんですけど、それも私としてはセクシャルなシーンを描くことで少女から女性への羽化を描いていると思えるんですね。
10代前半のナウシカの胸を大きく描いたのは、スケベオヤジだからじゃない。キャラとしての抱擁力を描きたかったからに決まってる。ロリコンは未熟さに萌える特別な人種なので、きっと小さくするはずですよね。
そんな”ロリキャラ”の哲学に注目してジブリ作品を観てみると、新たな楽しみが見えてくるかもしれません。ストーリー、作画など楽しめる部分が多すぎるジブリですが、ぜひ次回見るときは「女子の魅力」に注目してみてくださいね。
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