人から必要とされるのが社会人?
「社会人として、人から必要とされる人になってください」
ある著名な方が、学校を卒業し新たな一歩を踏みだす人に向けて送った、長いメッセージのなかのこの一文に、モヤモヤ違和感、なんだか心地が悪い。
必要とされる人
大前提として、人は誰しも必要とされたい願望がある。
それに関する科学的な話はいずれ別の記事にまとめるとして、数年前に他界した、日本理化学工業株式会社の大山会長が伝え続けた、導師の人間の究極の幸せの一つに「人から必要とされること」とある。
日本理化学株式会社:https://www.rikagaku.co.jp/handicapped/index.php
自身の経験からも必要とされる人であったほうがいいとは思う。
とは言えね、学生生活を終え世間の荒波にもまれるであろう人たちに、「人」から必要とされる「社会人」というのは抽象的、かつ曖昧。
「社会人」に万能を求める社会の風潮
この数年で「社会人として」というWordが、とてもよく聞かれるようになった。それまでも、成人式や卒業式といった節目のセレモニーで送辞として使われることはよくあった。
HR系広告代理店の営業として、多くの経営者と関わっていた十数年前。
どんな人を採用したいかという問いに、「社会人として」のあとに続くWordは「責任感」「マナー」「一般常識、一般教養」は備えていてほしいという、シンプルでわかりやすい納得できるものだった。ところが、経営コンサルタントとして中小企業などに関わっている今、経営者がスタッフに求める社会人像が大きく変わったことを実感する。
これらが近年、「社会人として」のあとに続くWord。
「コミュニケーション力」「自ら考え行動する力」「自立する力」「人生を設計する力」「判断力」「調整力」
いやいや、皆さん ”求めすぎです!”
それに本来これらのスキルは、働く、仕事することでの様々な経験を通し、長い時間をかけて培われるものばかり。もともと備わっているものではないし、全ての人がバランスよく全てのスキルを備えることができるわけでもない。にも関わらず、疑問を抱くことなく、悪気もなく、こんなにたくさんのスキルをスタッフに求める経営者が多く、あまり良くない変化だなと思う。
大手や外資は事情が異なる。
それについて詳しくは書かないけど、日本の企業の多くが中小企業であることを考えると、この良くない変化の影響が「社会人として人から必要とされる人…」に集約されているように思う。
「社会人」という曖昧さ
だいたいね、何気によく使われる「社会人」というWordの意味は
⓵ 社会を構成する一員としての個人
② 社会で職業に就き、活動している人
ほとんどの辞書にこのように書かれていて、⓵は全ての人が社会人ということになり、②は何らか職に就いている人となるので、例えば専業主婦や失業中の人などは該当しなくなる曖昧さ。ちなみに、他国の友人いわく欧米には社会人という概念がないそうで、Wikipediaにも同じことが書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BA%BA
なかには学生を含むとしている辞書もあるけど、実はとても抽象的で、本来明確な共通の意味のもと使われていたものではなかったということ。
ところがこの数年、HR系エージェントのサイトやオウンドメディアだけでなく、大手メディア各社、教育機関、人材育成系の企業、コンサルタント、企業、SNSでもよく使われている。
そうなった背景である、経産省の企みは別の記事にまとめるとして…
自身のスキルは棚に上げつつスタッフに多くのスキルを求める経営者と、何とかそれに応えようと一生懸命になる人たちの関係を見ていると、誰のためにもなっていなくて、経済が成長しない理由の一つでもあるなと思う。
何より経営者、組織などの経済をまわす側が「社会人として」というWordを、都合のいいように使い、雇用される側を都合のいいように使っている。そんな印象を強く受ける。※あくまで主観です。
「人から必要とされる」
そこに「人から必要とされる人」が続くと、これはもうとても最強。
特に、自己確立の途上段階にある人たちは何ら疑うことなく、「社会人たるもの、人から必要とされなければいけない」と、無意識に思いこんでしまうことも少なくない。
これはとても危うい。
なぜなら本来
仕事上必要とされるスキル=人から必要とされること
にはならないことと、この場合の「人」とは誰なのかが状況により変わるので、業務上大きな間違いを犯す可能性が高くなる。
例えば、もうかなり以前の実例。
生活保護を担当していたある地方の役所のケースワーカーが、不正受給に加担した事件があった。その受給者がケースワーカーを利用しようと思ったかどうかは少し置いておいて、想定できるケースワーカーの問題点は2つ。
・生活保護が、誰のための、何のための制度か理解できていなかった
・そのため目の前で困っている人を、助けなければと思ってしまった
目の前にいる人が、自分の力を、助けを必要としていると思ってしまい、対人援助(人の支援を行う職種)にあってはご法度の、逆転位(相手に感情移入してしまうこと)によって、制度の目的から外れたことをしてしまったと考えられる。心理学でいうところの、依存と共依存。
DV被害者や、何らかの依存症のパートナーから離れたいのに離れられない心理状態と近い、もしくは同じということ。
これを営利企業に当てはめると
お客様、取引先、上司から無理なことを言われても、この人にとってはそれが必要なのだと思ってしまうと、自分が何とかしなければ、助けなければなどと思ってしまい、企業や組織の方針から外れたことを自己判断でやってのけてしまうということ。
実際、それが誰であれ
「君の力が必要なんだ」のフレーズに揺さぶられる人は多い。
「認められる」と「必要とされる」は違う
日本理化学工業株式会社の故大山会長が言う「人から必要とされること」とは、正当に個人の「能力が認められること」が大前提で、そこには適材適所という考えがベースにある。
ただ、適材適所は実際やってみないとわからないだけでなく、経験とともにできることも増えていくので、適所は変化を続けるもの。あたりまえだが、個人による差はあるのがあたりまえという考えが、いつのまにか失われていっているように思う。漠然と「目の前の人から必要とされること」「目の前の人の期待に応えなければ」に縛られ、どこ目指していいかわからないまま闇雲に、一生懸命になる人を増やしてしまっている。そして、本人たちもそれに気づいていないことが多い。
スキルとは経験とともに積み上がる能力、技術、技法のこと。経験なくして積み上がっていかないものだ。考える、行動するを繰り返してこそ積み上がり、結果として、そのスキルを備えた人が必要とされるもの。
「人から必要とされる社会人になる」と言うのは
その途中経過の説明があって、はじめて成り立つものではないだろうか。
「スキルを認められ必要とされること」と「人から必要とされること」の違いを整理して、理解しておかないとDVや詐欺的団体、表面化しにくい家族間搾取などだけでなく、企業や組織にとって都合よく利用されることになりかねない。
気づくこと、考えること
そうならないために必要なのは
・気づくこと
・調べること
・考えること
Technologyの進化によって社会は大きく変わる。
別の記事で書いたように、価値観も、仕事観も、人生観も変化する。
その変化についていく、流されるのではなく、そのなかで自分はどうありたいか、どう生きたいかを考えることが今、本当に必要なんだと思う。
シャワーのごとく情報が溢れる社会のなかで、特定の人の言うことだけを信じ込んでしまうのもある意味、依存。わからないこと、知らないことは、なるべく複数の人の考えと、これまでの背景を知り、自分で考え答えをだすことが、振り回されず自分の人生を生きるために、とても重要なことだと思う。
この何年かで耳に慣れきった
「社会人として」ではなく「一人の人として」どう生きたいか、どうありたいか、考えなければいけないタイミングだなとつくづく思う。
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