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【戦争と家族】祖父は毎夕、戦争の傷のためお酢を塗っていました。

90年前の今日、
満州事変が起きました。
正確には、日本陸軍が起こしました。

90年前、もう昔の話だなあ、
って思いますね。

でも、この満州事変から
日本は次々と、間違った選択を
とり続け、最後には敗戦に至ります。
ヤバくなるたびに、どんどん
周りを悪者扱いして、
対話の姿勢は失っていき、
ますます追い詰められ、、、、。
もうまるで、悲劇の教科書みたい。

満州事変→リットン調査団→国連脱退→
日中戦争開始→二・二六事件→
ドイツと提携→太平洋戦争開始→
原爆→敗戦。

今でこそ、この
負の連鎖にしか見えない流れが
陸軍による満州事変をきっかけに、
大きな音をたてて歯車が回っていくのは
よく認知されていますが、
90年前の軍人たちはまさか
そんなこと想像してなかったでしょう。
歴史が面白いのは、失礼、
大切なのは、その辺りかしら。

そういえば、
私の父方の祖父は
海軍の役人軍人でした。

敗戦直前に、結核にかかり
療養のため、広島・呉にあった
海軍軍港から、
故郷・和歌山にもどり、
戦後の翌年には亡くなりました。

「戦争未亡人」という言葉があります。
戦争で夫を失った女性は、
みだりに別の他家に嫁ぐのは、
けしからん、英霊となった夫の魂を
弔い続けなさい!という意味で
今で言うシングルマザーを
強要させました。
法律とかではなく、
なんとなく、でも誰もが、
世間がそう決めたんです。
 
そうでなくても、
戦後デモクラシーが吹き荒れる時代、
元軍人の家庭は、
世間から白眼視されました。
ろくな仕事にもつけず、
子供はいじめられ、
家には投石され、、、、、
このどこが「デモクラシー」だろう?

作家の色川武大や阿部昭も
父親が軍人で、戦後とても
辛いめにあった話を残しています。

再婚ができないおかげで、
元軍人妻の祖母は 
すぐに今からでもできる仕事を探し、
行商人、担ぎ屋になりました。

これで戦後にパリ留学した
須賀敦子みたいに学歴があったら
また道もあったにちがいないと
思うと可哀想ですね。

田舎の野菜や卵を背中に
ぎっしり積み込んで
街(和歌山市)に行って売り払い、
紀ノ川で育ったお米を
また背中にどっさり乗せて
紀南に帰り、それを売る。
祖母に運び賃として手元に残るのは
極わずかだったそうです。

若い頃から荷物運びで
子供三人を育てた体は、
曲がった釘のように垂直に
腰が曲がっていました。

戦争未亡人、という
世間の白い?目線がなかったら
もう少し幸せな人生を
送れたかもしれません。

戦争の匂いという意味では
母方の祖父は、毎日、
膝下にできた怪我のため、
お酢を患部に塗っていました。

母方の祖父は一般の徴収兵でした。

子供だった私は、
祖父はなぜ夕方になると
自分の部屋にこもり、
酸っぱい匂いがするのか疑問でした。

後から知ったのは、
祖父は内地で、戦争訓練のため
膝下に銃弾を受け、
当時だから医学的に適切な対応もなく、
銃弾は取り抜いたものの、
周辺にずっと膿がたまっていて、
それを消毒するのに、
お酢みたいな薬品を
毎晩塗っていたのでした。

今ではお酢の匂いがすると、
反射的に戦争に行った祖父を
思い出すようになりました。

戦争、という
人が人を殺しあう行為が
どういうものかは、
わかりませんが、
それに関わった人が
それも自分にはかけがえない
家族や親戚にいるのは事実です。

90年前の満州事変は
もう昔話だ、とは言いたくない
モヤモヤした気持ちがあって、
長い記事になってしまいました。

もし良かったら
身の回りに戦争に行った方、
被害を受けた方がいたら
ぜひお話、お聞かせください。

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