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【小説への疑問】小説の語りはなぜ人工的になるんだろう?問題を、三浦しをんはかく語る

三浦しをんの小説書き方講座を
読みながら、もう3ページに一回は
目からウロコが落ちています。
恐るべし、三浦しをん!
まずは、これ!
「小説の語りってどうしても人工的なもの」
「この語り手は、いったいだれに向かって、
なんのために、どうしてこんなに流暢に
語っているのか」
これは、めっちゃわかる。

ずっと感じてましたが、
ああ、とうとう言語化してくれたあ。
三浦しをんの才能の豊かさは
こうした、みんなウスウス感じてるけど
言葉にはまだなってない感覚を、
まるでストレンジャーのような視点で
言葉にしてくれる力です。

うんうん、そうでした。
好きな作家の小説やベテラン作家の小説なら
上記のような感覚にはならない。
ところが、初めての作家の小説や
また、ネットに載ってる作家志望者の
小説を読む時、どうも、具合が悪くなる。

どこの誰とも知れない、
いや、存在すらしてない架空の人物が
何やら目の前の景色を呟いてる。
なんのために?
また、まるで読む人みんなが
一緒に付いてきてくれる前提で
ああだ、こうだと内面を披露してく。
読んでる私をどこに連れていくつもり?
なんで、赤の他人の、いや実在しない人の
気紛れなモノローグやナレーションに
つきあわなくてはならないの?

こうした感覚になったこと、ないですか?
小説好きな人には、小説はみな凄いんだ、
みんな面白いんだ、そうした前提で
話が進む傾向があります。
その前提をまるっと疑ってかかる
小説家志望者は、意外といない。

これは悲しいことです。
小説好きが小説好きにだけ作品を
届けている。
開いた世界ではなく、
交流として閉じてしまっています。

人工的な語り口には
たしかにウンザリさせられてきた。
私は小説はみな素晴らしいとは思ってない。
割りと厳しめに本を開く。

現代小説は読者を減らしてる80%の
原因は、まさにここにある気がする。
視野が閉じてるんですよね?

そこへいくと、三浦しをんは、
自分が小説家であるにも関わらず、
まるで本好きでもないくらいの
部外者というか外からの視点で
小説の在り方や小説な書き方について
目からウロコのような視点を、指摘を
いくつも与えてくれる。
やはり、恐るべし、三浦しをん。

世にあふれる小説の語りは確かに
なぜだか、人工的で、
でも誰もが疑問を持たずに
読んで付いてきてくれるという前提で
書かれていく。

その点、エッセイは、その作者が
最近の出来事を話しますよ、という
前提がはっきり見えるから
安心して、不安にもならず
作者の意図に付き合って行こうとなる。

三浦しをん最新刊エッセイ
『マナーはいらない』(集英社)
「5皿め」「6皿め」について
目からウロコが落ちた箇所について
書いてみました。

小説はもっと
小説大好き人間だけではなく、
小説はちょっと好き…くらいの人にも
門戸を開放した方がいい、
そんな気がするんですが、
どうでしょうかね?

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