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【純文学の価値】『金閣寺』を読んで、前向きなパワーが貰えるだろうか?

小説や文学には、
3種類あると思うんです。
 
まずは、昨日のための文学。
つまり、自己をふりかえる文学。

2つめは、今日のための文学。
今、必要なものとして、
娯楽や研究のために必要な文学。

3つめは、明日のための文学。
未来を切り開くための文学。

2番目と3番目は、役割的には
同じでしょうかしら。

どれもが文学だし、
どれもなくてはならない文学。

でも、人によっては
過去のための文学なんて
必要はないと言うかもしれない。

いや、そもそも文学は
過去をしっかり観察した場所から、
生まれるものであり、
むしろ、未来のための文学なんて
存在し得るだろうか?
そう懐疑的な人もいるでしょう。

未来のための文学といわれて
すぐに思いつくのは少ない。

未来のための本は、
おしなべて、
ノンフィクションや
ビジネス書や
自己啓発本ばかりが
頭に浮かんできます。

まあ、夏目漱石『こころ』や
三島由紀夫『金閣寺』を読んで、
生きる活力をもらえた、
と言う人は少数派でしょう。

それでも、
『こころ』や『金閣寺』は
日本の文化的財産だということに
代わりはないんですよね。

なにが財産なんだろう?
どんな価値があるんだろう?

時々、「純文学って、
どこが面白いんですか、
暗いし、ウジウジしていて、
読んでいて、どこが面白いのか、
よくわからなくて」
そういった話や意見を耳にするんです。
いっけん、ごもっともな意見です。

たしかに、
少年ジャンプの漫画みたいな
エンタメ要素は、ない。
ミステリー小説みたいな
ハラハラドキドキも、ない。

でも、どうも、この、
屈折した孤独な男は
なぜこんなふうに生きる道を
選んでいくのだろう?
と避けがたい謎に
魅了させられるのが純文学か。

或いは「小説家の文章のクセや
選びとるテーマの独自性が
なんてユニークなんだろう?」
というような疑問や違和感に
惹かれていくのも確か。
それがやがて、
得も言われぬ「純文学ハイ」の
境地に読む人を連れていってくれる。

漱石や三島だけではない。
村上春樹の『海辺のカフカ』だって
最後まで読んで、
あのラストにしばらく呆然となり、
言葉を失った人も多いでしょう。
そこでは、万人が同じ感想を
感じることはないでしょう。
万人が同じメッセージを春樹から
受け取る事もないでしょう。

それがおそらく、
村上春樹の魅力なんでしょうね。

みんなが同じような感想に至る
ミステリーやエンタメ小説には
それがない。

とはいうものの、
ミステリーやエンタメ小説の、
人間をひきずり込む強いパワーは
純文学にはありません。

人は、読みたい時に、
純文学を読み、
読みたい時に、
エンタメ小説を読む。
要は好みや性格の問題ですかね。

だから、
三島由紀夫を読んでるから凄いとか、
東野圭吾を読んでるから凄くないとか
そんな道理にはならない。

だから、どうか
三島由紀夫を読んでるからとか、
太宰治を読んでるから、
あいつは変人だとか、
あいつは理解ができないとか、
そんなふうには思わないで頂きたい。

どちらのクセのほうが
個人的な好みかどうか、
要はそれだけの話でしょうから。

まあ、今は、
純文学VSエンタメ小説の間に
できている溝よりも、
本を読む人VS本を読まない人、
という溝のほうが
はるかに深く大きくなってきました。
そっちのほうが問題でしょう。

最近、本当に、
本を読む人はたくさん読み、
本を読まない人は、
全体の9割でしょうか、
本当に本を読んでいないから
ビックリしてしまいます。

これから先、
この溝は、広がるのか?
埋まっていくのか?

 

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