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プラスチックの祈り

20240731

自分自身の意識や認識が信じられなくなってしまえば、人はどうやって生きていけばいいのだろう?
自らの観察力、判断力、思考力をどの程度信頼していいのかがもう分からなかった。

小説を書くことは、自分という人間にとって日常そのものだった。

父から学んだことの一番は、とにかく人間が生きていく上で最も肝要なのは”バランス”だということだ。そして、小説家にとって何より大切なことは、常に自分が持つそのバランスを意図的に壊し続けなければならないということだった。父はよくこう言っていた。
「どんな時、どんな場所でも人間は安定することによって幸福を持続できるようになる。
だが、その幸福の中には一片の芸術も存在し得ない」

幸せになりたいが、幸せになってしまっては書けなくなる。書けないほどの不幸はないのだから最初にさかのぼって自分は絶対に幸せになってはならないのだという考えからこの歳になっても容易に抜け出せずにいる。一方、妻を失ったいまでもその盲信のおかげで筆を折らずに生きていけているという実感はあった。
妻を亡くしてからこの方、作品に行き詰まりを感じているのは事実だ。主因が妻の死にあるのか、それとも長い作家活動の末に辿り着いた、これがお決まりの衰えであるのかは自分でもよく分からない。恐らくはその両方が作用しての膠着なのだろう。
何十年も自らの頭の中にあるもろもろをはっきりと言葉にしてきた挙句、ますますこの世界のことも時代のことも他人のことも、そして自分自身のことも分からなくなってきている。

ー優れた着想は、時間ではなく、集中によってもたらされる。

ー時間だけが、優れた着想を運んでくる。

ー優れた着想は、強い集中を継続するときに初めてもたらされる。

もともと着想というのは深い思考の入口のようなものなのである。だから、着想というのは、何らかの考えを一つに煮詰めていくときに必要なある種の触媒だと捉えるべきだろう。
だとすれば、着想はそのものずばり直感の産物ということになる。着想には集中も時間も必要ないというわけだ。

ー優れた着想は、ある日、突然のように頭上から降ってくる。

これが本当の正解なのかもしれない。
私が言いたいのは、人間の言葉、考え、思想、主義もろもろの本体というのは、こうした考え堂々巡りの産物に過ぎないということである。
ぶっちゃけた話、人間というのはろくに考えずに何事も語っているし、またそうする以外に術がないのだ。人間と人間との言葉のやりとりなど、所詮はその程度のものであって、私たちは誰の言葉も信用してはならないし、信用できないし、それは自分自身の言葉や思念のようなものについてもそのまま当てはまってしまう。

他人様にも迷惑を極力かけずにバランスを意図的に壊すには、酒が何より手っ取り早い手段だろう。
酒浸りの暮らしは意図的にバランスを壊すためではなく、発狂しそうな自身を安定させるための苦肉の策として始まったのだった。 

幸福になれば書けなくなると信じてきたが、幸福にならないことによって何十年も書き続けてこられたことで、いまやその過去の堆積自体が“幸福の持続”や“人としての安定”へと転化してしまったのかもしれない。
だとすれば、今度こそ小説が書けないという絶対的な不幸を引き受けない限りは、もう新しいものは一行も書くことができないということになる。
ならばいま我が身に降りかかっているプラスチック化という奇怪な現象は、まさしくその究極の不幸に他ならないのではないか、とたまに思うこともあるのだ。

絵や活字に触れていると自分の周囲に結界のようなものが生まれることにすでに気づいていた。その結界さえ作ってしまえばこっちのものだった。何人もその中に侵入することはできなかったし、他の何物にも興味を奪われることがなかった。
小説を書くようになってからは、書くことがすなわち結界を張り巡らすことだった。書いているあいだは、この世界に自分しか存在しないと信じられるのだ。 

親友だなんだと言ってみたところで、互いの利害が相反したり、自らの関心事に心を奪われてしまえば相手の身の上など微塵も顧慮しなくなる―それが人間なのだと思い知った。

三十有余年という時間の波に洗われると、思い出というものはへこんだり削られたり、変色したり、さらには最初の姿とは似ても似つかないものに生まれ変わってしまったりす呪るのかもしれない。
たとえ一つの“不動の事実”が、その場その瞬間に存在したとしても、それを眺めている人々の記憶は、事実が起きた直後から各者各様に観察され理解されて一人ひとりの"憶えたいように”憶えられていく。そして時間の経過とともに、記憶の摩耗や重複、解釈の変更など実にさまざまな変化、修正が施されて、幾十年後かに人々が寄り集まって互いの記憶を突き合わせてみたとするならば、もともとの“不動の事実”などあたかも最初からなかったと思わせるほどに、それぞれの記憶する事実はバラバラになっているのかもしれない。
そしてそうなったとき、始まりにあったはずの“不動の事実”が一体どのようなものであったかを客観的に記述する術を我々は全く持ち合わせていないのではないか?

※原発

原発事故を収束させるには人間の生命を動員しなくてはならない。誰かが死ななくてはならない。原発というのはそういう種類、性格の発電所なのだ。
これは端的に言えば戦争状態と同じだということだ。
いざとなれば決死隊を組んで何が何でも原子炉を冷やさなければならない。決死隊=特攻隊、要うするに生還を期すことのできない部隊を投入しないと原発の暴走は止められない。
戦争における特攻は戦術の外道ではあっても、しかしあり得ないわけではない。ある部隊の全滅を前提にした作戦は特攻に限らずどの国でも採用されてきた。そして、人類がそういうどうにもならないゲームを飽きず繰り返してきたというのは明白な歴史的事実でもある。
航空機事故、列車事故、自動車事故、炭鉱や鉱山の事故、さまざまな工場設備での事故。あれこれあげつらってみても、特攻隊の投入が現実味を帯びる事故はやはり原子力発電所の事故以外にはない。他にかろうじて想定できるのは、実験室で作られる殺人ウイルスや細菌のたぐいが外部に洩れたときくらいだろうか。

現在もあの原発で収束作業に従事している人たちはかなりの放射線量を浴びている。むろん線量計を身につけて作業にあたり、被曝線量を厳密に測って、限度を超えた人は作業から離れることになってはいる。だけれど、作業員に限ってはすでにして被曝線量の上限そのものが大幅に引き上げられている。作業員の中には線量計をわざと外して被曝数値が増えないよう工夫した上で作業を続けている人もいるという。
あの現場ではたくさんの線量を身に浴びながら作業している人たちがいるし、健康被害が充分にあり得るほどの線量をすでに浴びた人だってきっといるだろう。
原発がひとたび事故を起こしてしまえば誰かの肉体が被爆という危険にさらされ、最悪の場合は、誰かが犠牲にならなくてはならない。原子力発電というのは最初からそういうものなのだ。
金銭欲や自暴自棄、無知や知恵の不足につけこまれ、誰かが過剰な被曝を受け入れてしまっているのではないか?またはそういう過酷な作業をやらせることで大儲けをしている狡猾なやからがいるのではないか?

我々は原発がなければ電気が作れないわけではない。とりあえず電気料金を上げれば別の手段で電気なんて幾らでも手に入れることができるし、その技術も充分に開発されている。とどのつまりは、電気のコストを上げないために原発が必要で、または電力会社のバランスシートを真っ赤にしないために必要で、そのために私たちは人柱や特攻隊が必要な戦争仕様の原子力発電をいまだに続けている。

反戦という点においては、集団的自衛権よりも原発の方がより戦時的な現実味を内包しているにも関わらず、安保法案反対派が反原発を優先する気配は見られなかった。
どこの誰だか知らない人々が原子炉の清掃作業で被曝したり、さらには大事故で故郷を追われたりするのはいかんともしがたいが、自分や家族、恋人が戦争に行かされるなんてことは冗談じゃないし、絶対に許せないという話なのだろう。

先々に待っている出会いの総量が、過去に出会った人々の総量よりも確実に少なくなった時点で、人間は秤が重い方へと傾くように過去の側へと持っていかれ易くなるのかもしれない。

それより何より、いま現在、この頭の中にある記憶は果たしてどれくらい正しいのか?
自分は何を忘れ、何を憶え、何を記憶違いしているのか?
そうしたことを一度しっかりと検証し直した方がいいような気がする。
記憶の正誤や有無を問うという行為は、自分とは一体誰なのかと問うことと同じだった。

「男は仕事を辞めたら、何はなくとも、教育と教養が大事なんだそうです」
「きょういくというのは、今日行くところがあるってことらしいんです。で、きょうようというのは、今日用事があるってことなんだそうです。それで今日行く、と今日用。なかなかいいでしょう」

「何が本当かなんてどうでもいいんですよ。本当なんて、そんなものはどこを探してもなくて、本当かどうかを決めるのは全部僕たちの腹次第でね。僕たちがこれは本当だと思えば、それが本当なんですよ。もっと言うとね、いま僕がこの手でぼんちりの串を持っているじゃないですか、これだって本当に持ってるかどうか分からないわけですよ。 というか、このぽんちりの串が本当にあるかどうかだって分からない。ただ、僕や姫野さんがあると思い込んでるだけなのかもしれない。 物事なんてのは、結局、全部そうなんだと僕は思うんです。全部、僕たちが思っているだけでね、この僕たちの脳味噌がたったいま吹き飛んでしまったら、もうそこには何にもありゃしないんですよ」

「たとえ妄想でも全然構わないと僕は思うんですよ。大袈裟に言えばね、この僕たちの人生そのものが妄想みたいなもんでしょう。ある日オギャアと生まれて、どこかの時点で俺は俺、私は私だと信じ込んで、それから先は俺がどうした私がどうしたってそればっかり。こいつが好きだのあいつが嫌いだの、これがうまいだのあれが不味いだの、ここが痛いだのあそこが痒いだの、そんなの全部、言ってみれば自分の頭で妄想してるだけですもんね」

人間というのは幾つになっても、他人の目から解放されることがない。無人島にでも移り住まない限り一瞬たりとも素っ裸で外を歩けないという生活は、たとえば他の動物たちの目から見ればとんでもなく息苦しいものなのではなかろうか。

肉体の一部がプラスチック化するのであれば、記憶の一部のプラスチック化だって充分にあり得るだろう。プラスチック化によって欠けた記憶が、何かの拍子に再生する。脳の一部にプラスチック化が起きたと仮定すれば、そのような現象が生じたとしても不思議ではあるまい。

―細胞のがん化とプラスチック化とのあいだにはどのような相関があるのだろうか?
我が身のプラスチック化とは、『精神のがん化』を防ぐために心身が編み出した苦肉の策ではないか、と最近は考えていた。
「発狂の限局化」ということだ。
妻を失ったストレスを飲酒によってやり過ごしてきたものの、もうこれ以上、酒を飲むとアルコールの影響で精神に異常をきたすという段階にまで追い込まれ、そこで我が心身は肉体の部分的なプラスチック化を実行したのではないか。単に酒をやめてしまえば、いまだ増殖を続けるストレスは行き場を失い、正常な意識を直撃してくる。それを防ぐには、これまでアルコールで溶かしてきたストレスを今度は身体の一部分に流し込み、 プラスチックで固めて排泄するそうやって身体の各部にストレスを散らし続けることで致命的な発狂を押しとどめているのではなかろうか。
そんな気がするのだ。
これは実は、がん発生のメカニズムと非常によく似ている。がんもまた長年にわたるストレスが免疫力を抑制し、そのために異常細胞を排除できなくなって生じる疾患だと言われている。東洋医学では、がんは文字通り、肉体を死に至らしめるような汚れた血液を一カ所に集め、なんとか生体機能の維持を図ろうとする一種の貯血タンクだと捉えられているのだ。

世界を秩序と規則に支配された統一体だとする見方は、歳と共に色褪せていく。
「地球は一つ」だの、「人類は皆きょうだい」だの「宇宙船地球号」だの、そういう言葉がいかに空疎であるかを我々は日々起こる地域紛争、犯罪、差別事件などを通じて嫌というほど思い知らされながら生きていく。
むしろ、この世界というのは、細分化されたそれぞれまったく異なる要素が、キルト地の端切れを滅茶苦茶に縫い合わせたように存在するだけの空間なのではなかろうか?何をそもそも宗教も言語も風俗も肌の色もまったく違う者たちを“人間という種”でひとまとめにする分類法の側に問題がある。言語や風習だけでなく、性別、年齢、職業、知能、身体能力、性的嗜好、趣味などなど“人間という種”をバラバラにしていくための条件は数え上げればきりがない。反対に、「これが地球人類だ」と言い切る決定的な要素などどこを探しても見つからないに違いない。
世界とは、人間ひとりひとりが手前勝手で野放図に見ている無定見な夢

この日本も、この世界も、この地球も、この宇宙全体までもがすべて自らがでっちあげたデタラメな幻影だとすれば、この我々の人生そのものが「妄想みたいなもん」なのかもしれない。

記憶のずれや誤りを正し、忘れてしまった大切な思い出を取り戻さなくては、この先の人生が成り立たないこと、さらにはプラスチック化という怪現象の意味を突き止めるのも不可能であることを、あらためて思い知った気がしたのだった。

小説家として、長年にわたって人と人との繋がりを描いてきたが、どんなに大きく物語の翼を広げてみても、現実の人間模様を超えるリアルと趣向を生み出すのは難しい。ほんの少し目を凝らしてみれば、我々を取り巻く人の渦の中に想像を絶するような物語が畳み込まれている。
小説家がやるべきは、そうした真実の物語に読者の目を向けさせることに尽きる、と最近は考えるようになっていた。

「自分」という意識もまた一種のイメージに過ぎないのだ。「自分」というのは、頭の中で勝手に作り上げた、いわゆる「キャラ」のようなものだ。
例えばの話、作家である自分が作品の中で描く登場人物と、その登場人物を描いている自分自身とのあいだに、実はそれほどの隔たりは感じられない。というのも、作中に出てくる人物はこの頭の中で完全に作り上げているが、その作り方は、現実の「自分」の場合とほとんど大差がないのである。

他人の人生を垣間見て「ああ、この人はこういう人だ」とイメージを持つ、その同じやり方で我々は自分自身をイメージしている。「ああ、自分はこういう人だ」と。他人の人生と自分の人生との違いは、捉え方の違いではなくて質や量の違いでしかない。他人の人生はごくたまにしかイメージしないが、自分自身の人生は年がら年中イメージし続けている。その格差が人物造形の細やかさや密度に反映するため、「自分」というキャラがとりわけ際立って見えるに過ぎない。

例えば、母親の人生について「母はこういう人だ」とイメージするのと、自分に対して「自分はこういう人だ」とイメージすることとの差は、イメージに費やす時間の差に還元できる。

他人の人生をイメージすることと自らの人生をイメージすることとのあいだに本質的な違いがないゆえに、我々は赤の他人の物語に深く感動してしまう。

人間一人ひとりが思い描く自分や他人は、すべてが意識によって生み出されるイメージに過ぎない。そして物語というのはまさしくそのイメージの集合体なのである。それゆえに、我々は物語に一喜一憂し、ときには物語によって生き方まで変えられたりする。他人の人生をイメージすることによって自己イメージそのものが著しい影響を受けてしまうのだ。

映画や演劇で架空の物語を役者が演じるとき、我々はその役者が“本物”ではなく、以前はまったく別の物語でまったく別の役柄を演じたことを知っている。

映像に対して、それがはっきり嘘だと分かっているにも関わらず強く感情移入し、物語の登場人物の悲しみを悲しみ、喜びを喜び、あまつさえ現実の人生でもそのときの感動を糧として、登場人物と同じ人生を歩もうとしたり、その人物のやったことをなぞってみたりする。
架空、空想を材料として、人間は自分の人生という現実を形作る。
なぜ嘘だと分かっているものの影響をそこまで受けてしまうのだろうか?
架空の物語、架空の人物がなぜそれほどの力を持っているのだろうか?
それは、架空や空想というものが、実は、現実と同等のものだということを我々が心の深い部分で知っているからなのだ。そしてそのもっとも卑近な例が、例えば神話であり、宗教や信仰というものであろう。人類が宗教をどうしても手放せないのは、また、常に新しい神話や英雄譚を欲してしまうのは、自分たちの人生が架空と現実の混交物であることをよくよく分かっているからに他ならない。

東京ほど自らの顔を変え続けている都市は、世界に類を見ないのではないか。そうした意味では、東京は年がら年中整形手術を繰り返している整形フリークのような都市だ。東京の住民が整形外科医だとすれば、患者である東京という街も頻回の手術を受け入れるに充分な可塑性を持っていると言える。
整形手術は英語で「プラスチックサージャリー」。まさにここは整形の街、プラスチックのような街なのだ。

若い人はよく走る。自分でも知らぬうちにそうしているので本人には分からないのだが、歳を取って若者を眺めるようになると、真っ先に挙げられる若さの特質が「よく走る」ということなのだ。

頭の整理をつけるためには、だから、何を思い出したかではなくて、いまだに自分が何を忘れているかを突き詰めるしかない。自分が何を忘れているのか?が簡単に分かるならそもそも記憶を失くしたりはしない。何を忘れたのかも分からなくなるからこそ二度と思い出すことができなくなるのだ。

やはり東京と福岡の3月はまるで違う3月だった。
一番の違いは、光の量と度数だ。植物がそうであるように我々も季節を光の変化によって読み取っている。春も夏も秋も冬も光に乗ってやって来る。 季節の本体は気温ではなく、明るさの中にある。

妻を失ってからというもの、この感覚だけを頼りに書き続けてきたのだった。
小説を書くためだけに生きながらえた。
それがすべてだった。妻を失い、他のあらゆるものが人生から消えてしまった。残ったのは苦しみだけだった。その苦しみを苦しみとして引き受けることも普通だったら可能だったのかもしれない。だが、そうすると書けなくなった。

書くために生きてきたのか、それとも生きるために書き続けてきたのか?それは恐らく両方なのだ。

小説というのは「小説の中身」と「小説の本体」の二つの合成物で、「小説の中身」だけでは小説になることはできないが、「小説の本体」だけならば、それはそれで充分に小説になることができる。小説の中枢は、要するに「中身」ではなくその「本体」の方なのだ。そして作家というのは「中身」を作れる人ではなく、「本体」を作れる人のことであり、従って「中身」などその辺に転がっているものを適当に拾って寄せ集めれば、それを「本体」に組み入れることで幾らでも小説を書き続けることができるのだった。
作家というのは、小説を書く 「機械」であり小説を書くという「機能」だった。

「どんな時、どんな場所でも人間は安定することによって幸福を持続できるようになる。だが、その幸福の中には一片の芸術も存在し得ない」

この世界全体がもともとプラスチックのようなものではないのか?
我々は、そのプラスチックの世界の一部を自分の意識によって実在化することで「私」や「私の世界」を形作っているだけなのではなかろうか?
ゼリーのように柔らかな何もないプラスチックの海を我々の意識は進み続ける。意識が触れる部分のゼリーが「体験」という形でとりあえず造形され、その「体験」の記憶を積み重ねることで我々は「私」という一つのまとまった認識を保持する。
だが、実際は我々の意識が通り過ぎた途端「体験」は再びゼリーに戻ってしまうのだ。

人間は、自己意識によってプラスチックをいろんな事物に仕立て上げ、それらを繋ぎ合わせることで更なる自己意識を編み上げていく。そうやって連なり続けていく自己意識を、我々は「私」と呼び「私の人生」と呼ぶ。
しかし「私」や「私の人生」とは、ただの無味乾燥、無味無臭の柔らかで薄っすらと光るプラスチックの集合体に過ぎず、実際には自己意識がそこから逸れた瞬間に、あらゆる事物は元のプラスチックに戻ってしまうのだ。
つまるところ、プラスチックをプラスチックならざるものにしているのは、あくまで「私の人生」という一個の有限な“物語”に過ぎないのであろう。その“物語”というサングラスをかけたときにのみ、巨大なプラスチックのかたまりであるこの世界を、我々は別の姿で見つめることができるのだろう。










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