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昭和天皇論

20240627

日本という国は、古代から、異国の文化を一旦は、懐深く受容し、自家薬籠中のものとして変容し、あるいは跳ね返してきたのである。
「からごころ」を「やまとごころ」に変容させる術は、日本の伝統そのものなのだ。
漢字しかり、
仏教しかり、
儒教しかり、
西洋化しかり、
人間宣言しかり。

国家の存亡を賭けて異国と戦い、敗戦後は命がけで国体を守り、国民の中に捨て身で飛び込んで復興を支え、国民のためにひたすら祈った孤独な天皇がいた。

天皇には、国民の安寧を祈る責任はもちろん、皇祖皇宗に対する責任というものがある。それは民族の「象徴」としての責任なのかもしれない。

天皇は、常に日本の二千年以上の歴史と共にある。強大な権力が出現した時の身の処し方も歴史の中にある。争わず、受け入れ、時が来れば跳ね返してしまうのである。

天皇と側室制度
日本の皇統は、神武天皇以来ずっとで続いてきたとされますが、実はこれは側室制度があってこそ可なものでした。歴代天皇を見てみると、およそ半数が側室からお生まれになっています。近いところで、孝明天皇も明治天皇も大正天皇も、側室との間の皇子です。
明治天皇と昭憲皇太后の間にはお子様が生まれず5人の側室との間に15人のお子様が生まれました。
大正天皇にも数人の若い女官がいましたが、皇后との間に皇子がお生まれになったため、側室は必要ありませんでした。宮中で一夫一婦制を初め実現したのは大正天皇でした。
昭和天皇は、女官制度を改革し、宮中に一夫一婦制を根付かせました。ご結婚後、なかなか皇子が誕生されず、重臣によって側室制度の復活が検討された際も、受け入れませんでした。
「人倫の大本を、私はみだしたくない」と侍従長に語られたそうです。

国民の抗戦意識を抑え、粛然と矛を収めさせることができるのは、天皇の「玉音放送」以外にありえなかったのである。

降伏は天皇陛下の御命令である。異議をとなえることはできない。残念至極である。堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍びと仰せられたのは、お前らは腹が立とうが辛抱せよとの思召ではないかと思った。そして繰り返し繰り返し、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍びを黙誦した。

日本人の圧倒的多数は「玉音放送」か、その伝聞で茫然とし、天皇のお言葉だから従うしかないと諦め、さらに天皇を心の拠り所として復興を誓った。

天皇の行幸・巡幸の歴史は、古代にまで遡ることができる。古代国家建設期、天皇は積極的に地方に行幸して「国見」をした。
「国見」とは、高いところに上って国を見渡して褒め称え、よい言霊を放つことでよい国になるように祈る天皇の儀礼である。

両陛下がお出掛けになるときは、それが民の幸福を祈ってのことであると我々は思い起こしたい。

「 私なき天皇 」は、国民を大御宝と思う。

戦争は基本的に合法であり、その中で「国際法」に違反する行為のみを「戦争犯罪」というのである。「戦争は人殺しだ!犯罪だ!悪行だ!」と、現在の自分の道徳観で過去を糾弾できるのなら、戦国武将だって「犯罪者」になってしまう。それでは歴史は決して語れない。
戦争は軍隊と軍隊が戦うものであり、戦闘中に兵隊が敵兵を殺すことは合法であり、殺人罪にはならない。一方、軍隊が故意に民間人を殺せば国際法違反であり、戦争中でも「殺人」だ。
これを「戦争犯罪」という。

「バール判決書」は、日本のいかなる戦争も国際法に違反したものではないと結論づけている。これを「日本無罪論」という。

占領中「war guilt information program」という、徹底的な情報操作で、日本人に戦争の罪悪感を植え付ける洗脳計画が実行された。
東京裁判で捏造された陰謀と侵略、大虐殺の偽史が大宣伝され、マスコミ・教育は完全に汚染された。そして占領が解除された後も、マスコミは自ら占領中と変わらぬ洗脳情報を流し続けた。こうして日本にだけ「War guilt」=「戦争責任」があるという観念が、日本人に刷り込まれてしまったのである。
これが未だに続いており、戦争当時を知っている世代が少なくなるに伴って、何もかも日本が悪かったとする「東京裁判史観」の洗脳は益々強化されている。そのため戦勝国の「戦争責任」を追及するという視点が抜け落ちてしまう者が圧倒的に多いのだ。

昭和天皇には「戦争責任」の三要素、「開戦責任」「戦争犯罪」「敗戦責任」の、いずれにも該当する要素はない。法的に触れる罪もなく、国際政治的にも講和の成立で解決した。

昭和天皇は自らの責任について、一時は退位を考えたが、熟慮の上、全国巡幸で国民を慰め、励まし、復興のための勇気を与えることが責任だと語った。

「こんないい家に住めるようになったのも、みんな国民のおかげだ」
権威主義者は権威を笠にきて偉そうにするが、日本の最高の権威はこのように国民に対して謙虚ですらある。
それは「無私」の存在であるからだ。
「公」の体現者であるからだ。

昭和天皇は開戦を望まず、回避する努力を重ねたのであるが、それでも内閣の決定には従わざるを得ない。それが「立憲君主」の立場である。
だが戦争末期になると昭和天皇は寝室に入っても、独り言を繰り返したり、室内を歩き回ったりして悩んでいたらしい。香淳皇后は「すっかりおやつれのようで、おいたわしいほどでございました」と書き残している。









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