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しをかくうま

20240516

暗い眼がありそれは夜の全体を丸めてたまたま眼の形にしておいたみたいに果てしのない色をしていた。

私はこれまで色々な人間を愛したというか愛しているような気持ちになったりしたことがあった。

これからじっくりと腹を割って重要なことを語り合えるような予感が、雨とコーヒーの深い香りとともに部屋の中に満ちている。そのときふと、もしもコーヒーという飲みものがなかったら人は重要な話などひとつもできないのではないか、とわたしは思う。重要な話をするためにコーヒーが発明されたのか、それとも先にコーヒーがあり、コーヒーが人間に重要な話をさせているのか?
どのような言葉を入力すれば、コーヒーと重要な話が発生した正確な順番を知ることができるのだろうと考えていると、
「正しくないことについては全く問題ない」と彼女は続ける。
「正しくある必要はない。誰かがつくったセオリーのように、重要なことから先に述べようとしなくても結構。あなたが、あなたの職業倫理に反するような話し方をしても気にしない。実際以上に誠実であろうとしたり、品位を保ったりすることにエネルギーを使わないで。言葉は本来野蛮なもの。もともと野蛮な者たちが話した言葉を、野蛮さを嫌う者たちが後から整えただけのこと。
信じて、あなたには声がある。あなたの声。記憶が染みついていない声。時の裂け目から聞こえてくる声。そういう声をあなたの他に私は知らない。私たちは知らない。どこの世界にもあなたほどの人間はいない。人間はいない。でも一方で、あなたには声以外に何があるの?とても素晴らしい声をしているけれど、何を喋ってとあなたの声の中には言葉がない」

あなたは、まだ、私たちの言葉を覚え始めて間もない。

彼女は実に色々な色に取り囲まれている。そこにある色たちはそれぞれ独立して色づいているのではなく、色同士が相談し合って各自の色を決定しているみたいに見える。親密な者同士が彼らにしかわからないテーマで会話をしているみたいに見える。そこに知らない色が入り込む余地はない、ひそやかな色々の色。わたしは色のことをまだじゅうぶんに知らない、少なくとも正しい順序では。

元より私自身は、それほど時間を気にする方でもない。時間より重要なことはたくさんある。

インターネットと脳が直接のつながっていたら、気づいた時には既に知ってる状態になっている。思い出せないもの、未知のものに出くわすたびに、逐一検索タブに単語を入力するまでもなく、気付いたときには、既にそれを「知っている」状態になっている。

彼女がいついかなる場合も人からの評判を、気にしていることは何もおかしくはない。

昔からそうなのだが、私は、人生とか、世界とか、愛とか、何か壮大な物事をイメージさせるような言葉が好きではない。
言葉そのものは別にいい。ただ、私の頭の中にある人生のイメージが、他人の頭の中にある人生のイメージと一致しているわけがないから、その類の語彙を使って誰かとコミュニケーションをとるのが嫌なのだ。

それはわたしが生まれる前から、わたしの家にいた大人が生まれるよりも前から、神様がこの世界を創る前から、神様がこの世界を創ったと誰かが言い出すよりもずっと前から決まっていたことだった。

もうこれからは神様のことを考えなくてもいいのだとわかった。生まれながらにして負った罪をどう贖うべきなのかとか、神様がわたしたちに何を求めているかとか、神様のように偉大なお方がつくった人間がこんなにも不完全な形をしていてよいものなのかとか、神様にまつわる一切合切を、考える必要はなくなった。

大人はただ体が大きいというだけで本質的にはわたしと何ら変わらないちっぽけな人間なのであり、その人間が人間を咎めたり叱ったり何かを強制したりすることじたいが、全体的に滑稽というか茶番だと感じるようになった。

世の中には何をするにも損得の計算をしないと物事を進められない人間がいてまた名誉のために愛や信念を捨てる人間がいてわたしは損得の計算も名誉のことも顧みない。

浮かんでは消える想念を形あるものに移し替えるというコンセプトそのものに、生涯でついに到達できなかった。アイデアの尻尾はつかんでいたのに、あと一歩知恵が足りないことで行為に結びつくには至らずに死んだ。

考えたいのは、雄性生殖器から取り出した中身が結果的にこの世界に何をもたらすか、であった。目に見えず手に触れられもしない、在るか無いかも定かでないものについて他人と話し、分かち合うことによって、それが自分の頭の外にも確かに存在し得る何かだという確信を得たかった。

結局のところ、ある人間の頭の中でいかに革新的な発想が生まれようと、根気強く話を聞き評価する他人が偶然近くにいないことには、哲人は暇人でしかなく、科学者は異端者のままで永遠に地球はまわらずじまいなのであった。

幸福な一対の男女を世の中に増やすことが正しい社会貢献なのだと心から信じ、孤独な人間には心から同情していた。

生まれてこのかた日本人であることにも日本国民であることにも同意したことはないのですが、気が付いたら日本人ということにされていて、日本語を喋っていて、日本の法律を守らなくてはいけない状況が私を取り囲んでおりました。大多数の日本人がそのような立場に置かれているとは思いますが。

名前は人間が人間に与える最初の詩なんです。その人間に一生ついて回る詩です。名前は詩であり、名前のついたものはすべて詩です。私は詩です。あなたも詩です。

健康寿命の長さよりも瞼が二重であるとか、ほどよい痩せ体質であるとか、外見的な要素を幸せの基準に据えられるていたが、最近は、共感能力やコミュニケーション能力の高さ、となってきている。
人生における幸福度が交友関係の幅広さと密接に関連していることが最新研究により明らかになってきている。
何をもってして人間が幸せであるとするかは時代状況によって変化する。

人間の直感や愛情の深さといった主観的判断が、
まったく当てにならないものである。
偶然性と不確定要素によって生じるあらゆる災いと後悔を取り除く。
たまたま与えられた社会状況や生まれつきの容姿によって通俗的な言い方をすればモテるモテないによって遺伝子が淘汰されるかどうかが決定される、このような異常状態は人類の進化の可能性を潰すことに他ならない。
人間とはそもそも不完全で、常に判断を間違え得る愚かな動物である。
目先の個人的な愛に盲目的になるのではなく、より長期的で広範な意味での世界全体への愛と幸福を、人類を代表して具現化する。

・恋愛感情やら性的欲求やら承認欲求やら自尊感情やらの保持を優先するばかりで、自分本位な快感情がもたらす人
・オキシトシンの分量を愛と取り違えている人
・ただの偶然のことを運命や奇跡などと呼んで、人生に安易な意味づけを行なってしまう人
・TV局が制作するロマンティックな恋愛ドラマの類を真に受けて、愛と結婚生活と生殖行為と幸福をひとつながりで捉えてしまう、批判的思考力に乏しい人
・どのような運命が待っているにせよあるがままを受け入れる、 Let it be こそが Words of wisdom であると自己弁護しながら思考停止をしている人

詩を理解する必要なんてない。センスなんていうのは「 センスがいいね 」と言い合いたい人たちのための言葉であって詩には関係ないから。でもせっかく人間として生まれ、たまたま人間の言葉を覚えたのなら、詩を読むに越したことはない。なぜなら我々人類をこんなところにまで連れてきたのは、他ならぬ言語だからだ。その言語が理解不能であればあるほど、より遠くへ行くための駆動力になる。だから詩を読まないというのは人生の大きな損失である。人類の大きな後退である。

今よりももっと速く、もっと遠くまで行ける乗り物をつくったり、今以上に快適で便利な道具を生み出したりすることは、必ずしも人類を進化させはしない。我々はどこかの地点で進化の順序を間違えた。今後いくら人口を増やそうが知識を増やそうが科学技術が発展しようが、そもそもの言語じたいに立ち返って順番を考え直さない限り、人類は頭打ち。
だから具象語と抽象語を使いこなせるようになったくらいで立ち止まらないで。初めて流れる時間をとらえたときのように、初めて空間を区切って名前をつけたときのように、初めてあなたと私が別の個体であると認めたときのように、我々は我々の言語をもう一歩先へ進めなくてはいけない。

これらも決して悪くはない。悪くはない。でもベストではない。こういった実況を聞いていると、わたしの心には何かとてつもなく大きい、簡単には埋め難い空白が生まれるのを感じる。こういう言い方は正しくないかもしれないけれど、たとえば執筆者の都合によって重要な出来事がすっぽりと年表から抜け落ちた歴史の教科書を読んでいるような気持ちになる。
前後のつながりが不明瞭なまま、自分が生きている現在を強制的に受け入れさせられているような。

人間が相手ならこれで充分だ、夢と感動さえ伝われば大体はそこで思考停止してくれる。

私の魂はいきなり、声に貫かれた。

彼女に語る自分の声を聞きながら、私はずっと誰かにその話しを聞いてもらいたかったのだと知った。

月曜から土曜のあいだに入ってきた形ある情報や、形の定まらないまま留まった混沌を絵画と同じ次元に、平面の次元に置き換えていく。そしてこんなふうに考える。この世界は遠い昔に、立体であることを諦めてしまったのだと。
この世界は人間が増えすぎ、増えた人々はあまりに多様化しすぎ、また彼らは多様性を求めながら同時に平等性をも要求するようになった。 他の生物には見出されないような煩雑な欲望を持つこの動物は、自分のサイズに合わない服はもう絶対に着ようとしなかった。とはいえ資源には限りがあるために、すべての人間の欲求を叶えることが困難なので、いっそ人間も事物も環境も二次元データに移し替えたほうが色々と都合が良いと考えるようになった。人間がデータになれば食糧問題も解決し、歳をとって衰える心配もなくなり、誰もが怖れる死を遠ざけることもでき、完璧に平等な世界を実現できる。 金持ちになりたければデータ上で金持ちになればよく、馬になりたければデータ上で馬になればよい。死のない安全な場所では、「喉が渇いた」と思うだけで各人にオーダーメイドされた素晴らしい飲みものが自動的にデータと人工知能がいかなる望みも叶えてくれる。ところがわたしは、何らかの抜き差しならな事情があって、肉体を三次元から二次元へ移行させることを意固地に拒んだ人間のひとりだった。わたしは立体の世界でやりたいことがあった。なぜかわたしは、立体の世界でしかできないことをしたがっていた。そうして確実に死というものが存在する、まったく幸せとはいえない不自由な立体の世界にぽつんと取り残されたわたしは、平面の道を進んだ人々を美しいとも醜いとも思わずに、ただ彼らが選び進んだ幸せな世界を、もう編集の済んだ映画を観るかのように受け止めていく。

人間の欲がこの世界をどのように動かしてきたかを。動かしているかを。この社会におけるあらゆる創造行為と破壊行為の根っこを辿れば、すべて人間の欲望に行き着くことを。

わたしは生まれてこのかた一度たりとも幸せだったことがない人間だった。わたしには欲しいものがあった。
わたしさえ欲さなければ他の誰も欲することがないものだ。わたしを構成するすべての要素はそれを求めるべく動いていた。それなのにわたしの体は今、本当に欲しいものを手に入れることなく人生を終えるだろうという確信に近い予感に覆いつくされ、何かを欲求することじたい完全にやめようとしていた。わたしの心はもはや何も求めないことを求め始めていた。何も望まず、ただひとりで黙って座っていたかった。誰の名前も呼ぶことなく、誰もいない洞窟にでも閉じこもり積極的な生命活動を全面的に停止してしまいたかった。

初めて何かを「考える」というようなことを行なった。 初めて体の中を去来するわけのわからない混沌がひとつのものへと集約していく感覚があった。元は同じ成分の水でありながら複数の地点に降り注ぎその土地その土地の草木や土を濡らすことで別の泥水へと変化した雨が流れ着いた場所が川になり私の体を洗った。

フリードリヒニーチェはこう書いた。
「あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である」。
ジャンポールサルトルはこう書いた。
「地獄とは他人のことだ」。

我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか

我々は過去から来た。我々は何者かになるまでのプロセス。我々がどこへ行くかは未知数であり、それは現在の選択によって方向づけられる。

家にいながらにして、ヒトはインターネット回線に乗ってどこまでも遠くへ行くことができる。
イエスキリストが起こした奇跡を目撃した弟子たちはきっとこんな気分だったんじゃないかというくらい感動したもの。
新聞やTVの偏った報道でヒトが無意識に洗脳されていく時代はもうおしまい。ヒトがSNSのアカウントをひとつないし複数所有する世界では、きっと個人が世論ではなく、自分の物語を語り始めるだろうと思った。

ついに人類は幸せになる。だって私たちは皆、幸せになることを望んでいる。幸せな世界がもうそこまで来ている。みんながインターネットに乗って、おんなじ方向を向いて、おんなじ言葉を話せばすぐにでも、歴史上でもっとも賢く幸せな動物になれる。
いいね!
素晴らしい!
素晴らしいことはどんどん拡散しましょうよ!
人類が全員、当たり前のことをそうやって言葉にして幸福な世界のあり方を確認し合うようになれば、もう誰も嫌な思いなんかしなくて済む。SNSが新しい宗教になって私たち正しい幸せへと導いてくれる。もう決して過去の過ちを繰り返さない。
さてそして、新しい宗教は我々をどこへ連れて行ったか?
もちろんこのとおり、どこへも連れて行かなかった。
いいね!を増やしただけだった。
いいね!はお布施よりもずっとお手軽でしょ。
名言製造機をいっぱいつくって、一秒で共感させて一秒で感動させて理性をバグらせればいいんだもの。かくして快感情の家畜ができあがり。インターネットとは、ヒトを家畜動物にするための調教道具なのであった。まさか下等動物から高等動物へと進化したヒトが、みずから進んで再び下等動物に戻ろうとするとは。

彼女が求めるものの中にキスのような生殖とは無関係の行為が含まれていないのは明らかだったが、それでもわたしは彼女にキスをすることにした。色々な考え方があるけれどわたしにとってノックをしないで扉を開けるというのは有り得ず、キスをしないでセックスをするというのは論外だった。わたしは自分で自分に名前を付けた日からずっと、自分で決めた順番を守ることによって自分自身を守ってきたのだしこれからもそうして生きていくだろう。

言語を体得していくと、流れる時間をとらえることができるようになった。空間を区切ってそこに名前をつけることさえできるようになった。

目に見えないものに向かってわざわざ「幸せ」と名前を付けた理由が、なんとなくわかるような気がする。存在するかどうか定かでないものに名前を付けると目が大きく生え変わり耳が大きく生え変わり体から新しい四本目の足が生えてきてその足が自分今いる場所よりもよりくっきりとした場所へと連れて行ってくれるような感じがしてくる。

他者と他者が互いのポテンシャルを引き出し合う。そこに、他者と、他者が、共に生きる、意味が、ある。

こんなにも人類を忙しくしているのは、一体誰の意志なのだろう?
医療技術が発展していくら寿命を延ばしたところで、人類には、永遠に、時間が、足りない。だから車だの新幹線だの飛行機だの、より速い乗り物に乗らなくてはいけなくなるんだな。ああ、そうなんだよ。そして速い乗り物に乗ることで節約した時間を、さらに別の忙しさで埋めていくわけなんだね。

一貫性と政治的正しさと共感を集めることに徹した言葉を選んでいくとなると、最後は誰もが同じ言葉を喋る未来しかないんだよね。つまり言葉は死んでいくしかないんだよね。

メディアでの発言にはよくよく『ちゅうい』を払わないといけない。
たとえわたしが『いじょう』だと思っていても、それが大多数の人にとっての『いじょう』でなければ、『いじょう』と言うことは許されない。

歴史の話から始める。つまり人類がこの世界まで移動してきた道程の話だ。なぜ歴史の話から始めるのか?
それは君が現代を現代的な時間感覚でしか生きてこなかった現生人類だからだ。時間的枠組みと整合性の中で物事を理解する脳の構造をした動物であるからだ。









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