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夏の終わり

20240527

空気と話しあっているような空虚さがあった。呼吸はしているのに、生きていないような気がする。生命力が稀薄なのだ。

疲労と共に神経も選挙という奇怪な熱気に冒され麻痺しはじめていた。異様な言辞も行きすぎの行動も、選挙の勝負に関する以外は、誰の目にも映らなくなっていた。終日ぶっとおしの興奮状態が常態の中で個人の喜憂など影も薄かった。

話すことで、すべての行為が自分の中に定着する習慣を培ってきた。

彼は、私の肉体の一部であり精神の双生児であった。

はじめての人間を見るように、不安と不気味さの混じった目つきで、のぞきこんでいるようになった。

逢う度、はっきりしてくる現在の彼の生活の荒廃と、精神の無気力で虚無的な姿勢が気がかりでならなくなっていた。

彼と逢いそめた頃、彼の身辺に濃い霧のように立ち迷っていた、目を離せば今にも死にそうな絶望的な危機感に、次第に縛りつけられ、ぬきさしならぬ関係に縛りつけられていった。

無鉄砲で衝動的な私は、いつでも小さな体内に活力があふれていて、生命力の萎えた、人間の分量が足りないように見える男に出逢うと、無意識のうちに、その男のくらい空洞を充たそうと、私の活力はそこへ向かってなだれこみたがる。
いつでも私の惹かれる男や愛の対象になる相手は、生活も華やいでいず、萎えたような運命に無気力に漂っている敗残者とか脱落者とかに限られていた。

愛は抽象的な輝かしい精神の貴族であって、肉慾はその前では、不様な道化にすぎなかった。

時が凄まじい速さで快楽の間を滑っていった。

私の怯えは不貞の事実ではなく、秘密を持ってしまったという精神的な裏切りが、彼に知れることへの怖れであった。

色恋なんか二人の責任だ、どっちだって加害者で被害者だ。

歳月にからまれた習慣は、断ち切る努力をするよりも、そのまま巻き込まれていく方が、はるかに容易で楽なのだ。

彼があの部屋を出たということは、2人の情事の終末を言葉でなく、行動で実証してみせたことになる。

愛なんかより、生活の習慣の方が、ずっとつよいもの

愉しさよりも、彼と分け合った苦しさと悲しさの記憶が、切実な懐かしさだった。

自分が目を離せば、彼は死ぬかもしれないという不安こそ、私が彼に結び付けられていた一番強い絆だったのだ。

彼が無意識に、距離感に左右されて、つい私の新しい家を訪れることが億劫になるのも、私が家の雑用や仕事に追われることで、あれほどの涙を忘れてしまっていったのもつまりは、生活という雑事と習慣の繰返しが、意外な強さで人間の感情や感傷を、のみこみ押し流していくせいなのかもしれなかった。そしてそれは私に、彼とのかつての生活が、やはり、愛や情緒より、生活の習慣と惰性で保たれていたことを、今更のように思いかえさせていた。
彼と別れたら、彼も自分も、生きていけないのではないかと、本気で恐れていたあの長い歳月の暗示は、いったい何にかけられていたものだろうか。










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