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痴人の愛

20240626

どの国にも戦争と平和の時代が交互に巡ってくるが、日本は大陸の国に較べ、相対的に平和な期間が長かった。戦争をしていなければ、男は色にかける。敵を滅ぼすか、自分の種を残すか、戦争も恋も生存競争であることに違いはないが、後者の場合はしばしば女性がイニシアチブを握り、男はもっぱら女に奉仕するか、振り回されるかする。それが自然であり、本能である以上、その様態をつぶさに描くことに何のためらいや恥じらいがあるだろうか?谷崎の魅力の一つはこの徹底した開き直りにある。

ナオミの器量がよくなるかどうかは将来の問題で、十五やそこらの小娘ではこれから先が楽しみでもあり、心配でもあった。ですから最初の私の計画は、とにかくこの児を引き取って世話をしてやろう。そして望みがありそうなら、大いに教育してやって、自分の妻に貰い受けても差支えない。と、いうくらいな程度だったのです。これは一面からいうと、彼女に同情した結果なのですが、他の一面には私自身のあまりに平凡な、あまりに単調なその日暮らしに、多少の変化を与えて見たかったからでもあるのです。正直のところ、私は長年の下宿住居に飽きていたので、何とかして、この殺風景な生活に一点の色彩を添え、温かみを加えて見たいと思っていました。それにはたとい小さくとも一軒の家を構え、部屋を飾るとか、花を植えるとか、日あたりのいいヴェランダに小鳥の籠を吊るすとかして、台所の用事や、拭き掃除をさせるために女中の一人も置いたらどうだろう。そしてナオミが来てくれたらば、彼女は女中の役もしてくれ、小鳥の代りにもなってくれよう。と、大体そんな考えでした。

たとい如何なる美人があっても一度や二度の見合いでもって、お互いの意気や性質が分るはずはない。「まあ、あれならば」とか、「ちょっときれいだ」とかいうくらいな、ほんの一時の心持で一生の伴侶を定めるなんて、そんな馬鹿なことが出来るものじゃない。それから思えばナオミのような少女を家に引き取って、徐ろにその成長を見届けてから、気に入ったらば妻に貰うという方法が一番いい。何も私は財産家の娘だの、教育のある偉い女が欲しい訳ではないのですから、それで沢山なのでした。

一人の少女を友達にして、朝夕彼女の発育のさまを眺めながら、明るく晴れやかに、いわば遊びのような気分で、一軒の家に住むということは、正式の家の庭を作るのとは違った、又格別な興味があるように思えました。

一体私をどういう人間と思っているのか、どういうつもりでいて来るのか、それは分りませんでしたが、まだほんとうの子供なので、彼女は「男」という者に疑いの眼を向けようとしない。この「伯父さん」は好きな活動へ連れて行って、ときどき御馳走をしてくれるから、一緒に遊びに行くのだというだけの、極く単純な、無邪気な心持でいるのだろうと、私は想像していました。私にしたって、全く子供のお相手になり、優しい親切な「伯父さん」となる以上のことは、当時の彼女に望みもしなければ、素振りにも見せはしなかったのです。あの時分の、淡い、夢のような月日のことを考え出すと、お伽噺の世界にでも住んでいたようで、もう一度ああいう罪のない二人になって見たいと、今でも私はそう思わずにはいられません。

私は前に「小鳥を飼うような心持」と言いましたっけが、彼女はこちらへ引き取られてから顔色などもだんだん健康そうになり、性質も次第に変わって来て、ほんとうに快活な、晴れやかな小鳥になったのでした。そしてそのだだっ広い居間は、彼女のためには大きな鳥籠だったのです。

私と彼女とが切っても切れない関係になったのは、大森へ来てから第二年目の四月の二十六日なのです。尤も二人の間には言わず語らず 「了解」が出来ていたのですから、極めて自然にどちらがどちらを誘惑するのでもなく、ほとんどこれと言う言葉一つも交さないで、暗黙の裡にそういう結果になったのです。それから彼女は私の耳に口をつけて、「きっとあたしを捨てないでね」と言いました。

「世の中の事は総べて自分の思い通りに行くものではない。自分はナオミを、精神と肉体と、両方面から美しくしようとした。そして精神の方面では失敗したけれど、肉体の方面では立派に成功したじゃないか。 自分は彼女がこの方面でこれほど美しくなろうとは思い設けていなかったのだ。そうして見ればその成功は他の失敗を補って余りあるのではないか」

一国の治乱興廃の跡を尋ねると、必ず蔭に物凄い妖婦の手管がないことはない。ではその手管というものは、一旦それに引っかかれば誰でもコロリとされるほど、非常に陰険に、巧妙に仕組まれているかというのに、どうもそうではないような気がする。たとい英雄でなくっても、その女に真心があるか、彼女の言葉が嘘かほんとかぐらいなことは、用心すれば洞察出来るはずである。にも拘わらず、現に自分の身を亡ぼすのが分っていながら欺されてしまうというのは、余りと言えば腑甲斐ないことだ、事実その通りだったとすると、英雄なんて何もそれほど偉い者ではないかも知れない。

私は今でもあの時の教師の言葉を胸に浮かべ、みんなと一緒にゲラゲラ笑った自分の姿を想い出すことがあるのです。そして想い出すたびごとに、もう今日では笑う資格がないことをつくづくと感じます。なぜなら私は、何故たわいなく妖婦の手管に巻き込まれてしまったか、その心持が現在となってはハッキリ頷けるばかりでなく、それに対して同情をさえ禁じ得ないくらいですから。

よく世間では「女が男を欺す」と言います。しかし私の経験によると、これは決して最初から「欺す」のではありません。最初は男が自ら進んで「欺される」のを喜ぶのです。惚れた女が出来て見ると、彼女の言うことが誰であろうと真実であろうと、男の耳には総べて可愛い。

人と人との勝ち負けは理智に依ってのみ極るのではなく、そこには「気合い」というものがあります。言い換えれば動物電気です。まして賭け事の場合にはなおさらそうで、ナオミは私と決戦すると、初めから気を呑んでかかり、素晴らしい勢いで打ち込んで来るので、こっちはジリジリと圧倒されるようになり、立ち怯れがしてしまうのです。

「ずるいよ、ずるいよ、トランプにそんな手があるもんじゃない」
「ふん、ない事があるもんか、女と男と勝負事をすりゃ、いろんなおまじないをするもんだわ。あたし余所で見たことがあるわ。子供の時分に、内で姉さんが男の人とお花をする時、傍で見ていたらいろんなおまじないをやってたわ。トランプだってお花とおんなじ事じゃないの」
こういう風にして、次第に抵抗力を奪われ、円め込まれてしまった。愛する女に自信を持たせるのはいいが、その結果として今度はこちらが自信を失うようになる。もうそうなっては容易に女の優越感に打ち勝つことは出来なくなります。そして思わぬ禍がそこから生じるようになります。

「やれそうもないと思ったけれど、やってみると愉快なもんだね」
「それ御覧なさいな、だから何でも考えていないで、やって見るもんだわ」

女の顔は男の憎しみがかかればかかるほど美しくなるのを知りました。

それというのが私は単に精神的に疲労していたばかりでなく、生理的にも疲労していたので、一度ゆっくり休養したいということは、むしろ私の肉体の方が痛切に要求していたのです。たとえばナオミというものは非常に強い酒であって、あまりその酒を飲み過ぎると体に毒だと知りながら、毎日々々、その芳醇な香気を嗅がされ、なみなみと盛っ痴た杯を見せられては、やはり私は飲まずにはいられない。飲むに随って次第に酒毒が体節々へ及ぼして来て、ひだるく、ものらく、後頭部が鉛のようにどんより重く、ふいと立ち上がると眩暈がしそうで、傾向けさまにうしろへ打っ倒れそうになる。そしていつでも二日酔いのような心地で、胃が悪く、記憶力が衰え、すべての事に興味がなくなり、病人か何ぞのように元気がない。頭のなかには奇妙なナオミの幻ばかりが浮かんで来て、それが時々おくびのように胸をむかつかせ、彼女の臭いや、汗や、脂が、始終むうっと鼻についている。で、「見れば眼の毒」のナオミがいなくなったことは、入梅の空が一時にからっと晴れたような工合でした。









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