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終わりのその先 第6話【お仕事小説】

〔これまでのあらすじ〕
大都市の上浜市役所に勤務する東郷秀樹は、役職定年で部長から係長に降任するか、退職するかで悩み、人材登録サイトにも登録する。
そんな中、保護課の部下が横領事件を起こす。
また息子の翔馬は、やっと就職した会社を退職し、ゲームで奇声を上げており、娘の里菜も大学4年生だが就活していない。
妻尚子の職場である書店では、イケメンの店長と妻が親密に接していた。
同期会でも気が晴れず馴染みの南米料理店へ行くと、昔好き合っていたが結ばれなかった百合華に再会する。意を決した秀樹は「店を出よう」と誘う。

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祭りの後

 立ち上がった秀樹を見上げ、百合華はトロンとした眼差しで
「もう帰るの?」と尋ねた。
 いや、そういう意味じゃないんだけど…。
 秀樹の心の声は届かず、彼女は
「私は、もう少しここにいるわ」
と、ピンク色に染まった顔のまま言った。
 なんとも艶めかしい表情を見せて。
「カズさんの選ぶ曲、もう少し聞いていたい」

 一度立ち上がった秀樹だったが
「そうだな。懐かしいナンバー、俺ももう少し聞いていようかな」とさりげなくもう一度座った。
 心地よいサルサ・ミュージックを聞きながら、彼女の眼は時おり本当に潤んでいるように見えた。

「何か、つらいこととかあったの?」
 秀樹はできるだけ優しく言葉を発した。彼女の心情をときほぐすように。
 百合華が離婚したとの風の噂を聞いたのは、2年くらい前だったろうか。
「俺さ、力になれることあったら何でもするよ」
 そう言いながら、テーブル越しに彼女の左耳にかかる緩いウエーブの髪に右手でそっと触れた。
「また、前みたいに」

 彼女はビクッとしたように、身体を離した。
「大丈夫。私は」そう言うと、ハンドバッグを手に取り
「もう、帰るわね。明日もあるし」
と、ドリンク代をテーブルに置いて席を立った。
 これはいいよ、と秀樹はドリンク代を返そうとしたが、彼女は受け取ろうとしなかった。
「それじゃ」と身を翻すように出て行く百合華の後ろ姿を見送りながら、過ぎ去った日々は帰って来ないということを、心に刻む秀樹だった。


面談

 翌日は、所属長との面談の日だった。
 中越区で唯一人、秀樹の上司にあたる区長の鎌田は彼より3歳年下で電気職の人間だ。
 厚生福祉部の業務、先日の不祥事を含めてひとしきり話をした後、鎌田は秀樹が定年延長で役所に残るかどうかを聞いてきた。秀樹は、まだ最終的な結論は出していないと前置きしつつ、退職することも検討している、と答えた。
 鎌田はさして驚きもせず、止めることもしなかった。

 予想どおりか。
 区長室を後にして、心の中でつぶやいた。
 もう数年早く、退職しようとしたら慰留されたかもしれない。
 が、59歳の秀樹に対して退職を思いとどまらせようとはしないということだ。頭の中では分かってはいるものの、自分の価値は年齢と共にもう残存していないと思い知らされた気がした。
 これまで多忙な職場では深夜まで仕事をし、いくつもの大きな仕事をやり遂げた。災害時には職場に泊まり込んで緊急業務に当たり、市に随分と貢献してきたと思っていた「誇り」のようなものが、足元から崩れていくのを感じた。

 係長にはなってしまうが市に力を貸してほしい、などとは言われないものなのだ。
 もはや自分は必要とされていない、終わった職員なのだ。


パワハラ

 定年延長と退職のいずれを希望するか、意向調査が人事部から送られてきており、秀樹は〔退職〕に○を付けて回答した。
 鎌田との面談でもし慰留されていたら、結論は違っていたかもしれないという思いが、その時秀樹の頭をよぎっていた。

 人事部に回答を送付した翌日、人事部人事課の調査係長から秀樹にメールで連絡があった。
 当然、意向調査の件かと思ってメールを開くと、そこに記されていたのは
「ご多忙のところ失礼いたします。
 折り入って、職員への対応の件でお話を伺いたいことがございますので、できれば明日、7月9日の午前10時に人事課会議室までお越しいただくことは可能でしょうか。
 ご都合が悪い場合には、恐縮ですがお知らせいただけますと幸いです」
などという内容だった。

 係長から部長にメールで面会を依頼してくるにしては、随分と急な日時だ。
「職員への対応の件」て、何だ?
 先日の保護課の担当者に対する懲戒処分の内容が決定して、連絡してきたのか?
 そうであれば部長ではなく、課長か係長に連絡するものではないか。

 不審に思いながら翌日、指定された人事課会議室に赴いた。
 すると、そこには人事課長と調査係長の二人が着席しており、まるで取り調べのようだという印象を抱くと、本当に取り調べだった。

 なんでも保護課長の下村昌子が、秀樹をパワハラだと人事課に相談したらしい。
「私がですか?
 パワハラなど、する訳ないじゃないですか」
 まったく覚えのないことに、怒りを通り越して呆れた。

「いったい何だと言って、下村課長はそんなこと言っているんですか!?」
 人事課長によると、横領事件が発生した際に下村課長は、東郷部長からひどく叱責された。
 課内の業務点検や報道発表と取材対応もあり、精神的疲労が激しく、メンタルクリニックで精神安定剤や睡眠薬を処方されるも眠れず困っている。
 部長のパワーハラスメントによるものが要因として大きい、との訴えだったという。

 秀樹は、腰から力が抜けていくのを感じた。
 今度は、パワハラか。
 それも未だかつて、自分が訴えられるなんて思いも寄らなかったことだ。仕事に対する情熱で熱くなることはあっても、気持ちの優しい男だ。そう皆も思ってくれているのではなかったのか?

「ひどく叱責された、ということですが。
 事件が発覚した際、私の方から尋ねるまで報告がなかったので、報告が遅いということを注意したんですよ。部下が事件を起こしたことについて課長を責めたとか、そういうことはしていない。報告を怠っていたことを、危機管理の面から注意しただけです」

 秀樹が思い出しながら弁明すると、人事課長は
「それもお聞きしました。ただ、当時下村課長は、課の職員に分からないよう秘密裏に中川の仕事内容の調査をしたり、同じ係の業務点検をしたり、と非常に繁忙だったので、部長への報告が遅くなったということを話されていました。
 また、東郷部長は、いつも紙の資料を求められる方なので、調査と点検の概要を簡易なペーパーにまとめてから、部長にご報告しようと思っていたそうです」と、下村に代わって伝えてきた。

 うーむ。
 これはいよいよ分が悪い。
 慰留されれば、などと考えたのは思い上がりだったのかもしれない、と秀樹はがっくりと肩を落とした。

「それから、中川職員の処分内容について決まり次第、総合福祉課長の方にご連絡します」
 追い打ちをかけるように、調査係長から告げられた。
「今回は、職員だけでなく上司の方も、管理監督責任について処分の対象になってきますので」


八方ふさがり

 人事課から職場に戻り、下村課長の姿を目で探すも見当たらなかった。
「課長は、今日不在だっけ?」
 保護課の管理課長に尋ねると、今日は休みだという。
 休暇のシステム決裁は、通常、所属長である部長が行うが、今朝は部長が本庁に外勤していて不在だったため、総合福祉課長が代決したとのことだった。
 休み、か。
 秀樹が部長席に戻ろうとすると、総合福祉課長の刈屋崎から
「部長、すみません。今ちょっとお時間ありますか?」と呼び止められた。

 会議室で二人きりになると、刈屋崎が口を開いた。
「実は先ほど、人事課から連絡がありまして。
 横領事件の懲戒処分が決定したとのことです」

 ちくしょう。
 さっき、本当は処分内容が決まっていたのを、俺には言わなかったのか。

 処分の内容は、以下の通りだった。

 事件を起こした職員、中川大介は、懲戒免職
 直属の上司として、保護係長の亀山浩三は、減給6ヵ月
 保護課長の下村昌子は、減給3ヵ月
 厚生福祉部長の東郷秀樹は、減給1ヵ月

 本人だけでなく上司も、管理監督責任をそれぞれ問われる結果となった。

 大きな落胆を顔面に宿した秀樹に、刈屋崎は「大変でしたね」と気の毒そうに言った。
「ああ、本人は横領したんだから、懲戒免職は免れない。
 上司も縦のライン、みんな減給か。
 部下の不始末は、上司が責任を取るのは仕方ないからね」と、秀樹は無理に笑顔をつくって言った。

「そうですね」
 刈屋崎は、壁の向こうの保護課の方を見やってこう続けた。
「下村課長、最近メンタル的に参っているんで、そこへ来て自分も懲戒処分、大丈夫でしょうかね」
「メンタル的に…?」
 刈屋崎も、パワハラという下村の訴えを知っているのか?

「はい、あの事件の後から眠れないって、クリニックに通っているんですよね。今日も休んでますしね」
 さらに彼は
「今回のことって、保護課だけの問題だったんでしょうかね」と言った。
「いや、課だけで済まないから、部長の自分まで処分されたんで。管理監督がきちんとできていなかったってことだ」
 自らの責任を痛感していることを、秀樹は言葉にした。

 ここで普通なら
「いや、でも職員のプライベートなこと、離婚して養育費を払わないといけなかったとか、借金があったとか、っていうことまでは、なかなか上司も把握するのは難しいですよね」などという慰めにもならないが一応慰めの言葉を、期待したいところだ。

 が、彼はこう続けた。
「下村課長からは、私がいろいろと相談を受けていたんですよね。部長からひどく叱られた、って」


――――第7話に続く











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