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いいかげんで偽りのない僕のすべて ①


 あらすじ
 
 2014年の夏休み、高校三年生の健太郎の家にひとつ年下のいとこの初音が
 やって来る。健太郎が暮らすのは四方を山に囲まれた田舎町。
 初音も四年前まで住んでいて、健太郎とは仲がよかったが、離れてから
 は特に交流はなく、二年前の祖母の葬儀以来の再会だった。
 突然の初音ひとりでの訪問を健太郎を不思議に思う。
 すると初音は妊娠していて、堕胎手術をするために来たと打ち明け、
 同意書にサインしてくれないかと頼む。
 思いがけない初音の告白に健太郎は混乱する。
 「正しさ」と「心のままに」の葛藤が絶えない健太郎が
 いとこの初音を含めた三人の女の子を通して
 自身の答えを見つけてゆく物語。
 
 
      
     いいかげんで偽りのない僕のすべて


 夏休みの半分が過ぎた頃、いとこの初音ちゃんからメールが来た。二年前にアドレスを交換してから、初めてのことだった。

『そっちに遊びに行きたいから、駅まで迎えに来てもらえない?』

 唐突なメールに違和感を感じたが、特に追及せず『分かった』と返信した。それから一週間が経ち、僕は彼女が知らせてきた時刻表に合わせて、電車が到着する十時四十分に間に合うように駅に向かった。
 初音ちゃんの住む街からここまでは特急と電車を使っても四時間以上掛かるため、おそらく朝の六時前には家を出ただろうと思われた。
 四年前まで初音ちゃんは僕の家と車で十五分の隣町にいた。けれどもひとり娘の初音ちゃんを「いい学校に通わせたい」伯母さんのたっての希望により、ここを出ていった。 山に囲まれたこの地から東京まで480キロ離れているが、初音ちゃんが越していったのは、都心からさらに東に位置する急激に都市開発の進んだ人気のベッドタウンだった。
 緑豊かな公園に食料品も日用品も充実した巨大ホームセンター。地域医療の根幹になる総合病院。三千人を収容できるイベントホールには行政施設も併設されている。ファミリー層を獲得するための目玉でもあるマンモス保育園は野球のグラウンドぐらい広かった。
 碁盤の目に区画された住宅地には真新しいアスファルトが敷かれ、似たような外観の家がずらりと並んでいる。多少のデザインの違いはあろうと箱庭程度の花壇に車二台が停められる駐車スペースはどこも同じだった。
 近くには建設中の新駅とタワーマンション。大型ショッピングモールへも専用バスで十分という、立地も住環境も整った利便性に優れた街であった。
 四年前に初音ちゃんが越してから一度だけ家族で遊びに行った。CMに出てくるロケーションみたいにどこもかしこも綺麗だったが、あまりに人工的過ぎて僕は逆に馴染めなかった。
 街は異常なほど清潔で、ここそこに花が植えられ、小綺麗な身なりの住人たちはみな愛想がいい。「ここに住めばみんな幸せになれるんだよ」的な、ある種マインドコントロール化された徹底した明るさが返って不気味だった。とはいえこういう土地にマイホームを構えるのはひとつのステータスでもあるから、安心と名誉を守りたい思いがそうさせるのかもしれなかった。
 僕はそこを「洗脳タウン」とひそかに名付けていて、その一度っきり行ってないが、母はかなり気に入っていて、三ヶ月に一度はひとりで出向いて、初音ちゃんの家で一泊してくるのだ。
 山ほど紙袋を抱えて帰宅する母は「ほんとにあそこは住むのに最高ねえ」とすっかり洗脳されて戻ってくる。主婦にはきっとそうなのだろう。
 
 見渡す限りの山と田んぼ。一番近いショッピングモールでも車で一時間半費やす田舎より、徒歩圏内でなんでも揃う所の方が便利に決まっていた。
 初音ちゃんたちはとてもあっさりここから去って行った。伯父さんもわりと遊ぶのが好きな、流行りのものにもこだわりなく手を出す人だったので、伯母さんの提案に一切反対しなかったからだ。
 けれど地元の工房で靴職人をしている僕の父は、伯父とは正反対の昔がたきの実直な性格で、新しくて便利なものより、少々不便でも使いやすさを重視するため、よほどの理由がなければ住み慣れた土地を離れるなど、絶対にしない人であった。車がなければ生活できない田舎でも、馴染みの住人がいて、勝手知ったる場所で安らかに暮らしたい。その気持ちに僕は賛同しているが、保守的な生き方を好む父に母は内心失望していた。
 地域ごとの自治会は消防団も兼ねており、週に一度、順番の見回り活動があるのだが、それが終わればただの飲み会になり、めいめいの家から料理を持ち寄るのが慣習となっていた。その度に十人前のつまみを作らねばならず、母はそれがとても嫌いで「面倒な付き合いのない人達が羨ましいわ」とぶつくさ言いながら鍋をかき混ぜている。だからなのか、僕のことを東京の大学に行かせたがっていた。

「あんたは頭がいいんだから、その気になれば東大にも入れるわよ。もっと広い世界を知らなきゃ」
 
 父がいる時にこれ見よがしに言う。僕は明確には答えず適当にあしらう。まだ志望校すら決まってないのに、もしそっちで受験することがあれば家に泊めてもらえないかと、姉である初音ちゃんの伯母さんに電話してたりする。なので母は先取りの恩返しのつもりで、二年ぶりにこっちに来る初音ちゃんを歓迎した。けれどもどのぐらい滞在するのか聞いても、初音ちゃんははっきり答えず「行ってから決める」と言うのだった。
 伯母さんの希望通り、初音ちゃんは「いい学校」に進学した。大学までエスカレーター式の女子校で、伯母さん曰く箔が付く学校らしい。
 僕らはひとつ違いで、隣町にいた頃はしょっちゅうみんなで会っていて、仲もよかった。初音ちゃんは特別おとなしくもなければギャルやヤンキーでもなく、かといって勉強熱心でもない、ごく普通の女の子だった。僕はわりと勉強が得意だったので、初音ちゃんの家庭教師みたいなこともしていた。どちらも一人っ子なので兄妹のように接していた。だから僕らが部屋に籠って何時間も過ごしてても母も伯母も何ら気にかける様子もなく、実際なにもなかった。
 
その意識のまま離ればなれになったが、僕が洗脳タウンに遊びに行った時は、互いに思春期真っ只中で、うまく喋れなくなっていた。たった三ヶ月の間に初音ちゃんは妙に大人びて垢抜けていた。こっちにいた時は僕の前でげらげらと笑うような子だったのに、別人みたいにしおらしく、ずっと一定の距離を取っていた。ただそうして遠くから眺める初音ちゃんは案外可愛い子だったんだと初めて認識した。どちらも妙な恥じらいを含みつつも、やはり田舎との文化の違いは否めず、もう話は通じないんだなと思った。
 再会したのは二年前。祖母のお通夜だった。どっちも少し成長していたせいか、かつてのぎくしゃくがなくなり、初音ちゃんは以前のように僕に話し掛けてきて、そこでアドレスを交換した。だが頻繁な交流はなく、確認のために一度簡単な文面を送っただけで終わった。いとこ同士でマメに連絡し合うこともないので、別に気にしてなかった。
 なのに突然初音ちゃんからメールが届いたので変な感じがした。遊びに来るなら普通は伯母たちも一緒だからだ。けれども来るのは初音ちゃんひとりというので、なんだか疑問が残った。

 夏の盛り。僕は白いポロシャツとジーンズで、駅舎のベンチに座りながら文庫本を読んでいた。ありがちな若者の鬱屈ものだが、僕は一度読み出した本は絶対最後まで読むのがモットーなので、ただの暇潰しだからと、なるべくフラットな気持ちで読み進めていた。
 僕みたいに田舎に住む人間からすれば、本は娯楽なので「コイツ頭おかしいんじゃないの?」と思うぐらいの作り話が面白いのだが、最近はあらかじめ感情や顛末の指針が示されてるものばかりが目につく。帯に〈泣ける〉だの〈大どんでん返し〉だのあると返って読む気が失せる。感動ならこっちで勝手にするから放っておいてほしい。読者を鈍感扱いしてるのか、作者の意図を考察する楽しみを搾取されてる気がする。どこに行き着くか分からないから読書は楽しい。そもそも全ての小説が異世界なんだからリアリティーなどどうでもいい。どうしても教えたいことがあるならノンフィクションで書いてくれと思う。僕は創作物からは一切影響を受けないので、小説という媒体ならば、ただ面白いものを読ませてくれればそれでいいのだ。
 やれやれと思いながらページを捲っていると「間もなく上り列車が参ります」と、アナウンスが聞こえ、時計を見上げた。
 十時三十八分。文庫本をジーンズの後ろポケットにしまって立ち上がった。ホームに歩いてゆくと、右方向からベージュの車体に朱色のラインが施された、年季の入った列車がやって来るのが見えた。ガタン、ガタン…と重そうなくたびれた音を立てている。白い日差しが降り注ぐプラットホームに人はまばらで、老人ばかりだった。
 錆び付いた車両がゆっくり前を通り過ぎた。いくつもの窓を見送る中、見覚えのある顔が横切った。初音ちゃんだった。僕を見つけた彼女はすぐに表情を明るくさせた。肩下までの真っ直ぐな髪を垂らして手を振った。僕も手を上げて応えた。間もなくして電車が停まり、扉が開いた。
 通り過ぎた車両の方に歩いていった。駅名を繰り返すアナウンスが響く最中、大きいバックを肩に掛け、右手には手提げ鞄と紙袋を持った初音ちゃんが降りてきた。

「こんにちはあ」
 初音ちゃんは笑いながら手を振った。
「こんちは。久しぶり」
 
 僕は少し戸惑いながら彼女を迎えた。初音ちゃんはすごく短いデニムのスカートを履いて、黄色と白のキャミソールを重ね着し、うっすらとだが化粧もし、オレンジ色の底の厚いサンダルでにっこりしながら歩いてきた。どこから見ても今時の女子高生に仕上がってて、いかにも都会から来た子とひと目で分かる出で立ちだった。

「あれえ、健太郎君また背伸びた?」
 初音ちゃんは僕を見上げ、手の平を頭を方に伸ばした。
「伸びたよ。毎年二センチずつ大きくなってんだ」
「えーほんとお?じゃあ今何センチあるの?」
「178ぐらい。もうこれ以上いらないんだけどね。背があっても役に立たないから」
「そんなことないよ。男の子は背がある方がいいよ。あたしは中三で止まっちゃった」
 二本の前歯を見せながらショルダーバッグを軽く直した。斜めがけにしているせいで、胸の膨らみが強調されていた。なんとなく目のやり場に困り「持つよ」と僕は手を出した。
「いいよ。大丈夫」
 
 初音ちゃんは手と首を同時に振った。僕がもう一度「持つよ」と手の平を広げると、目をきょろりとさせて「ありがとう」とバックを肩から外した。受け取ったバックはそれなりに荷物が詰められていたが、たいして重くはなかった。僕はそれを肩に引っ掛けて、初音ちゃんと改札を出た。

「母さん今日仕事で来れないから、バスだけどいい?」
 駅舎に入って聞くと、うんと初音ちゃんは答えた。
「次のバスまで四十分ぐらいあるんだけど、暑いからここで待ってよっか」
「タクシーでもいいよ。あたしお金あるから」
「えー三千円ぐらい掛かるよ。いいの?」
「お母さんからお金もらったから。暑いし、そうしようよ。こんなとこで四十分も待ってたら寝ちゃいそう」
 なんてことなさげに初音ちゃんは言った。バスなら二人でも四百八十円で済むのだが、出してくれるならいいかと思った。
 とにかく暑かったので、駅舎を出てすぐ横にある自動販売機で飲み物を買った。「何かいる?」と尋ねて500円玉を投入すると、初音ちゃんは麦茶を選び、僕はサイダーにした。出てきたペットボトルを渡すと「ありがとう」と受け取り、初音ちゃんはすぐに蓋を開けて飲んだ。
「あーおいしい。冷たーい」
 額に汗を滲ませる笑顔は小さい頃と変わらなかった。初音ちゃんはいつも笑ってるような垂れ目で、くるくるとよく動く大きい瞳をしていた。小さい鼻にぽってりした口唇。笑うと二本の前歯が目立つので、リスみたいだなといつも思っていた。童顔で、中学生にも見えるが、化粧をしているせいか、横顔がフランス映画に出てくる女の子みたいだった。ちょっと物憂げで、絵に描きたくなるようなポートレート。麦茶を持つ指先には小さなラメがキラキラ光っていた。
 女の子はみんなちゃあんと女の子の道を通って行くんだなと思った。修学旅行の時もクラスの女子がネイルシールで盛り上がっていた。年頃になるともれなく入るスイッチで、爪を綺麗にしたくなる欲求は避けられない通過点らしい。 ひとつ違いだが、この子も大きくなったんだなあと感慨に耽った。
 光沢のある爪先を見ながらサイダーをひとくち飲んだ時、駅の脇に黒いワンボックスカーが停車し、扉が開いた。
「あれ、健太郎じゃん」
 助手席と後部座席から降りてきたのは同級生の男子三人だった。みなリュックを肩に下げ、手に飲み物か携帯を持っていた。僕に声を掛けたのは隣の席の林田という友人だった。林田に続いて他の二人も「あーほんとだ。健太郎だあ」と意味なくオーバーリアクションしながらこちらに歩いてきたが、
彼らの視線が即座に初音ちゃんへと移行したのが分かった。
 初めて見る女の子と僕の関係に興味津々なのが表情に滲み出ていた。けど僕はなんだか説明したくなかった。高校三年生にもなって、女の子といるのを見つかったぐらいでアタフタしたくなかったからだ。
「どこ行くの?」みんなの関心を敢えて無視した。
「予備校の夏期講習だよ」林田が答えた。「一時から七時まで」
 ああ、と僕は頷いた。そして彼らがどこ予備校に通ってるのかを聞いてから「じゃあ頑張れよ」と手を振った。初音ちゃんに「行こうか」と声を掛け、またなとタクシー乗り場の方に歩いていった。
 初音ちゃんは麦茶を飲みながら僕の後を付いてきて、友人らに心ばかりに頭を下げた。客待ちしていた黒いタクシーに乗り込む時も、三人はずっとこちらを見ながらヒソヒソ話し、ひとりは携帯電話に何かを必死に打ち込んでいた。何を書き込んでるのかは知らぬがどうでもよかった。僕と初音ちゃんの仲を勘違いしたところで、僕と初音ちゃんにはなんの関係もないからだ。

 僕らは並んで後部座席に座り、家の場所を告げた。午前中でもかなり気温が高いからか、エアコンがごうごう鳴った車内は涼しく一気に肌が冷えた。
「峠ぐるっと回ったとこの、八幡神社の通りかな」
 道を確認する運転手に、そうですと答えると「はい」とシートベルトを締めてゆっくり発車させた。芳香剤らしい、花を煮詰めたような匂いがしていた。運転手は高齢に近い男性なので、自分の体臭でも気にしてるのか、やたらと強い匂いで、なんだか息苦しくなった。クーラーの送風に流れて充満してくる香りを逃すために少しだけ窓を開けると「匂います?」と運転手が聞いた。
「すいません。酔いやすくて」
 はいとは言えないので嘘を付いた。すると右奥にいた初音ちゃんも「ごめんなさい。あたしも車弱いんで」と窓を開け「臭いよね」とサイレントで口を動かし肩を竦めた。僕らは目だけで頷き合った。
 
 走り出した窓の隙間からでも威力を発揮する熱風とざんざん鳴く蝉の声。真夏の昼間、いつも寝不足の僕は最高レベルの太陽光と道路に照り返す白い光に目が痛くなった。信号待ちしてる横断歩道には陽炎が揺らめいている。あらゆるものが歪んでしまいそうなほどの炎天下。それでも初音ちゃんは前髪をたなびかせながら、懐かしなあ、空ひろーいとずっと外を眺めていた。
「そういえば健太郎君は夏期講習とかないの?」
 思い出したように初音ちゃんはこっちを向いた。「受験生でしょ?」
 うん、と僕は返事した。「明後日からある」
「健太郎君こっちで進学するの?それとも上京するの?」
「まだ決めてない。なにが自分に合ってるのか分からなくて」
「でも健太郎君、北高でしょ?めちゃくちゃ頭いいじゃん。前に叔母ちゃんが来た時、健太郎君には東京の大学に行ってほしいって言ってたよ。もう少し頑張れば東大だって目指せるのにって」
「まさか。無理だよ。母さんが願望言ってるだけだよ。自分が田舎から出たいもんだから、息子をあてにしてるんだ。東京に行く理由がほしくて」
「じゃあ健太郎君は東京に行きたいとは思ってないの?」
「それも分からない。特別憧れてもいないしね。初音ちゃんは今の学校はいいの?伯母さんは初音ちゃんのために向こうに引っ越したみたいだからさ」
 初音ちゃんはとつんと黙った。大きい目を泳がせ、さくらんぼ色の口唇をわずかに尖らせた。いい答えは持ってないという感じだった。
「あんまりよくないの?」続いて聞くと「うん」と短い声で頷いた。
「全然よくない」
 思いがけないすっぱりした回答に僕は笑った。
「誰か、やなことする人がいるの?」
 少し心配になった。それが原因で突然こっちに来たくなったのかと思ったからだ。けど普段伯母と連絡を取り合ってる母からもそんな話は聞いてなかった。初音ちゃんはふて腐れたように髪を撫でながら「毎日つまんない」と
首を傾けた。
「裏表がありすぎて誰を信じていいか分からない。すっごい疲れる」
「女子校特有のもの?」
「かもね」
「友達はいるの?」
「いると言えばいるし、いないと言えばいないかな。ひとりになりたくない人達同士でつるんでるだけだから。本当に思ってることとか、本当の気持ちを言わないっていう暗黙のルールの元に付き合ってんだもん。そんなの友達って言わないでしょ」
 初音ちゃんは拗ねた顔をして麦茶を飲んだ。
「でもそのぐらいの付き合いでいいんじゃない?自分のことをなんでも知ってる奴がいるなんてやだよ。そんぐらいの距離感がちょうどいい。相手の事情もよく知らない方が離れたい時に離れられるしさ」
 僕はシートに寄り掛かった。初音ちゃんは肩を揺らしながら、ふふっ…と笑い「健太郎君らしいね」と口を波形にした。僕も少し笑った。車が大きくカーブを描きながら峠を下っていった時だった。
「―お客さん、北高の生徒さんなの?」
 運転手が突然聞いてきた。「あ…はい」僕は答えた。
「あれ、どうなったの?解決した?」
「ああ、まだ全然。なんも進んでません」
「そうなんだ。困っちゃうねえ。早くなんとかしないとなのに。いい迷惑だよねえ。生徒さん可哀想に。役所も何もしないんでしょ?」
「はい。僕らも手立てがないんで、どうしようもなくって」
 運転手はバックミラー越しに首を捻った。
「なんのこと?」
 初音ちゃんが聞いた。「学校、なんかあったの?」
「知らない?」
「知らないよ。どうしたの?」
「学校っていうか、学校のすぐ脇にある山に、ある日いきなり産業廃棄物が不法投棄されてたんだよ。たった一晩のうちに運ばれてきて、それがすごい量で、山の半分埋めるぐらいに積み上がってるんだ。重金属だのシアン化合物だの、特別有害物質に指定されてるようなものも混じってるみたいで、臭いがすごいんだ。ほんとはすぐ処理しなきゃいけないぐらいの危険物なんだけど、山の持ち主だった人がもう亡くなってて、親族も見つからないとかで、誰も手が出せないんだよ。けどフェンス挟んだ校庭のすぐ脇だし、有害ガスなんか発生したら死人も出るし、その前に崩れてくる危険性もあるしで、誰がこれを片付けるかって、ずーっと揉めてんだよ。役所は私有地だから勝手に入れないってなんもしないし、かといって塀を作るとなれば金が掛かるから、生徒からも徴収しないと無理だってんで、四ヶ月も手付かずのままなんだ。教室の窓から毎日それが見えるよ。呼吸器が弱い子なんかは息が苦しいって言って休んだりもしてるし、体育も外の部活も中止になってて、えらい問題になってんだ。地元のテレビ局とか週刊誌も取材に来てたよ。結局なんも変わってないけどね」
 座り心地が悪くなり、僕は後ろポケットから文庫本を取り出して膝の上に置いた。「ふうん」とたなびく髪を耳に掛けながら「なんの本?」と初音ちゃんが聞いた。本の表紙が見えるように斜めに上げた。
「知らないなあ」
 初音ちゃんは目をしかめた。
「つまんないから知らなくていいよ。初音ちゃんの学校生活と同じぐらいに退屈だと思うよ」
 本を手の中で丸めると「じゃあ絶対読まない」 と初音ちゃんは僕を見て笑った。
 眩しいほどに茂った木々に覆われた峠を越えると、僕の家も近い。 こじんまりと拓けた町。国道には駐車場の広いチェーン店がまばらにある。
「ずいぶんお店が増えたみたい」
 初音ちゃんは窓に額を押し付けて首を左右に動かした。
「ちょこっとだけね。総体的にはあんま変わってないよ。初音ちゃんが住んでるとこに比べたら、なーんもないよ」
「ねえ、まだ『ハニー・ハニー』ある?今でも時々あそこのはちみつパン食べたくなるんだよね」
「あるよ。今も人気だよ。放課後行くと、もう売り切れてる」
「そうなんだ。行きたいなあ。明日か明後日行ってみようかなあ」
「行くなら3時までだね。その辺があるとないの境目だと思う」
「健太郎君一緒に行ってくれる?」
「いいよ」
「そういえばさ、あたしが前に住んでた家って、今どんな人が住んでるのかな。健太郎君見たことある?」
「誰も住んでないよ。更地になってるから」
「え、ほんと?」
「ほんとだよ。知らなかったの?伯父さんたちあの土地売って今の家を買ったんでしょ。区画整理して道路作ってる。国の事業だから高値が付いたって聞いたよ」
 初音ちゃんはぽかんとした顔で僕を見入り「―知らなかった…」とひどく落胆したように呟いた。故郷にまだ生家が残ってるかもしれないという郷愁を踏みにじったようで申し訳ない気持ちになった。けれどそんなこと伯母がとっくに話してると思っていた。失言だったかなと反省したが、僕自身もなぜか傷付いた感じがした。
「ところで今回、なんで急にこっちに来たの?初音ちゃんひとりでさ。なにか用があったの?」
 話題を変えようと、不思議だった疑問を問いかけてみた。まさか自分の生家を見に来たわけでもあるまいと思ったからだ。
 初音ちゃんは真っ直ぐ前を向いたまま瞬きを繰り返すと「今は言えない」とリセエンヌの横顔で口をつぐんだ。
 
 家の横にタクシーを停めてもらい、荷物を肩に下げて先に降りた。2800円の料金は初音ちゃんが払ってくれた。車から出る時、短いスカートの裾が捲れそうになって、慌てて目を逸らした。立ち上がった白い足はやや内股で細く、きっとすべすべしてるんだろうなと思わせるように艷めいていた。
 健康そうな二本の足をしばらく見ていた。特に膝から下につい目が行ってしまう。いつしかそうした癖が身に付いていた。
 僕の家は坂の上にある。色褪せた赤い門を抜けると、日曜日に父が手入れをしている植木だらけの広い庭が建物の前にせりだし、丸い敷石が玄関まで点々と続く。家は築30年の日本家屋で、縁側があり、木の雨戸があり、人目がないので格子の引戸の玄関扉は留守の時以外は基本開きっ放しだった。
 横長の靴脱ぎ場から三和士にあがると三方に別れる廊下がある。生前同居していた祖母はここで習字教室をやっていて、生徒さんが百人以上いたため、増築したり改築したりしてるうちに、迷路みたいな入り組んだ構造の家になったのだ。祖母が病に伏した5年前に教室は閉鎖し、看板も外したが、長年の墨汁の匂いは染み付いていて、三人で暮らすにはいらないほどの部屋を持て余していた。しかも廊下を無理矢理繋いで増築しているので、外観に年代の差がはっきりと出ていた。壁の色や素材、窓のデザインで、ここまでは昭和、ここからは平成と、明らかな違いがあった。
 僕の部屋は平成に建築された。土地に段差があるため、玄関から右手側の廊下の突き当たりを左に曲がると、七段の下り階段がある。だが地下ではなく、廊下の窓からは空も見えるし、東向きなので朝日も入るが、どこからも覗かれない独立空間になっているので、僕はとても気に入っていた。
 階段を降りて左に窓。右に僕の部屋。廊下の奧には不自然に空いたスペースがある。子供だった僕らが遊べるようにと作ってくれたのだが、もう誰ともここですごろくやゲームをしないので、二年前にいらないものを片付け、代わりに小さなテーブルセットを置き、そこで本を読んだり、昼寝をしている。適当に明るくて静か。誰にも邪魔されないため、リラックスするのにちょうどいい場所だった。
 僕は子供の頃からわりと成績がよく、真面目な優等生タイプだったので、
両親から怒られたことがほとんどなかった。いつでも安心できる子供であったおかげで、この空間が与えられてから、親が出入りすることもない。内線の電話で食事の時間や客が来たことを知らせてくれるので、階段を降りれば完全に僕だけのエリアだった。

「あー、おばあちゃんちの匂いだあ。墨汁の匂いするう」
 初音ちゃんは玄関に入るなり、鼻をクンクンさせて家を見回した。
「わあ懐かしい。相変わらず広いねえ」
「無駄にね。蟻の巣構造だから」
 僕が先に上がると「お邪魔しまーす」と初音ちゃんもサンダルを脱いだ。両親共に仕事をしているので、平日の昼間は家にいない。初音ちゃんがどの部屋を使うか母から聞いてなかったので、とりあえず居間に行き「ここに置くよ」と荷物を壁際に下ろした。ありがとう、と初音ちゃんはその中から紙袋を取って「これお土産」と差し出した。
「叔母ちゃんの好きなチーズケーキ。保冷剤3つぐらい入れておいたんだけど、暑いから冷蔵庫で冷やした方がいいかも」
 ありがとう、と受け取り、キッチンに行って冷蔵庫を開けた。勿体ない癖の母が溜め込んだタッパーだらけだったが、なんとか他の棚に移動させて、ケーキの入った箱を冷蔵庫の下の段に無理矢理しまった。
 居間に戻ってから縁側の窓を全て開け放った。外は日差しが強いが、高台にある家なので室内に涼しい風がゆるりと舞い込む。未だに名前を知らない家の正面に聳える深緑の山。庭は広いばかりで芝生が敷いてあるわけではなく、乾いた土がむき出しになっている。そこに松やカリンや柚などが植えられていて、魚はいないが小さな池もあった。
 小さい頃はこの庭にビニール製の特大のプールセットを設置してもらい、初音ちゃんと滑り台を滑ったり、伯父さんと水鉄砲を撃ち合って遊んだ。近所の友達も来て、みんなでバーベキューをし、夜になれば花火をやって盛り上がった。けれども子供たちの成長に伴って、少しずつ集まらなくなっていった。初音ちゃんの引っ越し、次いで祖母が病気になると、庭は植木と洗濯物だけになった。僕と初音ちゃんは縁側に立ったまま、殺風景なひなたの庭を黙って眺めていた。
「ここに来ると楽しい思い出しかないなあ。今の自分と比べると、あの頃のあたしって本当にただ無邪気だったんだなって思うわ。なーんにも考えてなかったもの。その時その時で、ただしたいことして、夜は疲れてぐっすり寝るだけ。それで朝になったら飛び起きて、また虫を採ったり、川で遊んだり、スケッチブック持って絵を描きに出掛けたりすんの。お昼はおばあちゃんが流しそうめんしてくれてさ、かき氷機で氷ガリガリ回して、色んなシロップ掛けて食べて、お腹痛くなってお母さんに怒られんの。でもまた次の日に同じことするのよね。健太郎君はいつもメロン味だったよね。たしか」
 初音ちゃんは僕ににこりとした。うん、と頷いた。
「ねえ、健太郎君の部屋、まだあの下のまま?」
「そうだよ」
「行ってもいい?」
「いいけど、なんにもないよ」
「いいの。行きたいの」
 初音ちゃんは両腕を頭の上に伸ばして、最初から決まってる角度のように小首を傾げた。腕を上げたせいで服も持ち上がり、隙間からウエストのラインがちらと見えた。


② https://note.com/joyous_panda989/n/n615273c6bcaf

③ https://note.com/joyous_panda989/n/n478c997a93c0

④ https://note.com/joyous_panda989/n/n5b909fddbdcd

⑤ https://note.com/joyous_panda989/n/nb7d889f31a7b

⑥ https://note.com/joyous_panda989/n/n1724d1b75e13

⑦ https://note.com/joyous_panda989/n/n9bf0e7f7f04c

⑧ https://note.com/joyous_panda989/n/n98cd2749481a

⑨ https://note.com/joyous_panda989/n/nedc7fbd0d542

⑩ https://note.com/joyous_panda989/n/n342f3f093a01

⑪ https://note.com/joyous_panda989/n/n7313c58abd18

⑫ https://note.com/joyous_panda989/n/n8d53b52d220a

⑬ https://note.com/joyous_panda989/n/n4075df4a4edc

⑭ https://note.com/joyous_panda989/n/n93d992acd36a

⑮ https://note.com/joyous_panda989/n/n490c812d2abd

⑯ https://note.com/joyous_panda989/n/nf4e295f6f93a

⑰ https://note.com/joyous_panda989/n/n90f047e57c1a


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