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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑩


 週明けから初音ちゃんはひとりで出掛けるようになった。中学までの友達と会ってるらしく、帰宅した時はいつもテンションが高かった。時間を持て余してあちこち行っていて、水曜日には「健太郎君の学校のゴミ見てきたよ」と夕食を食べながら言った。
「あれがあのままなんてひどいね。臭いもすごかった。九月に学校行けるの?」
 初音ちゃんはあくまで無邪気だったが、実は我が家でこの話題はタブーだった。今や廃棄物は町の奇妙な名物と化し、以前から他校の生徒や見知らぬ住民が面白半分でよく見物しに来ていた。初音ちゃんのような野次馬は珍しくなく、町民共通の関心事になっているが、当事者にとっては笑えない問題
になっているからだ。
「さあね。みんなでガスマスクして通うんじゃない。アルマゲドンみたいな格好して」
 僕は冗談のつもりで返したが、その話題になると母は必ず不機嫌になる。僕の通う高校は県内屈指の進学校で、息子がそこの生徒であるのが母には誇らしかった。けど今は「北高校」と言えば「ゴミ」と変換される。それでなくとも高校三年生の親ともなれば神経質になるもので、これからという時に不本意な理由で登校禁止の通達がなされば、憤懣が溜まるのも無理はなかった。愚痴を言い出すと止まらなくなるので僕は避けていたが、それを知らない初音ちゃんは火口に火種を投下してしまったのである。
「ほんとにどうして誰も片付けられないのかしら。学校よ。なにより安全の
確保が大事な場所なのに、いつまでもあんなものを置きっぱなしにするなんて気が知れないわ。この子ももう受験生なのに、学校に通えなくなったらどうしてくれるのよ。結局はみんなお金を渋ってやりたくないだけなんでしょ。税金払ってるのに、行政も教育委員も全然あてにならないんだから。新学期は様子は見てですって。手紙ばかり寄越してなにもしないんだから」
「警察は調査してくれてるのか?捨てた業者を調べてるのかね」
 珍しく父も発言する。なにもない田舎町に突如現れた公害は、平和以外謳うとこがなかった僕らの故郷を不名誉なイメージで有名にしてしまっていた。これまで何度も説明会が開かれており、父も参加したことがあるが、いつも堂々巡りの平行線の議論で終わる。半月前の三度目の説明会後に家に帰ってきた父は「このままじゃ解決しねえな」と、もらってきた資料をちゃぶ台にぽんと放り、僕にこう言った。
「お前はいつまでもこんなとこにいない方がいい。ここにはいい大人がいねえよ」
 僕は返事をしなかったが、その言葉が胸にずっと残っていた。結局その晩の夕食は母の溜め息のマシンガンの連射で空気が重かった。初音ちゃんはあとでこっそり「ごめーん」と凹んだ顔で僕に謝ってきた。いつもだから気にしないでいいよと手を振ると「深刻なんだねえ」と初音ちゃんも溜め息を溢していた。

 手術から一週間後の土曜日、検診に行く初音ちゃんに同行した。回復は良好で、特になんの問題もないと診断された。これで本当に初音ちゃんは普通の高校生に戻れたのである。心身症の症状も今のとこは見受けられず、夜も眠れてるらしい。よかったね、と言うと、うんと返事して髪を掻き上げた。
 この数日間に初音ちゃんはとても大人っぽくなった。年下と思ってても、女の子にはワープ機能があって、いつのまにか成長して僕ら男子を抜いて行く。初音ちゃんもこの一件で否応にも大人にさせられたのだろう。考えなしだった幼い彼女が懐かしく感じた。
 帰りにいつも来ている花屋に寄った。もう秋の花が揃いだしていて、原色のビタミンカラーから、紫や薄いピンクの楚々とした上品な色合いの花が増えていた。顔馴染みの店員に説明をしてもらいながら、ガラスケースに並んだ花を見ていた。
「わあ綺麗だね。知らない花ばっかり」
 初音ちゃんはひとつひとつを覗き込むようにして「あたしもなんか買おうかなあ」と腰を屈めて選んでいた。離れた場所で見ていると、店員がニコニコしながら僕に耳打ちしてきた。
「よくお見舞いに行ってたって人?元気になってよかったね」
 星野先輩と間違えていた。僕が花を届けてる相手が女の子だというのは知っていて、初音ちゃんは僕の腕や肩など遠慮なく触ってくるので、親しさから彼女と勘違いしたのだろう。面倒なので、お陰さまでとそのままにした。 
 僕は小指ぐらいの花びらが上向きに円を描く淡紫のシオンを選び、初音ちゃんは黄色とピンクのトルコキキョウにかすみ草を加えた花束を作ってもらっていた。
「誰かにあげるの?」
 「うん」と初音ちゃんはにっこりした。包んでもらった花を持って家に戻り、階段を降りて廊下の先にある花瓶を取って台所に向かった。茎が曲がったガーベラを抜いて水を取り替え、包装紙を開けてシオンを生けた。初音ちゃんも花屋で買ってきたガラスの丸い花瓶に、かすみ草とトルコキキョウを形を気にしながら挿した。そしてまた僕の基地の出窓まで持ってくると、シオンの花瓶の隣に初音ちゃんも生けた花を置いた。
「誰かにあげるんじゃなかったの?」
 尋ねると「死んだ赤ちゃん」と花を整えた。
「あたしだけでもきちんとお祈りしてあげなきゃ可哀想でしょ。あたしのせいで生まれてこれなかった。だからせめて天国に行けるように祈ってあげたいの」
 初音ちゃんは2つの花瓶を交互に見上げた。
「健太郎君が買ったの綺麗だね。なんていう花?」
「シオンだよ」
「シオン。可愛い名前ね」
「遠くにいる人を思う、っていう花言葉なんだって」
 素敵。初音ちゃんは小さく呟いて、静かに目を閉じて手を合わせた。頬に涙が伝っていた。僕も横に立って、瞼を伏せて両手を重ねた。消えてしまった小さな命が今安らかであることを祈った。二人で顔を上げると、初音ちゃんは手の甲で涙を拭いていた。慰めの言葉を掛けようかと思って止めた。
もう一歩踏み出している。それを応援してやればいい。辛いことを乗り越えたんだ。恥ずかしいなんて思うことはない。天を向いて咲く鮮やかな花に、
初音ちゃんがこれから元気で過ごせるように願った。

 お昼を食べてから、予備校と学習塾の二ヶ所に見学行くことになっていた。僕はこれまで塾に通わずにやってきたのだが、学校の夏期講習もなくなり、新学期も通常通り登校できるか分からないため、行った方がいいと母が強制にも近い提案をしてきたからだ。
 気が向かなかったが、初音ちゃんも着いて行くというので、渋々三人で見に行った。やだなあが全部の感想だった。帰ってから、絶対成績を落とさないから自力でやると言い張った。
「ほんとに大丈夫なの?」
 母は不服そうにパンフレットをちゃぶ台に置いた。そしてちょうどお隣さんが回覧板を持ってきたタイミングで居間からいなくなると「行かないでいいのお?」と初音ちゃんが小声で言った。行きたくない。首を振ると、いいのお?と目をしかませた。
「ひとりで部屋にいたら、いつか肺がんになっちゃうよ」
 にわか喫煙者だった初音ちゃんは姉みたいな口調で説教した。かもねと気のない返事をしながら、なんかずるいぞと思っていた。

 次の日の午後、星野先輩の母親から再び電話がきた。彼女が昨日退院したので、時間があれば顔を見せてやってもらえないだろうかとこんこんと頼まれた。あなたに謝りたいと言ってる。いつでも来てほしいと、芝居がかった声で遠慮がちにもしつこくお願いされた。気は進まないが、断ったら星野家が破滅してしまいそうなので、近いうちに伺いますと答えた。経過を尋ねると、だいぶ落ち着いたとのことだった。安心したけれど、どうしてかモヤモヤが晴れないのだった。
 夜は回転寿司に行った。手術が終わっても初音ちゃんの食欲は健在で、
ぱくぱくとよく食べた。妊婦だからと容認してきたが、ただの食いしん坊のようだった。
 家に戻っていつもの順番で風呂に入り、最後の僕が台所に行くと、もう初音ちゃんしかおらず、ダイニングテーブルの椅子で膝を立ててストロベリーヨーグルトを食べていた。その横を通って冷蔵庫に牛乳を取りに行った。
「一回増えた食欲ってなかなか抜けないんだねー。終わったらリセットされるのかと思ってたのに、これじゃただのおデブになっちゃうよ」
 ヨーグルトを食べながら初音ちゃんは言い訳して口唇を尖らせた。
「初音ちゃんは細いんだから、もう少しぐらい太っても平気だよ。今の女の子はみんな痩せすぎだ。芸能人やネットに感化され過ぎなんだよ。細ければいいってもんじゃないのに」
「健太郎君は痩せてない方がいいの?」
「自然がいいよ。見た目ばっか気にしてる人より、おいしそうに食べてるとこを見てる方がいい。たくましい人が好きだから」
「じゃあ気兼ねなく食べよ。めっちゃ太ったら健太郎君に結婚してもらうから」
 初音ちゃんはヨーグルトの容器を斜めに上げ、スプーンでかき集めて食べ終えると「あーおいしかった」とティッシュで口を拭き「あたし三十一日に帰ることにした」とテーブルにある携帯を取った。
「お母さんから早く帰って来いって何回もメール来てさ、自分から向こうに行けって言ったくせに、終わったら早く戻れなんて勝手だよねえ。ムカついたから夏休み中は帰んないことにした。叔母ちゃんのお手伝いするからいてもいい?一応課題も持ってきたからこっちで終わらせる。健太郎君また数学教えてくれる?」
「いいよ。でもどうせ後ろで寝てるんでしょ」
 僕は牛乳のグラスを持って向かいに座った。
「んふふ。少しはやるよ。ねえもしもの話だけどさ、あたしがこっちに残るのと、健太郎君も一緒に向こうに行くとしたらどっちがいい?」
「一度は出たいなとは思うけど、初音ちゃんはこっちにいたいの?」
「いたいけど絶対反対されるから。だから早く高校卒業してバイトしたい。今の学校バイト禁止で、見つかったら退学なんだ。だからあと一年半も我慢よ。早く自立資金貯めたいんだけどなあ。健太郎君は叔母ちゃんや叔父ちゃんと仲が良くて羨ましいよ」
「普通だよ。特別仲良しってわけでもないし」
「でも怒られたりもしないでしょ」
「そうね。干渉しない一家だから」
「健太郎君はデキがいいからね。煙草吸ってるの、叔母ちゃんきっと知ってるよ。けど健太郎がお勉強できるから知らんぷりしてくれてるんだよ」
「だろうね。だから部屋に来ないんだよ。目撃したらお互い困るから」
「煙草のおかげで健太郎君の成績がいいから止められないんだ。叔母ちゃんも悩みどころだね。頭のいい不良息子がいるって。やっぱり健太郎に東京の大学に行ってほしいから?」
「多分ね。特効隊長がいなくなったら困るからでしょ。そのためなら煙草ぐらい見過ごすよ。初音ちゃんの住んでるとこに憧れてるみたいだからさ」
「えー。あんなとこのどこがいいの。住めば分かるよ。外面だけよくってさ。面倒臭いだけなのに。ここにいたらあたしだって妊娠なんかしなかったのに。あんなに怒るぐらいなら、引っ越さなきゃよかったのにさあ」
「伯母さんは伯母さんなりに初音ちゃんのためになると思ったんだよ。ただ親の予想図と子供の現実はどうやったって掛け離れるんだ。仕方ないよ」
「そんなに割りきれないよ。健太郎君ちは特殊なんだよ」
 僕ら家族が仲がいいと初音ちゃんはことあるごとに言い、珍しがっていた。実感はなかったが、そうなのかもしれなかった。でもよそから見ればどこも変なのだ。僕からすれば堕胎手術にひとりで行かせる初音ちゃんちの方が理解できない。牛乳を飲み干してから立ち上がってグラスを洗った。
「健太郎君もう寝るの?」
「うん」
「じゃあ今のうちに渡しておくね」
 初音ちゃんは隣の椅子に置いていた紙袋をガサガサ探ると「これ」と初日に持ってきた包み紙を出して僕の前についと出した。
「お母さんから預かったやつ。力になってもらったから受け取ってよ」
「いらないよ。なんにもしてないから。初音ちゃんがもらえばいいじゃん。
自立資金に貯めておけば」
「それは自分で貯めるからいい。これは気持ちなの。とりあえず受け取ってよ。口封じだけどいいでしょ」
 初音ちゃんは僕の前にすいと差し出した。ちょうどお札ぐらいの大きさの包み。一センチほど厚さあった。
「三十万ぐらいかな」
 初音ちゃんはいきいきした目をしていた。
「そんなに?すごいな」
 早く、とせかす初音ちゃんの前で包みを開けてみた。出てきたのは細長い白い箱で、蓋を取るとピーターラビットの絵柄の一万円分の図書カードが二枚入っていた。僕と初音ちゃんは同時に爆笑した。
「もう、お母さんたらひどーい。ありえなーい」
 初音ちゃんは椅子から立ってぴょんぴょん飛び上がった。その姿がおかしくて僕はまた笑った。
「いやー、信じられない。あたしのことあんなに怒っといて、二万円分の図書カードで健太郎を協力させようなんてさ。自分の親ながら呆れるわ」
「十分だよ。現金の方が困る。ほんとの共犯者みたいじゃん。これならお礼として受け取れるから気が楽だ。伯母さんにありがとうって言っておいて」
「健太郎君て、人に感謝されることをやっても、感謝されたいと思わないんだね。やったあとのことはどうでもいいんだね。あたしが中学の時さ、八幡様のお祭りで健太郎君に会ったの覚えてる?健太郎君も友達といてさ、あたしも学校の友達といて、会った時にアンズアメほしいって言ったら、みんなの分買ってくれたんだよ。それで友達全員がカッコいいってポーとなったの。いとこなんだって言ったらいいなあって。それからあたしのいとこはカッコいいって、クラスでちょっと有名になったんだから」
「そんなことした?全然覚えてないよ」
「ほらね。前に北高のゴミ一緒に見に行ったのもその時の友達で、いとこがここ通ってんだよって教えたら、すごーい頭いいね、会わせてよって言われたもん。あのアンズアメの人でしょって。やってもらった方はちゃあんと覚えてんだよ」
「えーほんと?」
「ほんとだよ。断ったけど」
「なんでさあ。可愛いの?」
 初音ちゃんは僕の腕をばしんと叩き「手が早いからだめ」と舌を出した。
「まあそれも健太郎君の個性だけどね。あんまり優しくっても気味悪いし。あたしはそういう健太郎君が好きだし、男の子はみんなそんな感じだもんね。でも健太郎君、背も高いし、肩幅あるし、手足長くてスタイルいいじゃん。大学生になったらきっとすごくモテるよ。東京に行かないの?頭いいのに勿体ないよ。それとも彼女がいるから、行きたくないの?」
  僕は初音ちゃんと目を合わせた。急速に眼前の色合いが曇った。
「叔母ちゃんに聞いたんだ。健太郎君の彼女のこと。足が不自由なんだってね。彼女のために、ここに残りたいの?」
 しいんとしていた室内に突然冷蔵庫が唸りだした。まるで僕の心臓とリンクするみたいに激しく振動している。脳髄に手を突っ込まれて掻き混ぜられてるようだった。不愉快というより過敏にさせられた。神経の中枢に針を刺されてじっとしていられなくなる。なんの罪もないあらゆるものがいきなり憎くくなる感情に瞬時にして支配された。
「それは初音ちゃんに関係ない。初音ちゃんだけでなく、誰にも関係ないことだ」
 僕は図書カードの箱を掴み「もう寝るよ。おやすみ」と台所を出ていった。僕自身が一番戸惑っていた。星野先輩の話になると、どうしてこんなに胸が騒ぐのか。理性が抑えられなくなるのか。みぞおちに一発食らったように膝に力が入らなくなり、皮膚の下に虫が這いずってるみたいに全身がざわついてくる。
 部屋に入るなり持っていた箱を机に投げ、本棚の下のソファーを蹴り、ベッドに倒れてひとしきり暴れてから俯せになった。泣きたいのに泣けない。
吐き出せない苦しさの自家中毒。波打つ感情が遠心して揺さぶってくる。
 僕は彼女のことになると子供になってしまう。押し潰されそうになる。自分はなにもできない。なにもしてあげられない。無力さがただ虚しい。
 お前は誰より彼女の側にいたのにてんで役に立たずだな。ずっとそう言われてる気がした。先輩の体は元通りにはならない。足は生えてこない。そんなこと分かってる。僕だけじゃなく神だってできない。だからといって車椅子を押し続けることが僕がしてやれる唯一のことなのか。それしか求められる理由はないのか。可哀想なお姫様に尽くす忠実なしもべとして呼び出しに応えるだけが愛情の証なのか。それこそに感謝なんかいらないというのに。
 なにひとつ進展せず、誰ひとり声をあげない。それをよしとする小さい世界での暮らしが彼女の幸せだと納得していい材料がどこにも見つからない。
こんな気持ちになるなら好きにならなければよかった。彼女の告白に応えなければよかった。何もかも否定したくなる自分の弱さに何より嫌気が差す。
 日の暮れた山頂の鳥の巣に置き去りにされたようだった。誰も迎えに来てくれない。目を開けても閉じても暗闇だった。


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