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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑯


 週末からさっそく参加した。サークルは民間団体の職員を含めた総勢22名で活動しており、メンバーは同じぐらいの年齢がほとんど。気安い人達ばかりで、すぐ打ち解けられた。初音ちゃんが人気者だったので、新参者の僕も歓迎してもらえたのだ。
 車を持ってる僕はドライバーとして保護した子達を動物病院に連れていったり、里親になってくれる人の所に届けに行くのが主な仕事だった。相棒はいつも初音ちゃんだった。わだかまりはなかった。以前と変わらぬ空気のまま長い時間車中で過ごし、冗談を言い合っては笑った。だが保護現場から帰るしなには無言になってしまうことも度々だった。あまりに凄惨で目を覆いたくなるような現実に直面してやりきれなくなるからだ。
 エアガンで撃たれた傷だらけの猫。身勝手なブリーダーが無理やり繁殖した犬を狭いゲージに閉じ込めたまま行方をくらませる飼育放棄。多頭崩壊の現場のあとは特に言葉を失う。鼻がもげそうな強烈な臭い。あちこちに横たわる腐乱した死骸。その環境でも生き抜こうとする猫たちのたくましさ。
 初音ちゃんはつなぎの制服で、マスク、ゴーグル、手袋を必ず装着して、害虫と害獣だらけの壮絶な現場でも臆せず乗り込んで行く。男の僕でも足が竦むような地獄絵図から彼らを救いだし、小さい命をひとつでも多く救おうとした。もう虫の息でも生きていれば助ける。そのモットーは決して変えることはなかった。
 栄養失調で目が見えない。骨が変形して歩けない。感染症で半年持たない。そういう犬や猫にこそ愛情を注ぎ、汚れた体を丁寧に洗ってやり、柔らかい食事を与え、清潔な毛布で寝かしてやった。その手の掛け方は人間の子供を世話するのと同じで、生まれてこれなかった自身の子供への罪滅ぼしをしているようだった。この子だけは助ける。きっと助けてあげるから。生きるんだよ、と言っているみたいに。彼らを救うことで初音ちゃんの傷が少しでも癒えるのなら、僕も一緒にやろうと決めた。無責任な飼い主のせいで犠牲になった動物たちを大学生が世話して、新しい飼い主を探す。それこそが若い人間のやることだと思った。
 あくまで僕はヘルプ要因だったが、呼ばれれば時間を作って車を出した。
スーパーの袋に詰めて川原に捨てられていた四匹の子猫と対面した時は怒りで涙が込み上げた。施設に連れて帰り、籠から出すと、猫たちは固まってすやすや寝ていた。何も知らないなら知らないままがいい。二頭身の猫たちの天下泰平な寝姿に、なんだか胸がいっぱいになった。

「今日、健太郎君の部屋に行ってもいい?」
 川崎まで柴犬を届けた帰りに初音ちゃんが言った。もう二歳を過ぎていた柴犬で、引き取り手が見つからないかもと心配していたが、彼を気に入った四十代の夫婦が飼い主になってくれたのだ。トライアルでも相性がよく、以前も犬を飼っていたというので、安心して任せられた。僕らは安堵からどちらもいい気分になっていた。
「一緒に住んでた友達が先月韓国に留学しちゃったの。もうひとりの子は音楽が好きでライブばっかり行ってるから、最近いっつもひとりなんだ。夜ひとりになりたくないからシェアハウスにしたのに、結局誰もいないんだもん。家が広いから余計寂しくって」
 初音ちゃんらしかった。寂しいと素直に言えるのは人を信頼してるからだ。彼女はスマホを見るよりも人と話す方を好む。ひとりが楽という言葉が存在しない。だから僕もガードを緩めてしまう。夜に二人きりはまずいと察知してるのに、いいよと、新しい部屋に初音ちゃんを招いた。

「すごい。まだちゃんと続けてるんだ」
 玄関の靴箱の上に、おととい飾ったばかりのラナンキュラスが活けてあった。鮮やかなオレンジ色がふんわり咲いている。
 まあね、と言ったが、実はちょくちょく忘れている。おととい、学校帰りの花屋のディスプレイが綺麗で目を引いたので、思い出して買っただけだった。キンポウゲとも呼ばれているが、葉っぱの形がそれに似てることから、ラナンキュラスの名前の由来は「カエル」という。それに親近感を覚えた。薔薇みたいに花びらが幾重にも重なって咲くが、フォルムは丸っこくって愛らしい。オレンジ色だったのは偶然かもしれないが、知らず知らずに初音ちゃんのイメージに引っ張られていたとも言えなくはなかった。いつかはここに来るだろう。その準備を無意識のうちにしており、似合いそうな花をチョイスしていたのかもしれなかった。
「部屋が変わっても健太郎君がいると健太郎君の匂いになるんだね」
 ホットミルクティーを飲みながら初音ちゃんは部屋を見回した。春なのに冷える夜で、ガスストーブを点けていた。
 深夜を回った頃「あたしね」と初音ちゃんは話し出した。半年前から妻子ある男と付き合ってる。十九歳年上の心理学のセミナーの講師で、旅行に行こうと誘われてるけど、どうしようか迷ってると言った。
 僕はそれまでコーヒーを飲んでいたが、アルコールがほしくなり、冷蔵庫からあるだけの酒を持ってきて二人で飲んだ。小さいテーブルを間にして、
僕はラグマットに肘を付いて寝転んでいた。
「健太郎君は彼女いるの?」
 レモンサワーを飲んでいる初音ちゃんに「いないよ」と答えた。
「前の彼女は?向こうに住んでたときの」
「ボストンに行った。まだ連絡は取り合ってるけどね。別れる時のいい友達でいましょうは嘘だと思ってたけど、絶賛実証中だよ。もう会う約束はないけどね」
「会いに行けばいいのに。来るなとは言われてないんでしょ?」
「邪魔するだけだから。元気でやってくれてるならそれでいいんだ」
「今も好きなの?」
「好きだよ。あの人のことは一生好きなんだ。なにがあっても嫌いにはならない。ファンなんだ。だからいいところしか見えないし、見えないままでいいんだ。彼女じゃなくても好きでいられる。死ぬまで憧れの人だから」
 自分でもこれが本心か虚勢か区別が付かなかった。希望通りにはなったけど、期待通りにはならなかった結末。不満はないが、溜め息はあった。
「じゃあ健太郎君、今はフリーなんだ」
「そうだよ。猫と一緒。引き取り手待ちだよ」
「背も高くて頭もよくてカッコいいのに。みんな見る目ないんだね」
「はは。励ましのお便りありがとう。その言葉だけで今夜はぐっすり眠れそうだよ」
「相変わらず褒め言葉信じないんだね。どうして自分のいいところ認めてあげないの?あたしは一回も嘘なんか付いてないのに」
 初音ちゃんは口を曲げた。納得できないことがあった時の昔からの癖だ。僕はサワーの残りを飲み干して仰向けに倒れた。
「ごめん。飲んじゃった。送ってくつもりだったのに」
 腕を目に置いた。黒い波がじわじわと迫って来ていた。星野朱里というセンチメンタルが抜けると、僕はただのいいかげんな男になる。正確に言えばなりたくなるのだ。多分こっちが本当の僕で、どこまでも嫌な奴になっても構わないと思うのだ。
 マンションの前の公園で弾き語りしてるラブソングが聞こえた。行き場のない二人を夜が包む歌で、不安定なギターが静けさに浮遊していた。
「酔ってると変なことしそうだから帰りなよ。僕がどういう男か知ってるんだから」
 憂鬱なのか苛立ってるのか分からなかった。世界中から軽蔑されたい。そんな気分だった。しいんとした明るい部屋で踊り続けるストーブの炎。初音ちゃんの手が頬に触れた。懐かしい肌だった。しっとりして柔らかい。
「健太郎君がいないと間違うの。いっつも、違う方向に進んじゃうの」
 僕の胸に顔を伏せた。そして、いいよね、ここ東京だもん、と呟いた。そうだなと思った。初音ちゃんの小さい頭に手を置き、ぐっと抱き寄せた。
 
 沈殿物が底に残り続けていれば、やはり完全な真水には戻れない。常時の世話が必要が猫や犬をこの部屋で面倒みた。なので僕は部屋で煙草を吸うのを止めた。ミルクをあげながら色々話すけれど、初音ちゃんは僕の前で恋人の話はしなかった。僕も口出ししないと決めていた。
 あくまでいとこ。束縛も干渉もしない。だから長い時間部屋にいても一度もケンカしなかった。わざわざ深刻にしないし、文学的思考で関係を分析することも、いいわけもしなかった。一緒に眠り、思い付きで遠くの海や世界遺産を見に遠出した。
「本当は健太郎君が一番好きなんだよ」
 車の中で肩を寄せ合いながら初音ちゃんは言った。僕は煙草を吸いつつ「うん」と答える。嘘でも本音でもどちらでもいい。だがいつも産婦人科医に言われたことがちらつく。不倫もある種の自傷行為だが、いとこと寝るのが正しいとも言えない。けれど隣に初音ちゃんの寝息が聞こえると僕も落ち着く。空白が埋められたような錯覚を起こす。
 いっそこのまま燃え尽きたかった。先を考えたくなかった。心の片隅にはまだ先輩がいる。でも離れられない。誰も撃ってくれないから、巣穴から出て普通に街を歩いていた。猛獣が二匹もいるのに誰も気付いていなかった。
 僕は内緒で相手の男の書いた心理学の本を図書館で読破した。十九歳も年下の教え子と不倫してるくせに、恋愛の指南書を何冊も出版していて「人間は恋愛に目が眩むと判断を見誤る。冷静を失い茨の道でも突き進む」とか、ぬかしてやがる。てめえのことだろと失笑する。
 ケッタイなこと言いやがって。僕はムカついて棚に戻すときは必ず逆さまに置いた。頭の血が下がるようにと。初音ちゃんに感想も批判も言わないが、彼の一文がやたら胸に残る時はすべて壊したくなる。初音ちゃんが憎たらしくなり「もう来るな」と追い出したくなる。それを寸でで止めるのが行き場のない彼らだった。協力しなければ死んでしまう命。彼らを愛すことで繰り返される愚かさ。僕は自分がどういう人間なのかどんどん分からなくなっていった。けれど突然に用事ができたと告げ、男に会うために猫も一緒に連れていなくなってしまうと、全身が空っぽになり、床の上の皿をそのままに何日も過ごす。引き止めず、断ち切れないまま、流れるプールにたゆたう無為な日々を過ごした。

 

⑰最終話へ続く https://note.com/joyous_panda989/n/n90f047e57c1a


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