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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑫


「ーありがとう」
 初音ちゃんは受け取って頬に当てた。そしてゆっくり膝に手を置くと、僕の両親に頭を下げた。
「叔母ちゃんごめんね。叔父ちゃんもほんとにごめんなさい…。健太郎君に迷惑掛けるつもりなかったんだけど、巻き込んじゃって…。ほんとにほんとにごめんなさい…」
 父はずっと黙りこくっていた。母は額に手を当て「どうしてあたしに言ってくれなかったのよ」と大きく息を吐いた。
「健太郎は受験生なのよ。これからが大変なの。まさかそんな事情があるなんて思いもしなかったから、気付けなかったあたしも悪いけど、こんな子供二人で大きい問題抱えて、懸命に病院探してたなんて胸が痛いわよ。可哀想になるわ。たまんないわよ。よく姉さんそんなことができたわね。身重の娘をひとりだけこっちに寄越すなんて。初音ちゃんがちゃんとここに来てくれたからよかったけど、もし途中でよからぬ考えに走ってたらどうするつもりだったの。そういうとこまで考えていたの?」
 母が詰め寄ると、伯母は正座したまま「ー信頼してたから」と言った。
「信頼してたからひとりで行かせたのよ。健太郎のとこなら行けると思ったから」
 伯母に悪びれる様子はなかった。悪いことをしたと思ってないから当然だった。さっきから伯母だけがこの会合にほとんど参加していない。他人事みたいにうわべだけの謝罪をしていた。その態度は母の限界を越えさせた。
「じゃあなによ。初めから健太郎に頼めばなんとかしてくれると思ってこっちに寄越したってわけ?冗談じゃないわよ。自分達の周りだけ安泰ならそれでいいの?健太郎もあたしたちもまだここに暮らすのよ。この子が若い女の子と産婦人科にいただなんて、誰かに目撃されていたらどうなるのよ。こんな狭い町なのよ。あっという間に噂が広がって、学校だって通えなくなるし、あたしたちだって白い目で見られるじゃないの…!」
 こんなに興奮してる母を見るのは初めてだった。どこに怒りをぶつけていいのか分からないのだ。初音ちゃんを来させた姉だけでなく、今日まで何も気付かなかった自分にも苛立っているからだ。激しく呼吸しながら涙を拭っていた。
「ほんとにごめんなさい!」
 突如初音ちゃんは立ち上がって大きな声で言った。
「あたしが全部悪いの。あたしが健太郎君に頼んだの。ほんとにほんとにごめんなさい。もう、もう絶対健太郎君には会わないから、絶対迷惑掛けないから、許してください!」
 手首で目を抑えながら初音ちゃんは居間を出ていった。僕はすぐさま追いかけた。居間から離れている僕の部屋まで連れてくると、泣きじゃくる初音ちゃんを胸に納めて髪や背中を撫でた。どちらの服もまだ湿っていた。何度もごめんねを繰り返す初音ちゃんに「もういいよ」と辛くなった。
「初音ちゃんは頑張ったよ。謝る必要なんてない。ここに来てくれてよかったって思ってる。自分で終わらせたんだからえらいよ。結局何もできなかった僕の方が恥ずかしいぐらいだ。力になれなくてごめん。役立たずで、自分のことばっかりで、僕こそ悪かったよ」
 自分の口からこんな言葉が出るのかと思った。けど優しい言葉を発すると騒いでいた心が静まる。嘘ではない。なにがあっても僕はこの子の味方だ。だから今、初音ちゃんを抱き留められていると実感できていた。

 しばらくすると部屋の扉がノックされた。
「終わったからおいで」父の声がした。「伯母さんたち帰るそうだから」
 目を合わせた時に分かっていた。ここを出たら僕らは長い時間会えなくなると。もう口にしてはいけないとしても、特別だった夏の日を忘れたくなかった。扉を開く一瞬、初音ちゃんはくるりと振り向いて僕の首に両腕を回した。その体を強く抱きしめた。そして惜しむように、熱を切るように、別れの言葉は告げず、指をほどいた。
 部屋を出て行くと、伯母が階段の上から僕らを見ていた。「着替えてきなさい」と静かな声で初音ちゃんに言った。歩きだした初音ちゃんはこちらをそっと振り向き「お水、お願いしていい?」と出窓の花瓶に目をやった。
 うんと僕は頷いた。「毎日替えるよ」
 初音ちゃんが着替えに行き、父もいなくなり、狭い階段の上と下に伯母と僕だけが残っていた。
「健太郎、ありがとうね」 伯母は僕を見ながら目を細めた。
「申し訳なかったけど、あんたしかいなかったのよ。初音を救えるのは」
「そう。どうして?」
「あんたがよく知ってるじゃないの。あたしはいいけどあんたのお母さんは許してくれないでしょ。いとこに恋してるなんて。引き離すしかなかったのよ。あの子はブレーキの掛け方を知らないから。今回のことはあたしにも責任があるの。初音を寂しくさせたからね。あの子はここにくるの渋ってたけど、あたしが無理やり行かせたの。あんたなら支えてくれると思ってね。昔から、迷子になった初音を連れて帰ってきてくれるの健太郎だったから」
 どこか満足げに伯母は微笑んだ。そこに悔悟は感じなかった。あくまで仮定だが、もしかしたら伯母は若い頃に同じ経験をしたのではないかと思った。それを経てきたからこそ今の幸せがある。あの時にあの選択をしたのは間違いじゃない…。伯母自身がそれを強く実感してるならば、初音ちゃんをここに来させた理由がわかる。こんなことで人生をふいにできないのだと。
 もちろんそんなことは聞けない。僕の想像に過ぎないけれど、潔いほどの決断の早さは、それが正しいと断言できるからだと思えば、全ての辻褄が合う気がした。僕はその計画にうまく使われ、まんまと乗っかり、してやられた。伯母はこの事態の解決のためなら経過などどうでもよく、結果がすべてで、思い通りに成功したのだ。
 僕はため息を吐き捨てた。全部仕組まれていたと思うとつまらぬ感傷が消えた。図書カードはただのおまけ。初音ちゃんの恋心と引き換えに、いとこ以上の繋がりを持たせ、人知れず堕胎手術に協力させる。画策して実践させた伯母に対し、洗脳タウンの恐ろしさをしみじみ実感するばかりだった。
 初音ちゃんが着替えを済ませると、伯母たちはさっさと荷物をまとめ、玄関先で頭三つ並べて直角にお辞儀してから車に乗った。初音ちゃんは僕に手を振ることなく離れていった。
 止まない雨が風景に白いカーテンを掛けていた。すぐに小さくなっていった車。僕の目に映るのは、青々とした木々が生い茂る山ばかりの見慣れた過疎の景色だけだった。
 
 三人になったあと、両親は僕を責めたり問い詰めたりしなかった。母はしばらくちゃぶ台に頬杖をついて考え込んでいたが、六時半になるといつものように夕食の支度を始めた。
 仕事の途中で抜け出してきたから一旦戻ると父は言った。僕は家にいるのが嫌だったので一緒に行ってもいいかと聞くと「構わない」と言い、数年振りに父の営む工房を訪れた。
 町外れにぽつんとある工房は父を含めた四人の職人さんで細々と経営していた。壁一面の棚に並ぶミリ単位で大きさの違う木枠の足型。縫製の台の周りには、切り取られた色も素材も様々の布や革が物干し竿にぶら下がっていて、まるで新種の虫のようだった。木屑や端切れが床に散らばり、父専用の作業台には使い慣らされて黒ずんだ工具が置いてあった。
 仕事が丁寧で腕のいい父の元には県外からもオーダーがくる。机の前の壁には本人しか読めぬようなスケジュール表が貼られていて、所々に丸が付けられていた。
 完成品を保管する棚に、女の子用の小さな赤い靴があった。ピカピカしたエナメル。バンドを留める金具がハートマークになっていて、名前のイニシャルなのか、かかとに「R」と金色の筆記体で彫られていた。
「皆川さんとこのお孫さんの5歳の誕生日プレゼントだってよ」
 机のスタンドを点けた父がポツリと言った。
「父さんが作ったの?」
「ああ」父は煙草を咥えて答えた。
「女の子の靴は可愛いよ。初音ちゃんにも一足作ってやりたかったなあ」
 僕は父の太い肩を眺め、小さな赤い靴をもう一度見つめた。
「父さんの跡継いで、靴職人になろうかな」
 何気なく呟くと「それでは駄目だ」と父は工具を箱にしまった。
「お前は頭がいいんだから、頭を使う仕事をしろ。こんな所にいつまでもいないで、広い世界を見に行ってこい。田舎は年寄りと子供が過ごすにはいいが、未来ある若者がいる場所じゃない。おれはお前にここにいてほしいと思ってない。出て行ける人間になってほしい。靴職人なんてのは靴職人にしかなれない奴がなるもんだ。お前は勉強ができる。それはすごい才能で、世界に飛び出せるパスポートだ。それをちゃんと活かせ。母さんだってお前をここに閉じ込めたくないから勉強をさせたんだ。お前を甘く育てたとは思ってない。ちゃんと考えられる子になったと思ってる。少々問題はあってもな」
 父は僕の隣に来ると、パッケージを軽く揺すって煙草を斜めに向けた。僕は一秒父と目を合わせ、そっと一本抜いて口に咥えた。父がライターで火を点けてくれた。もう僕の方が背が高いので、首を下に突き出した。
 開いた窓の前で二人並んで煙草を吸った。工房の脇に立つ楡の木の葉っぱがカサコソ囁く。さっきより小降りになっていた。黄色い明かりに佇みながら、降り続く糸のような細かい雨を黙って見ていた。
 
 夏休み最後の日、僕は星野先輩の家に行くことにした。当分忙しくなりそうだからだ。
 例の廃棄物問題で新学期から学校が立ち入り禁止になり、昨年生徒不足で廃校になった十五キロ先の中学校を仮校舎として使うことになったからだ。二十分も登下校時間が追加され、母の提案通りに予備校にも行くことにした。父の言葉がそうさせた。知識や言語が僕を自由にしてくれるなら、それが翼にも武器にもなるなら、もっと勉強しようと思ったのだ。
 二学期から僕は自由な時間は一切なくなる。その前に会っておきたかった。工房から帰った夜に『明日行ってもいいですか』と彼女に送った。十分もせずに『待ってるわ。ありがとう』と返事が来た。
 先輩が自殺未遂してから十日が経っていた。会うのには勇気がいった。送信したあとにも迷いが生じる。未だに何が正しいのか分からない。彼女が好きで救いたいからこそ辛くなる。最善を尽くせない自分に腹が立つ。だがそれは横暴で傲慢な考えだと思うようになった。人ひとりの人生を僕がどうにかできるわけがない。彼女が決めることで、その彼女を受け入れればいい。
それが幸せならば、何も言うまいと思った。
 部屋で煙草を吸いながら、もう会えないいとこのことを考えていた。初音ちゃんも今頃僕を思ってるかもしれない。けれど彼女はこれから濃度を薄めるように記憶に水を足してゆき、ここでの出来事を忘れてゆくのだろう。
 中絶の忌まわしい過去と共に僕らのことも彼方に押し流し、何事もなかったように数年後に再会する。平然と会話し、笑って別れ、次に会う時はどちらかの結婚式だったりする。そうして「いとこ」という真水に戻る。なんにもなかったみたいに。
 すべて世はこともなし。僕は煙草を指に挟みつつ呟いた。思い出して机の中から未提出の進路希望の用紙を取り出し、第一志望の欄に「東京大学」と書いた。合格する確率は低いが、とにかく高い所を目指すことにした。
 町を出よう。はっきりと決意した。そしてこれを最後の一本にして、今日で煙草を止めようと誓った。

 八月三十一日はバカみたいに暑い日だった。自転車で星野家に向かいながら、きっと宇宙人が地球上の人類を滅ぼそうとしてんだと呪った。けど僕は世界最強だから絶対こんなことでは死なない。クッソと唱えながらペダルを漕いだ。そのぐらい思わないとぶっ倒れそうな猛暑で、昼間の町は蒸し焼き状態だった。花屋で買ったアプリコットカラーの薔薇がしおれないかと、何度も確かめた。
 僕の家から彼女宅まで自転車で四十分。長い距離。潰した果汁のような汗が吹き出してくる。ああやっぱり死ぬかも。ばたーんと命を落とすことを覚悟しつつ、炎天下のうだる灼熱と戦いながら足を動かした。
 絶対メロスより疲れてるとゼイゼイ言いながら、やっと星野家に到着した。携帯で連絡すると『開いてるからどうぞ』と返事が来た。大きい門扉の隣にある栞戸をくぐって中に入った。まだ歩くのかといやになるぐらい広い庭は日差しが燦々と照りつけて、どこも渇ききっていた。
 自転車を停めてから花を持って歩き出すと、右側のガレージで辻井が白いベンツを磨いていた。僕に気付いた彼は「いらっしゃいませ」と手を止め、姿勢を正して僕にお辞儀した。
「こんにちは」僕も挨拶をした。相変わらず無愛想な男だが、毎回僕が家に入るまで見送ってくれる。暑い中立たせて申し訳ないので、早足で突っ切り、エントランスの階段を登った。彼なりの礼儀なのか、師匠である母親の教えなのかは知らぬが、返って気を遣うから止めてほしかった。
 金色の取っ手を掴んで引くと、玄関にはもう車椅子の彼女が待っていた。すぐ横におとなしく座ったライルもいた。開けた瞬間から涼しさに包まれ、太陽から南極に来たみたいだった。
「いらっしゃい。来てくれてありがとう」
 彼女は微笑んだ。ピンクベージュのシフォン生地のワンピースに、髪を緩く結んでいた。季節が届かない場所にいる彼女は、今が真夏とは思えない真白な肌をしていて、陶器の置物のようだった。
 僕は彼女に会う前はいつも少し憂鬱になるのだが、対面すると魅了される。透けるまなざしに秒で心を溶かされてしまうのだ。
「暑かった?」
 彼女はタイヤを回して僕に近付いた。ほっそりした首元を見ながら「うん」と答えた。痩せたなと思った。筋や骨が浮き出ている。かつての光と疾風が似合う健康的な輝きはもう消えかけていた。
「こんなに汗が…」
 手を伸ばしてきた彼女の近くにしゃがんだ。冷たい指が頬や首をなぞる。やがて声を震わせて涙を浮かべた。波のように僕の中から言葉が引いてゆく。小さな王国の哀しい女王である彼女に何も言えなくなる。白枝の手を握り、頬を伝う涙を拭いた。三本だけの薔薇の花束を渡すと「とっても綺麗…」と最後の気力みたいに弱々しく笑った。
 
 同じ速さで付いてくるライルと一緒に、車椅子を押して応接室にやって来た。母親がこれから発表会の打ち合わせで出掛けるらしく、いつももてなしてくれる家政婦はそちらの支度の手伝いをしていたので、僕と彼女で飲み物のカップを用意した。とはいえあらかじめ僕が来ると知っていたので準備は万端だった。
 きつね色のアップルパイ、熟したメロン、二種類のパスタ。瑞々しいグリーンサラダ。雲みたいなマッシュポテト、前においしいと言ったのを覚えていたらしい、スライスのローストビーフが食欲をそそるワイン色をして白い皿に寝そべっていた。
 僕らは並んでソファーに腰掛けた。彼女はアップルパイを切り分け、全部の料理をまんべんなく皿によそってくれた。香りに誘われたライルがローストビーフを欲しがって鼻を動かしながら息を荒げて近付いてきた。普段わがままをしないライルのおねだりに彼女は声を出して笑った。
 僕は一緒に笑いながら食事をしていたが、注意深く彼女を見ていた。燥ぎ過ぎないかと。今元気そうに見えても、ほんの十日前彼女は死に近付こうとしたのだ。その反動が怖かった。そして数時間後には今日会いに来た理由を明かさなくてはならない。彼女の精神状態の機微を慎重に見極める必要があった。
 紅茶を飲んでいると母親がやって来た。髪を結いあげて、白地に薄紫の桔梗が描かれた着物に濃緑の帯を締めていた。母子ともにうりざね顔の美人で、しゃんとした立ち姿にいつも少し緊張する。母親は相変わらず大袈裟に僕を歓迎し、あれも持ってこい、これも持ってこいと家政婦に次々言うので、僕は立ち上がって遠慮した。
「ゆっくりしていってね。よければお夕食も召し上がっていって。朱里ちゃんもライルとばかりじゃ寂しいわよね。お友達がいたら楽しいものね」
 女優みたいににっこりする母親からは、なんにでもいいから縋りつきたい疲れが伺えた。こんな娘でよければあなたにあげるから、その代わりちゃんと面倒みてやってね。そんな一言が見え隠れしていた。僕は「はい」と礼を述べたものの、今や彼女は家の中でもずいぶん居心地が悪いのだろうと思わずにいられなかった。


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