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いいかげんで偽りのない僕のすべて ②


 廊下をぐるりと回り、階段を降りて僕の基地へとやって来た。もう何度も来てるのに「―いい所」と初音ちゃんはまるで初めてみたいにゆっくり見渡した。
「いいなあ、ここ。あたしも欲しい。秘密部屋みたい」
「うんいいよ。誰も来ないから」
「健太郎君だけの場所だもんね。あれえ、ここ前はテレビあったのに、イスとテーブルだけになってる。昔よくここでお菓子食べながらビデオ観たよねえ。片付けちゃったの?」
「テレビ観ないから本読むスペースにしたんだ」
 ふうん、と初音ちゃんは僕がいつも座ってる一人用のベージュのカウチを指でなぞった。突き当たりの壁は出窓になっていて、奥行き15センチぐらいの肩の高さのスペースにオレンジのガーベラが一輪青い花瓶に挿してある。
「健太郎君が飾ったの?」
「そうだよ」
「綺麗だね。こういうとこ、ほんとマメだよね」
「わざと自分に仕事与えてんだ。別にやらなくても人に迷惑は掛からないけど、自分で決めたこと自分でちゃんとやれるか試してんの。花ひとつ、きちんと活けられない人間になりたくなくて」
 それは本当だった。僕は一人っ子なので、誰かと何かを共用したり、分け合ったりする習慣がなく、マイペースのまま育ってきた。息子としてやるべきことはやっているが、個人として与えられた役割がなにもないなとある日気付いたのだ。それで二週間ごとに花を替えて飾ることにした。
 きっかけは先輩のお見舞いに行ったことだった。今はあまり見舞いに花など持って行かないらしいのだが、僕は知らずに入院先に花を買って行った。
なので病室には花瓶がなかった。それでペットボトルを即席の花瓶にすると、先輩はとても喜んでくれた。以来毎回必ず花を持って病室を訪問した。おかげで僕は花の名前に詳しくなり、先輩が退院してからも花屋を覗くのが習慣になり、これからは自分のために花を飾ることにしたのだ。小さくて美しいものを愛でる楽しみと共に、誰に頼まれるわけでもなければ、なくても生活に支障のない「花を活ける」という作業を課すことで、心に余裕を持つ自分でいたいと、もう一年近く途切れずに続いていた。
「それは初音ちゃんのイメージで選んだんだよ」
 僕が持つ初音ちゃんの印象は元気で無邪気な女の子だった。よく笑う子。
だから初音ちゃんが来るとなった時、迷わずこのオレンジ色のガーベラを選んだ。屈託ない笑顔と花の形が似てるからだ。初音ちゃんはガーベラをじいっと見上げると「あたしこの花好き」と開いた笑顔を僕に向けた。素直な言葉を迷わず言えるところは昔のままで、性格も茎みたいに真っ直ぐだった。
 
 右側にある僕の部屋はとても広く、ふた間に別れている。曇りガラスの戸を開けてすぐの手前が勉強部屋で奥が寝室。勉強部屋には窓があるが、寝室にはないので、中に入ると少し暗い。けれど僕にはちょうどよく落ち着ける陰影。だから勉強も捗るし、ひとりの世界にどっぷりと浸れる。城に籠る将軍みたいに、自分なりの戦略を立てるにはもってこいの空間であった。
 初音ちゃんは壁の本棚を見て回り、数年前から鎮座してるキャビネットのドロップ缶を指差して「わあ、まだあるんだ」と笑った。
「昔は初音ちゃん、よくここに来てたよね。勉強一緒にやってさ。あの頃と家具も配置も変わってないけど」
「毎年夏休みの宿題手伝ってもらってたもんね。数学なんかいつもあっという間に終わっちゃってさ、お母さんにまた健太郎君にやってもらったんでしょって怒られた。ねえ、健太郎君に宿題やってもらってる間、あたしいつも何してたか覚えてる?」
「うん。いつもそっちで寝てたね」
 続き部屋のベッドを指した。あははと初音ちゃんは笑い「だってここ居心地いいんだもん」とキャスター付きの椅子に横座りした。そして背凭れに顔を乗せ「ほんとに寝てたと思う?」と覗き込むように僕をじっと見た。
「寝てたでしょ」
「寝てないよ。寝たふりしてたの」
「なんで?」
「あたしが寝たあと、健太郎君がひとりで何するのかを知りたかったから。
寝たふりして観察してたの」
 初音ちゃんと顔を合わせる僕の前を天使が通った。
「なんでそんなこと知りたかったの?」
「興味あったから」
「何に?」
「男の子に」
 初音ちゃんは目線を変えずに言った。
「あたしと健太郎君はいとこ同士だけど、一応男と女じゃない。だから二人っきりの部屋であたしが寝てたらどうするのかなって知りたかったの。中学ぐらいからみんな彼氏出来はじめてさ、会話に全然付いて行けなくなって、男の子の生態知りたくて、寝たふりして健太郎君をこっそり見てたんだ。みんなと話合わせたくて」
 初音ちゃんはあくまであっけらかんとしていた。僕は本棚の下にあるブルーグリーンのローソファーに腰かけて頭を掻いた。
「怒った?」
 子ネズミの顔が聞いた。
「怒ってはないけど、へんなの」
「そうかな」
「そうだよ。なんかされたかったって聞こえるよ。してほしかったの?」
「分からない。でも知り合いで家に行ける男の子って健太郎君しかいなかったから。半分怖いけど、半分安心みたいな。薄目開けながらちょっとドキドキするんだけど、健太郎君、宿題終わったらいつも本読んでたんだよね。
ここに座って、あたしのことちらっと見るんだけど、それでおしまい。だからなんにもなかったもんね」
 リアクションが取れない僕を無視して「でも、嬉しかったんだ」と初音ちゃんはくるりと椅子を一回転させた。
「健太郎君ずっと同じ部屋にいてくれたでしょ。あたしが寝ちゃったからってひとりにしないで、目覚めた時見える場所にいてくれた。それであたし、最初は寝たふりだったけど、そのうち安心して本当に眠っちゃったんだよね。起きた時も健太郎君本読んでてさ、あーいたって、少し嬉しいんだ」
 短いスカートから伸びる足はシンクロの選手みたいにぴんと揃えられていた。ワシャワシャと鳴く蟬の合唱が部屋を囲う。クーラーのおかげで汗は引いたが、変なものが肌にまとわりついていた。
「本当に襲われてたらどうしてたの?その可能性もありきと分かっててそんなことしてさ。実害があったらどうしてたわけ?」
「それは、分からない」
「関係性を甘くみない方がいいよ。する奴はするよ。無防備な女の子がベッドに寝てりゃ、チャンスと思うのが男なんだから」
「でも健太郎君はなにもしなかったでしょ」
「自信ある?」
「え?」
「初音ちゃんが眠ったのを確かめてからなんかしてたかもしれないよ。されてないって自信ある?」
 初音ちゃんから表情が消えた。「―したの?」と上目遣いで僕を見た。
「してないよ。けど自分じゃ分からないでしょ。だから止めた方がいいよって言ってんの。まさか今もそんなことしてないよね?男友達の前で寝たふりとかさ。絶対だめだよ。あとで泣きをみるのは女の子なんだから」
 説教なんかしたくないのに言わないでいられなかった。アホか、と内心思っていた。初音ちゃんは黙ったまま口唇を突き出し、椅子の背凭れに寄り掛かりながら「健太郎君、彼女いる?」と唐突な質問した。
「いる?」
 きろりとこっちを見た。僕は座ったまま初音ちゃんと目を合わせ「いるよ」と答えた。
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「どんな人?」
「足が速い人」
「なにそれ」初音ちゃんは笑い「同じ学校の人?」と聞いた。
「うん」
「いつから付き合ってるの?」
「去年の5月ぐらいから」
 質問の意図が分からなかった。単なる年頃の恋愛トークなのかもしれないが、明らかに初音ちゃんは変だった。僕を困惑させようとしてるのか、少しは大人になった自分を認めてほしいのか、僕からなんらかの言葉を引き出そうとしてるような探りのある会話だった。
「そうなんだ。健太郎君、彼女いるんだ。ふうん…」
 初音ちゃんは自分の鼻を触った。半信半疑の口調だった。
「いなそうに見える?」
「いなそうっていうか、いらなさそう。そういうの興味ないかなって勝手に思ってたから。付き合うとかをバカにしてるのかなって」
「そんなことないよ。初音ちゃんはいとこだからなにもしなかっただけで、
他の女の子がベッドで寝てればその気があるのかって思うよ」
「えーほんとー。ねえ彼女ってこの部屋に来たことある?」
「まだないよ」
「一年も付き合ってるのに?」
「散らかってるから。初音ちゃんはもう気心知れてるから抵抗ないけど」
 僕はソファーから立ち上がって「煙草吸っていい?」と聞いた。初音ちゃんは、いいよと答えると「あたしにもちょうだい」と言った。
 キャビネットのドロップ缶の蓋を開けて煙草二本とライターを取り出し、一本を初音ちゃんに渡した。口に咥えた彼女の煙草に火を着けた。
「ありがとう」
 初音ちゃんは煙を吐き出した。僕も自分の煙草に火を着けて、口に挟んだまま、部屋の隅にある空気清浄機のスイッチを押した。ピピッと音がして緑色の小さいランプが点灯すると、風を吸い込むモーターが作動した。
「健太郎君、一日どのくらい吸うの?」
「2、3本かな。煙草ももう高いし、ここでしか吸わないから。誰かに見つかって停学とか面倒起こしたくないしね。初音ちゃんがここで寝てた時も吸ってたでしょ」
「うん。健太郎君優等生だと思ってたからびっくりした。煙草吸うんだって。でも吸い方カッコいいよね。鼻が高いから煙草が似合うよ」
「初音ちゃんはいつ吸うようになったの?」
「ひと月前から」
「なんでまた。なにがきっかけで?」
「知りたい?」
「国家機密じゃなければ」
「んふふ。実はここに来た理由と同じなんだ」
 僕が灰皿を差し出すと、初音ちゃんは灰を軽く落とし、煙草を挟む右手を顔の横に持ってきて僕を見た。
「あたしね、妊娠してるんだ」
 キャッチボールのフライ球を投げるように、ふわりと言った。僕は煙草を咥えたまま止まった。初音ちゃんは黒曜石の目をわずかに逸らし、俯きながら煙草を吸ってゆっくり煙を吐いた。
「堕ろすつもり。産めないし、好きな人の子供でもないから。夏休み中になんとかしなきゃならないから、それでここに来たの。向こうで知り合いに見つかったら色々と大変だしね。ネットとかで調べたら、今は手術も簡単で、 
体に負担が掛からない方法があるんだって。麻酔して寝てる間に終わっちゃって、目が覚めたら帰っていいって。それから特に異状がなければ、一週間後ぐらいにもう一度診てもらって、それでおしまい。入院もしないし、その後不妊とかになったりすることもほとんどないって」
 初音ちゃんは僕の持っていた灰皿に煙草をぎゅっと押し付けて火を消すと、両手を合わせて顎に付けた。
「健太郎君、病院付き添ってくれない?ひとりで行きたくないの。お願い」
 への字の口で初音ちゃんはじっと見つめた。僕は静かに混乱していた。
思いがけない告白に加えて、さらに未経験の頼まれごとをされ、返事に窮した。堕胎手術がどのようなものなのか、それに付き添うとはなんなのか、これまで一度たりとも考えたことがなかったからだ。灰皿を机の上に置き、意味もなく自分の足下を見ていた。
 「堕ろすのが目的で、ここに来たの?」
 同じ表情で初音ちゃんはこくんと頷いた。大きい黒目がさらに大きくなっていた。
「好きじゃない人っていうけど、相手誰なの?まさか、さっき言ってたみたいに、襲われたとかじゃないよね?」
 初音ちゃんは俯いた。僕は焦った。もしそうなら事件だ。しかし初音ちゃんは小さい声で「そう…いうんじゃない…」とぼそぼそ言った。
「脅されたとか、連れ込まれたとか、そういうのではない」
「じゃあ誰さ。別れた彼氏とか?」
 責めるつもりはないが、はっきりさせたかった。いとこが傷付けられたのなら当然許せないからだ。だが初音ちゃんはそれ以上なにも答えなかった。
暗くて明るい部屋に響き渡る油蝉。空気清浄機が煙草の匂いを吸い込み、新しい風を送っていたが、僕らの周りの空気は重く淀んでいた。
「言いたくないならいいけどさ、伯母さんは知ってんの?それでこっちで
手術してきなって言ったわけ?」
 初音ちゃんは頷き、目を伏せたままかすかに口唇を動かした。
「―健太郎に、手紙預かってきたの」
「手紙?」
「お母さんから。待ってて。今持ってくる」
 初音ちゃんは椅子から立ち上がって部屋を出て行き、足音を鳴らして階段を昇っていった。ぱたぱたと走る音がずっと聞こえていて、やがて消え、しばらくすると、逆の順序で近付いてきた。
 部屋に戻ってくると、初音ちゃんは白い封筒を僕に差し出した。もうひとつの手にも別の包み紙を持っていた。僕は封筒を受け取った。表にはなにも書いておらず、煙草を咥えながら封筒の端を破いた。中にはたたまれた二枚の便箋が入っていた。
 初音ちゃんの母親である伯母からの手紙で、彼女が妊娠しているという説明から始まり、どうしても地元では手術できないのだと長い言い訳が続き、
二枚目からは力になってやってほしいとの懇願、残りの六行はひたすらのお願いと謝罪。そして僕の両親も含め、決して誰にも言わないでくれと釘を刺す言葉で締められていた。
 読んでる途中から嫌な気分になった。伯母は初音ちゃんの過ちを叱咤し、
僕に詫びる風な言葉を綴りながらも、結局の所、体面を繕うために、田舎で人知れずさっさと処理してしまいたい本音がありありと見えていたからだ。
こちらの心情などお構いなしに、自分達だけすっきりできればいいという、身勝手な言い分に腹が立った。どうしてその役目が僕なのかの訳注もなく、手紙の最後には読み終えたらすぐに捨ててほしいと書いてあり、僕の気持ちは完全に無視して、三人だけの秘密を守ろう的な約束まで強いられてるのがムカついた。
 手紙の真ん中に煙草を押し付けた。じわじわと焦げ付き、朱色の火が穴の回りを這いながら手紙を燃やしていった。原型のなくなった黒い燃えカスを灰皿に放り、短くなった煙草を苛々しながら吸った。
 「これ」
  初音ちゃんがもうひとつの手にあった包み紙をついと上げた。
「なに?」
「渡してって」
「なんなの?」
「多分、お金」
 初音ちゃんは僕を睨むような目をしていたが、泣き出すのを堪えてるようにも見えた。
「中絶の費用?」
 尋ねると「違う」と首を振った。
「それは持ってる。これはお母さんから健太郎にって。お礼か、謝罪か、
どっちかのお金」
 いらないよ。僕は言った。
「口封じだろ」
 もうこの場から立ち去りたいほど胸がざわついてしょうがなかったが、
聞いてしまった以上、逃げ出すこともままならなかった。初音ちゃんは身の置き所がなさそうに肩を縮めて俯き、所在のないお金を持ったまま、伏せた瞼から涙を溢した。
「ごめん」
 謝った。初音ちゃんはなにも言わずかむりを振った。頬を伝って涙がいくつも落ちていった。けれど僕はもうなにを言えばいいのか見当もつかなかった。妊娠して泣いてる女の子を慰める方法なんか知らない。こういう時に男として上手に振る舞えるほど、僕は優しくもないし、まだ若過ぎたからだ。 

 部屋を出て居間に戻り、母に初音ちゃんが無事到着したことをメールで知らせた。よかった、と返事の後に、『お昼は出前でも頼んで』と言った。
 戸棚には何件かの店のメニュー表と五千円が入っていた。二人とも空腹だったので、十二時前になる前にざるそばと天ぷらのセットを注文した。僕が大盛でと伝えると「あたしも」と初音ちゃんが自分を指差したので、「大盛
二つ」と言い換えた。さっきまでしくしく泣いてたのに、立ち直りが早い。
そういえば初音ちゃんてこうだったなと、電話を切った後に思い出した。
 二十分ほどで顔馴染みの出前持ちがやって来た。鶏みたいにひょこひょこ歩く茶髪の兄ちゃんで、おかもちを手に縁側に座る初音ちゃんを目で追いながら「こんちはー」と玄関に入ってきた。そしてもう待っていた僕に少し眉を上げてにやっとすると、オレンジ色のサンダルに勝手に興奮していた。僕はなにも言わず、可愛い照れ笑いもしなかった。お金を払って「ご苦労様」と挨拶した。
「あざーしたー」と出ていった出前持ちに「ご苦労様でーす」と縁側から初音ちゃんが言うのが聞こえた。鶏の兄ちゃんは僕の時とはまるで違う「どーもー。ありやとやんしたあ」と愛想よく答えた。そして旧式のカブに跨がって振り向き、初音ちゃんに手を上げてから、独特のエンジンを唸らせて帰っていった。やれやれと思いながら、黒塗りのお盆を持ち上げた。
「来たから食べよー」
 居間に運びながら声を掛けた。「はーい」と初音ちゃんは縁側から立ち上がり「あのお兄さん懐かしい。前から来てたよね」と外を指差して言うと「わあ、おいしそう。豪華」とお盆を覗いてにっこりした。僕の方が切り替えられていない。当人だからこそ、もう覚悟ができてるのかもしれないが、どうしてこんなに明るいのか謎でしかなかった。
 居間のちゃぶ台で向かい合って蕎麦を食べた。初音ちゃんは僕と同じ量の蕎麦と天ぷらをテンポよくぱくぱく食べた。
「吐き気とかないの?」
 天ぷらを平気で食べてるので気になった。
「それはもう終わった。六週目ぐらいまでが一番キツいの。今はもう過ぎたから平気」
「六週目過ぎてるって、今どのぐらいなの?まだ手術できる期間なの?」
「十一週目。だから今週の土曜日までになんとかしないといけないの。十二週越えると死産扱いになって、戸籍に残っちゃうから」
 ええっ!と僕は後ろの壁にあるカレンダーを見た。今日が火曜日だから、
あと五日しかない。蕎麦がつかえて咳き込んだ。
「どうしてこんなになるまでなにもしなかったの?もう少し早ければ、体の負担も減らせたのに。誰にも言えなかったから?」
 初音ちゃんは葱を入れたつゆをかき混ぜながら「うん」と答えた。
「伯母さんにはいつ話したの?」
「先々週」
「それでこっちに行ってこいって?」
「全く知らない所よりいいし、一週間はいなきゃいけないから」
「だったら母さんに言えばいいのに。女同士の方がなにかと分かり合える
んだからさ。なんでうちの親にも秘密なわけ?」
 かぼちゃの天ぷらを食べていた初音ちゃんの手が止まり、蕎麦ちょこと箸をかたんと置いた。僕も思わず止まった。
「同意書が必要だから」
 斜め下を見つめながら初音ちゃんは肩をすぼめた。
「同意書にサインしてもらわないと、手術受けられないから」
 ドウイショ?一瞬分からなかった単語が即座に変換された。
「ちょっと待ってよ。なんで同意書にサインしなきゃならないんだよ。それじゃ初音ちゃんを妊娠させた本人ってことになるじゃないか。病院に付き合うだけならまだいいけど、どうして中絶するためのサインまでしなきゃならないんだよ。冗談じゃないよ。ふざけんなよ」
 我慢ならず立ち上がった。みぞおち辺りがきゅううっとねじれるようだった。初音ちゃんは黒い髪の輪っかまで落ちそうに首を曲げた。
 ダメだ。何もかもがリンクしてない。こういう時に人といるのは危険だ。
僕は携帯を掴み「ちょっと出てくる」と縁側にあるサンダルを突っ掛けて外に出ていった。父が庭仕事をする時に使っている古いサンダルは、もう靴底もだいぶ薄く、両側のバンドもかなりへたっていた。何度も脱げ掛けたが、振り向かず坂を走り降りていった。


③へ続く https://note.com/joyous_panda989/n/n478c997a93c0


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