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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑨


 僕は彼女になんて言葉を掛けるつもりでここに来たんだろう。会って、なにをしてやれるというのだ?ごめんと叫んで抱きしめる。死なないでくれと懇願して、一生彼女の足代わりになる。そんなことをしてなにが変わる?誰が幸せになる?思うほどに扉が叩けなかった。
 しばらく佇んでいると、突然内側からドアが開いた。立っていたのは白衣を羽織った男性で、診察に来ていた医師だった。すぐ後ろに看護師の女性もいて、二人と同時に目が合った。僕は彼らに軽く会釈した。
「どうぞ。会えますよ」
 医師が僕に言った。間もなく閉じたカーテンから彼女の母親が顔を出した。嘆き疲れた生気の枯れた土色をしていた。ひとり娘が相次いでこんな事態になったのだから無理もない。僕はドアの前で深く一礼した。謝罪ではない。彼等への労いだった。本当に気の毒だと思った。だからこそ先輩が憎くてしょうがなかった。なぜみんなをこんな気持ちにさせるのかと。
 やりきれないのも分かる。けど両親も僕も彼女をずっと愛し続けてきた。足の有無で思いのメーターが下がったのではない。嫌いになったから別れを切り出したんじゃない。例え今、あなたのせいよと責められられたとしても僕は最後のメールを撤回する気はなかった。絶対に謝りたくなかった。
「朱里ちゃん。あーちゃん。健太郎君来てくれたわよ」
 母親はカーテンの向こうにいる彼女に話しかけていた。どうやら意識はあるらしい。医師たちと入れ違いに部屋に入り、扉を閉めた。母親は僕を呼び寄せると、生き別れの息子と再会したかのように「来てくれてありがとね」と腕を掴んで涙を溢した。僕は黙っていたが全部間違ってると思っていた。
全能じゃない。そんなに託さないでくれ。奇跡を信じるような目で見つめられ、手を振りほどいて逃げ出したくなった。
 広い個室だった。シェードの降りた窓から夏の光が漏れていたが、四隅は暗く、水中みたいに青白く揺らめいていた。奥には彼女の父親が大きく足を広げてソファーに腰掛けていた。挨拶をしたが、彼は憔悴しきった頬で無言のまま目だけで頷いた。
「なんとかね、命は助かったの。そんなに量も多くなかったみたいで、後遺症も残らないらしいから」
 母親は何度も洟を啜った。握り締めたハンカチで拭う目はこのまま溶けてしまいそうにしょぼしょぼして窪んでいた。
「もう、大丈夫なんですか?」
 尋ねると「ええ」と首を折り曲げた。「でも少し入院することにしたの。ちょっとだけ休んだ方がいいってお医者様が仰ってね」
 そうして両目を順番に拭いた。この先に彼女がいる。波打つカーテンに目をやった。複雑な気持ちが募っていた。迷ったがやはり会うことにした。母親と一緒にカーテンの内側に入った。
 ダークブラウンの大きいベッドに横たわる彼女は左手に点滴をしていた。
目は少し虚ろだったが起きていた。頬がこけ、顔色も悪かったが、彼女は相変わらず綺麗だった。まるでそういうタイトルの、衰弱した女性をモデルにした絵画のようだった。死を前にしても美しい。だから余計に哀しかった。
 あーちゃん、健太郎君よ。
 母親が呼び掛けたが、先輩は返事をしなかった。枕に頭を沈めたまま少し息を飲んだ。かすかに膨らむ胸元で、生きていると確認した。
 目の先に僕を捉えながらも、彼女は視線を外していた。次第に口唇がわななき、目頭から涙が溢れてきた。あーちゃん、あーちゃん、と連呼しながら母親は濡れた子犬を抱きしめるみたいに彼女の髪や頬を両手で撫で回した。母子の咽び泣く声が病室に響き渡っていた。
「ー今日は帰ります。また、来ます」
 僕は一礼してカーテンから出た。息苦しかった。斜め後ろに座っていた父親にも頭を下げると、溜め息のような目配せを僕に送った。ちょっと出ようと、ドアの方に顔をしゃくった。
 
 病室を出て、エレベーターホールの近くにある休憩場に移動した。「何か飲む?」と父親は自動販売機の前で僕に聞いたが、いいですと断った。本当に何もほしくなかった。けれど父親は自分の缶コーヒーのついでにペットボトルのオレンジジュースを買い、僕に渡した。いらないとも言えないので「すいません」と受け取った。冷たさが熱い手に気持ちよかった。
 父親は並んでいる長テーブルのパイプ椅子に腰かけた。プルリングを開けてコーヒーをひとくち飲むと「悪かったね」と俯いた。
「止めてるんだけど、あれが精神科に通わせてて、そこで睡眠薬を処方されてるんだ。時々眠れなくなるらしくてね。それが結構残ってたみたいで、夕べちょっと多めに服用したようなんだな。幸い死ぬ量じゃなかったし、胃を洗浄するほどでもないから、点滴で排出させるらしい。一週間ほどで退院できるから心配はないそうだ。あの事故のせいで、何もかも変わってしまった。妻も私もとても臆病になった。あの子を可哀想な子にしてしまったのは私たちだ。君にも心配ばかり掛けて申し訳なかったね」
 父親に見送られて一階に降りると煙草が欲しくなった。会計や薬を待つ人がたくさん座っている総合受付の前を通り抜け、少し先にある売店に寄り「煙草あります?」と店員に聞くと「病院に煙草はありませんよ」とそっけなく言われた。僕のわざとを見抜くような呆れた口調だった。
 専用のシャトルバスで駅に向かった。車内ではラジオが流れていて、男性と女性のパーソナリティーが海外旅行での失敗談を賑やかに話していた。今日はあまり湿気がなく、肌がさらりとしていて、秋の訪れを思わせる水色の空に箒で掃いたみたいな薄雲が伸びていた。僕は窓際の席でずっと外を見ていた。気が付かないうちに涙が流れていた。
 彼女が無事だったのに、生きていて嬉しいはずなのに、素直に喜べない。
心からよかったと思えなかった。何度も何度も胸の中で叫んでいた。
 あんなのは彼女じゃない!
 思う度に目が熱くなり、嗚咽が漏れぬように歯を食い縛りながら、他の乗客に見られないようにと、乱暴に腕で拭った。

 初音ちゃんの病院に着いたときは三時を回っていた。面会時間が始まっていたので病院のドアは開いていたが、出入りのチェックは厳しく、僕は受付の女性に初音ちゃんの兄だと嘘を付いて中に入れてもらった。病院のはしご
なぞうんざりするが、こちらは産婦人科だからか、総合病院の無機質な様相とは雰囲気がまるで違っていた。アットホームで暖かみが感じられた。
 柔らかいピンク色の壁。あちこちに飾られている花。本棚には出産や女性の体に関する本が並んでいて、男子禁制の聖域に足を踏み入れてしまったみたいだった。溶けきらない不純物。全身浄化されそうな消毒液と芳香剤の香り。僕はこの場所では、ただ汚すだけの泥の塊になったような気がした。
 少しすると看護師が迎えに来た。後について初音ちゃんのいる病室に向かった。三階の一番奥、小花の散る空色の壁紙に囲まれた、あまり広くはない個室で初音ちゃんは眠っていた。袂の整えられた、てらてらした生地の薄手のガウンを着ており、寝顔はとても安らかだった。
 手術は無事終わり、母体も安定していると看護師は言った。目が覚めるまで部屋にいてもいいかと聞くと、構わないとカーテンを少し開けた。
 本当は付き添うつもりだったけど予定があって来れなかった。どんな様子だったか尋ねると、とても落ち着いていましたよと話した。僕は安心しながらも、ほんとは不安でいっぱいだったのに、気丈を保った初音ちゃんの懸命さに胸が痛んだ。すいませんでしたと看護師にお辞儀した。ありがとうございますは違う気がしたからだ。若くて綺麗な看護師さんは「辛いことを頑張ったから支えてあげて」と残して病室を去っていった。
 ひとりになってから、部屋にあったパイプ椅子を開いて腰掛けた。カーテンが開いた窓からは海が見渡せた。ややぼんやりしてる水平線。カラフルなヨットの帆がいくつか水面を彩っていたが、何も動いてないみたいに波は凪いでいた。ここを選んでよかったと思った。気持ちがいつしか軽くなる。
 先輩の病院から離れるうちに少しずつ落ち着いてきて、今僕の心は静かだった。こんなに頭の中が空っぽになったのは久しぶりだった。それはきっと側にいたい人の側にいるからだろう。穏やかでいられる。初音ちゃんの寝顔はまるきり無防備で、やっと抱えていた重荷が取れたんだなと思った。
「よく頑張ったね」
 初音ちゃんの髪を撫で、頬に手を添えた。少しすると初音ちゃんを担当した女性医師が部屋に来た。容体に異常がないか確かめると、医師は僕に堕胎後のアフターケアについて話した。体だけでなく、心のケアについて特に長く説明した。
 望まない妊娠をして堕胎した女性は深く傷付き、特に若い頃に経験すると、トラウマや罪悪感に苦しんで心を病んでしまう子もいる。一見普通に生活してるように見えても、本人が無理してるだけで、自傷行為や摂食障害、なんらかの依存症に陥ってしまう場合もあるので、注意深く見守ること。決して責めたり蒸し返さず、本人が立ち直れるまで寄り添ってやってほしいと言い、「お願いね」と僕に微笑んだ。分かりましたと僕は胸に止めた。医師は僕を本当の兄とは思ってなかったと思うが、そのつもりで頷いた。
 
 なにもすることがないので、音声を消したテレビを見るともなく付けていた。刑事ドラマの再放送で、勝手に字幕が出るようになっているため、声がなくてもセリフは分かった。黒い服の刑事が犯人を追い詰めて、いよいよ自白させる場面になった時だった。
 ん…、と初音ちゃんの声がして瞼がピクピクとした。少しずつ呼吸が浅くなりだし、ゆっくり目が開いた。焦点が合わず、どこかぼんやりしていた。まだ頭は目覚めてないようだった。麻酔が効いてるせいだろう。
「初音ちゃん」
 僕は椅子から立ち上がって小さく呼び掛けた。「ー大丈夫?」
 うん…。かすかな返事は空気のようだった。半分起きてて、半分うつつの状態。鈍いまばたきをしていた。
「手術終わったよ。よく頑張ったね。痛いとこない?」
「ーん、だいじょぶ…」初音ちゃんは目を瞑りながら答えた。
「ーああ、終わったんだ…」
 どこか安心したように一度大きく息を吸うと「ー健太郎君、いてくれて…よかった」とにこりとした。僕も自然に笑い返していた。本当によかった。
無事に終わって家に帰れることがとても嬉しかった。
 徐々に目を覚まし、話ができるようになった頃、先ほどの医師が来た。術後の注意事項についての話があると言うので、僕だけ一階の待合室に移動した。三十分ほどして、着替えた初音ちゃんが看護師と一緒にやって来たが、僕に手を振る様子からして大丈夫そうだった。
 今まで二人だったけど、もう一人なんだと思った。最初から見えず、見えないまま消えていった物体。不謹慎ではあるが、もっとせいせいするのかと思っていたのに、重さを感じていた。全部納得した上で、こうするしかないと疑いもなかったのに、ひとつの命を葬った事実は、なにがあろうと美しく語られることはない傷痕として僕の人生に残り続けるのだと思った。何もかもを終えたあとの方が胎児の姿がよく見えるようになっていた。
「タクシー呼びましょうか?」
 会計後に受付の女性が聞いた。「まだ少しボーとしてるでしょ」
「どうする?歩くの辛かったら、そうする?」
 初音ちゃんは「いい」と首を振った。「歩けますから、平気です」

 僕らは並んでクリニックを後にし、おぼつかない足取りの初音ちゃんの手を取って日陰の歩道を歩いた。吹き抜ける海の匂い。潮風が肌を湿らせ、僕らの前髪を踊らせていた。
「大丈夫?疲れたら言って」
 僕が声を掛けると「平気。なんか歩きたいの」と初音ちゃんは答えた。
「無理しないでよ。手術したばかりなんだから」
「辛くなったら言う。今日と明日は安静だって。痛み止めもらってきた」
「うん。ゆっくりしなよ」
「病院でコンドーム3つもくれた。次からはちゃんと避妊しなさいって」
 初音ちゃんは道路の反対側に広がる海に目を向けると「あーあ」と溜め息をついた。
「なんか変な感じ。やっと全部終わったのに、あと少しで向こうに帰ると思うと、なんか寂しいな。海で遊びたかったなあ」
「きっと安心したからそう思うんだよ。向こうに帰って日常が始まれば、ここのことなんか思い出さなくなるよ。でもそれでいいと思うよ。やなことは捨ててゆきなよ。ここはそういうとこだから」
「健太郎君もあたしのこと忘れたい?」
「初音ちゃんが元気になってくれる方がいいから、一緒に忘れてほしいっていうならそうするよ。もうここで会うこともないと思うからね。初音ちゃんにとって苦い思い出があるとこだから、もう来るの辛いでしょ?」
「そんなことないよ。あたしはここが大好きだもん。それとさ、寝てる時夢見てたんだ。悪夢を見るって人もいるらしいけど、あたしは羊に囲まれてる夢見てた。意味は分からないけど、なんかずっと幸せな気分だったんだ」
 家に帰ってから初音ちゃんはずっと寝ていた。軽い熱中症みたいだと母には言っておいた。先輩の様子について聞かれたが、大丈夫そうだと答えた。
彼女の事故は家族も知っていて、僕らが付き合っていることにも気付いているが、特に詮索されたことはない。僕も家族に恋バナなぞ死んでもしないし、彼女が資産家の娘で、学校でも評判のいい人だったので、別にいいと思ってるのかもしれないが、本音の部分は分からなかった。
 
 その晩初音ちゃんは部屋に来なかった。手術後なので当然であった。来たとしても困るからそれで構わない。僕は煙草を吸いながら本を読んでいた。病院のに帰りにお婆さんがひとりでやってる煙草屋で三箱買ってきた。
「あんまり吸いすぎるとよくないよ」
 初音ちゃんは肘でつついたが、僕は、うんと答える側から我慢できずに
その場で一本咥えた。それからもう5本目の喫煙だった。立ち上る煙がゆうるりと空気清浄機に吸い込まれて消えてゆく。誰もやって来ない自分の部屋がやたら広く感じられ、静けさが反対に落ち着かなくさせていた。
 翌日初音ちゃんが元気だったので僕はひとまず安心した。体調の変化がないかと観察していたが、どこか痛むとか、具合が悪いとか、塞ぎこんだりしてる様子は見受けられなかった。数ヵ月前からそのことに心身も生活も支配されて苦しかった初音ちゃんにとっては、やっと終わって解放された安堵の方がずっと大きかったのが伺えた。要らぬものが自分のお腹で膨らんでゆくなぞどれほどの恐怖か計り知れない。普通のありがたみをいやと言うほど実感したからこそ、ただの女の子の何でもない日々を満喫したがっていた。
 だから僕も初音ちゃんと普通に接した。居間で数学を教え、オンラインゲームで対戦し、眠くなったら各々の部屋に戻る。狂った時計の針を直すみたいに僕らは所定の位置に戻っていった。
 ベッドで寝転がっている時、隣に誰かいればいいなあと思った。部屋に人を入れない主義だったのに不思議だった。これが僕の日常。僕の当たり前だったのに、当たり前はなんて退屈なんだろうと思った。
〈かたつむり 枝に這い …すべて世はこともなし〉
 その句を唱えながら眠る日課。そうすることで、ベッドと同じに空いた空間の物足りなさをなんとか埋めようとしていた。


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